悪人と軍人が言うには
夜が更けてくると、夜更かしに慣れている貴族たちも次々に部屋へと帰っていく。
一通り紹介して回ったあと眠そうだったフィオリーナも部屋へと帰した。夜更かしが夜会の常とはいえ、あまり連れ回せば彼女の保護者が黙っていない。
緞帳の奥の休憩所へ引っ込むと、宴のあとの気怠い静寂がたゆたってくる。
クリストフはこの静寂が好きだった。
この時間をひとりで静かに過ごすために夜会を開いていると言ってもいい。
そんな話は一週間前から準備にてんやわんやの使用人たちの前では言わないが、付き合いの長い執事は休憩所で過ごすクリストフに決まって温かい紅茶を持ってくる。
今夜もそんな時間だったが今日は相席がいる。ベロニカだ。
恵まれた体に見合う体力馬鹿の彼もさすがにこの時間となっては疲れもするのか、クリストフに用意された紅茶を勝手にカップに注いで飲んでいる。
せっかくのひとりの時間を邪魔されたものの、たまにはいいかとクリストフは別のことを口にした。
「フィオリーナ嬢は思っていたより使えそうな娘だな」
まるで悪役のように言ったというのに、ベロニカはあきれた顔で笑った。
「あなたみたいな男にも良心があったことに驚いたわよ」
笑いながら指摘されてクリストフは溜息をついた。善人と思われてはたまらない。クリストフは常に悪人でいたいのだ。誰を傷つけても、自分が傷つかないように。
けれど、やはりベロニカの言うようにわずかに残っていた良心が働いたのだろう。ネーヴェの言葉のすべてはフィオリーナに教えなかった。
ネーヴェが王女に言い放った言葉はあれだけではないのだ。
娼婦の子と知ってこのようなふるまいをするのかと臆面もなく吐いたあと、ネーヴェは王女を見下ろしてこう言った。
──それとも、男娼のように私に奉仕されることをお望みですか。
そのときのネーヴェの顔ときたら、思い返してもこれ以上ないほど凄絶だった。
性格は悪いがとにかく見目だけは整った男だ。どこに居ても女ならず男からも秋波を向けられていた。そんな男が笑みを浮かべているのに、目のあった者が凍り付くような殺気を放っていたのだ。
享楽を友とするクリストフですら肝が冷えた。
笑えない笑顔とはこの世に存在したのだと無駄な知見を得たが、この美貌の無礼者を柄にもなく止めに入ろうとした。そんなクリストフだから聞こえたのだろう。
声をなくして固まる王女にネーヴェはなおもささやいたのだ。
──私を立ち退かせたいのなら、そのワインでも浴びせたらどうですか。
不幸にも彼らのそばに居た給仕は今すぐワインを捨ててしまいたかっただろう。
何から何まで徹頭徹尾、失礼な男なのだ。
当然、王女殿下は不運な給仕からワインを取り上げて「ここから出て行きなさい!」と大声を張り上げてネーヴェにワインを浴びせた。
ネーヴェのほうはというと、最大級の拒絶であるワインを頭から浴びたというのに満足げな顔で悠々とその場を去った。
誰もが遠巻きになったあのどうしようもない空気は本当に二度と味わいたくない。
その場に居たクリストフとベロニカ、そして第一王子や第二王女の証言で、ネーヴェは誹りは受けたが咎めは受けなかった。
ネーヴェが王女に放った言葉は、あながち揶揄でもなかったからだ。
社交場で身分が上の女性が身分の低い男性を誘う場合、それはベッドの中までエスコートしろという生臭い誘いの意味もあるのだ。
病気が完治してからの第三王女は奔放だった。それは男に対しても同じで、自分が目をつけた男を誰でも誘っていたのだ。王女の興味は男の身分の上下や婚約者の有無すら関係なく、婚約者の裏切りに泣く女たちを横目に、王女の寵を得ようと群がる男たちに囲まれていた。そして、このことは少し事情に詳しい者なら誰もが知っていた。
ネーヴェはこの事情を知っていたのだ。無礼な男だが馬鹿ではない。
公衆の面前で手酷く拒絶したことで、王女はもう二度とおおっぴらにネーヴェに声をかけることはできなくなった。王家主催の舞踏会で拒絶した男にまた粉をかけでもすれば、無傷で済まないのは第三王女のほうだ。それを分かったうえでネーヴェはワインをかぶった。ネーヴェはまんまと貴族の慣習を利用したのだ。
このようにたしかに馬鹿ではないが、やはりネーヴェは馬鹿だとクリストフは思っている。
クリストフさえ気が咎めるような、こんな話をフィオリーナに聞かせる羽目になるところだったのだ。
泣いて感謝してほしいぐらいだったが、あのネーヴェがそんなことをするはずないこともわかっている。
「さて……あのお嬢さんはどうかな」
