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ポンプが言うには

 帰ってきたネーヴェとフィオリーナに、まずは外で土を落としてこいと命じたのは綺麗好きのカリニだった。

 今日はほとんど外ばかりに居たので靴や服にほこりや土がついたままだったのだ。

 ネーヴェに至っては家畜臭いからとジャケットとジレまで取り上げられていた。辛うじて残されていたネクタイもネーヴェはついでに外して預けていた。

 植木鉢はマーレが運ぶと言って、ネーヴェとふたりでフィオリーナは庭の端にある井戸へと向かった。

 古めかしいものばかりを扱うこの家だが、井戸は手押しポンプ式の新しいものだ。シャツを腕まくりしたネーヴェがレバーを押すと水口から水が引き上げられてくる。

 吹き出した水をネーヴェは洗い場に水を溜めていく。洗い場は石を組んで広く作られていて、四角い水槽のようになっている。ネーヴェは庭に水をやるときに水を溜めてはそこから水を汲んでいる。

 なみなみと水が溜まると、ネーヴェはスラックスの裾をたくしあげて靴を脱ぐ。つづいて靴下を脱いであっさりと裸足になって、ざぶざぶと洗い場に足をつけてしまう。

 長い足を折り畳むようにして洗い場のふちに腰掛けて「フィオリーナ」と呼ぶ。

 うながされるままついてきたものの、フィオリーナのほうはあまりのことに動けなくなっていた。

 男性のワイシャツ一枚のスラックス姿など、よっぽど親しくなければ見ない姿だ。その上、ネーヴェは手足までさらしている。

 日には焼けていないが、意外と筋肉質な手足に目がいっておいそれと近づけない。

 困り果てているフィオリーナに、あられもない姿のネーヴェが声をかけてくる。


「泥を落とさないと家に入れませんよ」


 そう言いながら、自分の靴の泥をブラシで洗い流している。このようなことが日常茶飯事だから、靴用のブラシが置いてあるのだろう。


(そうだった)


 この人に遠慮をしても、フィオリーナが恥ずかしいだけなのだ。彼にやましい意図など何もない。

 フィオリーナが意を決して洗い場に近づくと、すでにネーヴェは自分の靴を洗い終えていた。水滴を雑巾でぬぐって、適当に洗い場のふちに立てかける。慣れた手つきだ。こうやってよくカリニに追い出されているのかもしれない。

 やってきたフィオリーナを見つけると、ネーヴェは洗い場のふちを指す。

「そこへ足を…」と言いかけたネーヴェだったが、フィオリーナをふと見上げて「そうでした」とひとり納得する。


「マーレ」


 辺りを見回してネーヴェが従者を呼ぶと、どこからかマーレが姿を現した。すでに植木鉢は運び終えたらしい。


「椅子を持ってきてくれ」


 ネーヴェの言葉にマーレはうなずくと、ほどなく一脚の椅子を持ってきた。それをフィオリーナのそばへ置く。ここへ座れというのだろうか。


「靴を脱いで、寄越してください」


 今度はフィオリーナの靴を洗うという。

 フィオリーナは思わず顔を真っ赤にする。男性の前で靴を脱ぐ行為は、服を脱ぐことに相当するほど恥ずかしいことだ。

 けれど、ネーヴェのほうはけろりとした顔をしている。靴を洗うという以外に本当に他意がなさそうだった。


「……少し、よそを向いていてください」


 案の定ネーヴェは少し不思議そうな顔をしたが、素直に洗い場から足を引き上げてくるりと反転して背を向けてくれた。

 おずおずとフィオリーナが椅子にかけて靴を脱いでいると、ふとかたわらのマーレと目が合った。

 彼もネーヴェと同じようにあさっての方向を向いていたが、視線だけフィオリーナに寄越したのだ。それはあきれたような、謝罪するような顔だった。もしかするとネーヴェを止めようとしてくれたのかもしれない。

 そのことがありがたいやら、申しわけないやらと複雑な思いだったが、靴はすっかり脱いでしまった。

 靴を脱ぐと、自分の足が思っていたより火照っていることに気付いた。今日はたくさん移動したのだ。思っていたより足が疲れていた。ネーヴェが裸足になるわけだ。

 フィオリーナはふくらはぎの靴下留めを外した。ほどけるようにして靴下が足から滑り落ちる。足先はすっかり赤くなっていた。

 そしてネーヴェが浸していたように、ドレスの裾を少しだけからげて椅子から足先を水槽へとつけた。

 つま先から心地よい冷たさが広がって、足先からさわやかに涼しくなる。

 ふと顔を上げると、待ちくたびれたように葡萄酒色の髪が夕暮れに傾いた木漏れ日に透けている。まだらに色づいた光が葡萄色を複雑に揺らめかせた。


「……ネーヴェさん」


 フィオリーナが声をかけると、葡萄酒色の髪がゆっくりと振り返る。

 菫色の瞳が眼鏡の奥からこちらを見つけて細くなるが、何も言わないで足をまた洗い場にざぶんと突っ込んだ。

 ネーヴェはフィオリーナの靴を受け取ると、自分の靴を洗ったときよりも丁寧に水をかけてブラシをかけていく。   

 つま先から順番に、丁寧に靴底の土も落としてから雑巾で水滴を拭き取る。

 そして少し腕を伸ばしてフィオリーナのそばに靴を立てかけた。落とした泥は水底へ沈んでいって、すぐに見えなくなった。


「今日は疲れましたね」


 大丈夫ですか、と問われて、フィオリーナもうなずく。


「大丈夫です。……夜はよく眠れそうですけれど」


 フィオリーナの答えに少し笑って、ネーヴェは長い足を水の中で少し伸ばした。

 フィオリーナがささやかに浸けている足と、ネーヴェの足が逆さまに近くなる。

 その長身のとおり、大きな足だ。フィオリーナの足と比べれば大人と子供ほども違うように見えた。


「ここで少し休んだら、ホーネットにおやつをねだりましょうか。今日ぐらいは、夕食前に何か食べても怒られないと思いませんか」


 のんびりとそんなことを言うネーヴェが可笑しくて、フィオリーナも思わず笑ってしまう。

 淑女になるためにさまざまなことを律してきた。それが悪いとは思えない。淑女として育てられることがフィオリーナの人生において必要なことだった。けれど、それが本当にやりたいことだったかと尋ねられれば、まったくそうだとは言えなかった。

 思い返せば、こどもの頃は父の視察について行きたいとねだり、庭師に花を植えたいとねだった。どれもふつうの貴族の娘はやらないことだ。


(どうして忘れていたのかしら)


 庭からは木漏れ日とともに心地よい風が吹き込んでくる。

 向かいでジャケットを探るような仕草をして「しまった」と呟く不思議な人と目が合う。煙草をジャケットごと持っていかれてしまったようだ。菫色の瞳が眼鏡の奥で穏やかに苦笑する。

 それがなんだかとても嬉しいことのように感じられてフィオリーナも微笑んでいた。


「なにか楽しいことでも思いつきましたか? フィオリーナ」


 柔らかな声に「はい」とうなずく。


「……やっぱりわたくし、お転婆だったのかもしれません」


 そう言って笑うフィオリーナに、ネーヴェは「そんなことは」と菫色の瞳を細めて笑った。


「とっくにわかっていましたよ」


 ふたりの笑い声がひそやかに庭に響いて、きらきらと水面に反射する。

 そんなふたりに、マーレがのっそりとやってきてタオルを渡してあきれ顔をした。       

  



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