ネーヴェが連れてきたあの娘が実際にどんな悪女になろうとも、逆立ちしてもネーヴェのねじ曲がった性格に勝てるとは思えなかった。
「面白い子ね。アタシは気に入ったわ」
ベロニカが隣で満足そうに紅茶を飲んでいる。彼のドレスは王都でも人気だ。そのドレスを惜しげもなく贈るぐらいには気に入ったということだろう。
「さんざん利用するようなことを言っておいて」
クリストフの毒にもベロニカは動じない。
「あら、アタシは悪くなかったと思うわよ。あなたのご高説」
ご高説、と言われてクリストフも苦笑する。ネーヴェの薬は必要だ。それは鉱山をもつ領主なら今誰でも持っている危機感だからだ。今の議会では鉱山をどう運用するかばかりが取り沙汰されて、その土地に暮らす者がどうなるのかさえ議題にのぼらない。放置してはならない火種があるのに問題に手をつけようとしないのは、貴賤を問わず人間の悪癖だ。
きっかけは何でもいい。たとえフィオリーナが悪女になれなくてもかまわないし、小うるさい悪評などどうでもいい。とにかくネーヴェを再び表舞台へ引っ張り出さなければ話が進まない。
「あの子が失敗したらどうするつもり?」
紅茶を飲みながら、クリストフはベロニカを横目で見て笑う。
「そのときは、ネーヴェと結婚でもしてもらおうかな」
それが罰か褒美かは、あの娘次第だ。
少なくともクリストフは、あの冷血漢がフィオリーナに細心の注意を払って心を砕いているさまがおかしくてたまらない。
「俺は冷たい男じゃないんでね。望みはハッピーエンドだよ」
▽
夜会は夜通し行われることが多い。
だから城には参加者のための部屋が用意されている。
フィオリーナはクリストフやベロニカにあらかた知人を紹介されてから休むことにした。翌朝にはオルミ領へ帰るからだ。
ほとほと疲れ果てて部屋へ戻ると、待ちかまえていたアクアがフィオリーナの世話をしてくれる。ラーゴは部屋の前で見張りをするという。
「噂の悪女が来たと知って、良くないことを考える者もいますからね」
そうラーゴに言われて、自分の噂を知るきっかけとなった嫌なことをフィオリーナは思い出した。
──あのときも、どこかの城のこうした部屋へと連れ込まれそうになったのだ。
アクアにドレスを脱がせてもらったり、化粧を落として髪をといてもらうと、やっと元のフィオリーナに戻れた気がした。
「お疲れでしょう。何かお飲みになりますか」
アクアの優しい声がひどく体に染みた。何か温かいものを、と頼むと彼女は音もなく部屋を出る。
アクアを見送ると、備え付けのレモン水だけを飲んでフィオリーナはベッドへ寝そべった。
貸し出された部屋は豪華な調度品が置かれた立派な部屋だ。ベッドには天蓋までついている。
──ここまで豪華な部屋ではなかったが、連れ込まそうになった部屋も調度品がやけに派手だったことは覚えている。
調度品にはめ込まれた磁器の花柄までよく覚えているけれど、フィオリーナを乱暴に引っ張っていった男の顔はまったく思い出せなかった。やたらにやにやと気持ち悪い笑みを浮かべていたことだけは覚えている。
男と遊んでいるんだろう、何をいまさら、などと言われただろうか。言われた言葉もよく覚えていないのだ。
ただただ理解が追いつかない現実と、フィオリーナがどんなにみだらな悪女かという身に覚えもない噂を並べられて、得体のしれない恐怖でいっぱいだった。
たすけて、と叫べたことは、フィオリーナにとって幸運だった。
その声がなければ、きっと助けられることはなかっただろう。
声を上げたフィオリーナに激昂して男が腕を振り上げたところで、別の手が止めたのだ。
それからは本当に怒濤のようだった。
男の腕をいとも簡単にひねりあげたかと思えば、その人は部屋の中へと男を投げ飛ばしたのだ。
そしてフィオリーナを部屋の外へと連れ出し、ドアを閉めると同時に手も触れずに鍵をかけた。
今思えばあれは魔術だった。彼の手が淡く光っていたのだ。
そして、自分のうしろで震えのとまらないフィオリーナを見てとった。
男と対していたときは必死だったのだろう。助けられたとわかった途端に、震えが全身にまわってフィオリーナは動けなくなっていた。
嫌なことばかりが自分の中で回っているようだった。
襲ってきた男は閉じこめたけれど、目の前の人も男性だとわかったからだ。
この人もあの人と同じなのではないか。
嫌なことばかりが浮かんで目をきつく閉じると、震える手にそっと手が重ねられた。
──久しぶり。
その声に聞き覚えがあった。
顔を上げると、一度見れば忘れられないほど勲章を身につけた軍服の礼装が立っていた。
彼は、舞踏会の夜に出会った名前も知らない軍人だった。




