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子羊が言うには

 今日最後の視察に訪れた畑は広かった。

 山と村のあいだに延々と続くのではないかと思われるほど、穂がついたばかりの青い麦がざわざわと揺れている。


「やぁ、よく来たね!」


 大柄な女性が大音量でネーヴェとフィオリーナを迎えてくれた。農作業用なのかズボン姿の彼女が畑の主人らしい。

 たくましい腕には軽々と子羊が抱えられている。柵から逃げ出したのを捕まえたところだという。


「耕作用の牛の調子が悪いとのことでしたが」

「ああ、こっちだよ」


 本題を早々に切り出すネーヴェに主人は気前よく手招きする。子羊を抱えたまま。

 フィオリーナもついていこうとするが、


「さすがに汚れますから、このあたりで待っていてください」


 ネーヴェに止められてしまった。

 いつの間にかフィオリーナの隣にやってきていたマーレを見上げると、彼も同じく首を横に振る。

 こうまでダメだと言われるのならおとなしくしているしかない。

 フィオリーナはマーレに連れられて畑の近くにある大きな木の陰に入ることにした。

 さわさわと葉擦れの音と遠くで人の生活音がする。人の声、戸の音、鳥の声。子供の声もときどきにぎやかに聞こえる。

 麦畑を渡る穏やかな風に心がゆるやかに落ち着いてきた。

 最近は落ち込むことより、ずっと走っているようだった。

 それは全部、ネーヴェに出会ってからだ。

 広い空と畑を見渡していると、ブモーとけたたましい鳴き声が響いてくる。

 何事かとマーレと共に見に行くと、子羊があわてたように飛び出してきた。きっと畑の主人が抱えていた子羊だ。飛び出してきた方向へ走っていってみると、畑のそばにある牛小屋だった。

 マーレに連れられて覗いてみると、ネーヴェと畑の主人が一匹の牛──いや母牛と子牛を見ていた。


「いやぁ、まさか妊娠してたとは」

「……どうして気づかないんですか。おかげで蹴られそうになりましたよ」


 はっはっはっと快活に笑う畑の主人にネーヴェがうんざりしたように言う。どうやら、柵の中に入ろうとして牛に蹴られかけたようだ。調子が悪いと言っていたのは、妊娠だったようだ。母牛は草を食べに出かけたついでのように産んで小屋に戻ってくることがあるらしい。

 母牛は高さが長身のネーヴェの顎ほどもある大きな牛で、フィオリーナなど巨体ですっぽりと隠れてしまいそうだった。


「子牛の様子を看てもいいですか?」

「ああ、そうしてくれ」


 ネーヴェは母牛の前に立って手をかざす。匂いを嗅ぐ牛の鼻先を撫でて、


「やぁ、久しぶり。さっきはすまなかった。君の新しい子を看てもいいかな」


 そう言うネーヴェの言葉を理解したのか、母牛は巨体を避けて子牛を見せた。

 ネーヴェは子牛にも同じように自分の匂いを嗅がせて「いい子だ」と言って体を触った。

 その手のひらが不思議な緑の光に灯される。その淡い緑の光を当てて、ネーヴェは子牛の体を撫でていく。あの淡い光が魔術なのだろうか。フィオリーナが今まで見たことのある魔術とはまったく違うもののようだ。呪文もとくべつな動作もなかった。

 この不思議な触診はすぐ終わったが、ネーヴェは少し難しい顔をしている。


「どうだ?」


 主人の問いに、柵から出てきたネーヴェは軽く首を振る。


「食べるのは止めたほうがいい」

「食べる…」


 フィオリーナが思わず真っ青になるが、そうだった。子牛は食べられるのだ。料理の名前にもある。

 そんなフィオリーナを横目に主人はそうかと苦笑する。


「もともと畑と運搬用の牛だ。大事に育てるさ」


 主人はそう言って「ああ、そうだ」と畑に目を向ける。


「あんたがこの前持ってきた苗だけどな」

「どうでした?」

「忙しくてほったらかしだった」


 がはは、と笑う主人にさすがのネーヴェも肩をすくめる。


「忙しいならいいですよ。他の人に…」


 そう言うネーヴェの視界に入るよう、フィオリーナはおずおずと手を挙げた。


「あの……苗ならわたくしが育ててみたいのですが」


 本当にただの思いつきだった。

 畑の主人も忙しい。ネーヴェも忙しい。

 だから、フィオリーナができるならやってみたいと思ったのだ。

 そんなフィオリーナをじっと眺めたネーヴェだったが、


「いいですよ」


 二つ返事でうなずいてくれた。


「屋敷のとなりに使っていない場所がありますから、そこを使ってください」


 おいおい、と止めたのは畑の主人のほうだった。


「いいのかい? わざわざ取り寄せた苗なんだろ?」

「元は私が育ててみようと思っていたものですから。近くで様子が見られるのはありがたい」


 ネーヴェはそう平然と答えて「畑の様子を見てもいいですか」と主人に返す。彼女がうなずくと、さっさと牛小屋を出て行ってしまった。

 残されたフィオリーナは畑の主人と顔を見合わせる。


「あんたも大変だね。とんだ変人だろ」


 ネーヴェは悪い人ではないが、変わった人だということは否定できなかった。フィオリーナが曖昧に笑うと、主人は「あはは」と豪快に笑った。


「あたしはミレアだよ。あんたは?」


 フィオリーナ、と名乗ると「ああ」とミレアはうなずく。


「そうか、あんただね。最近、領主さまの家にいるっていうお嬢様は」


 田舎の噂というものはこんなに早く広まってしまうものなのだろうか。

 内心冷や汗をかくフィオリーナをじっと見つめて、ミレアは笑って牛小屋から出るようフィオリーナとマーレをうながした。

 歩きながら「誤解しないでおくれ」と笑う。


「いいことだと思ってさ。あの変人領主、嫁どころか女も連れ込まないからきっと性癖も変態なんだって…おっと」


 従者のマーレも居るのだと思い出したのか、ミレアは笑って「お嬢様に聞かせる話じゃあないね」と誤魔化した。どちらかといえば、フィオリーナもそういう話は苦手なので、聞かなくて良かったと胸をなでおろす。


「すまないね、あたしはこういう性格だから嫁ぎ先からも追い出されちまって」


 この家は実家なのだとミレアは麦畑を見渡した。


「両親は年食っちまって、畑はどっかの誰かに売ろうとしてたんだけどね。ほら、山は閉じられちまっただろ。それで畑を売る話もなくなったから畑もほったらかしにしていてね」


 それを見かねたミレアが、出戻ったことを機に畑の耕作を再開させたという。


「うちの両親も山で石を掘る手伝いもしていたからね。病気にかかって足がうまく動かなくて。領主さまが作る薬には期待してるのさ」


 うちの両親も薬を飲んでいる、とミレアが言うので「他にもいらっしゃるのですね」とこぼしてしまった。フィオリーナの答えに、ミレアは何か思い至ったのか「ああ」とうなずく。


「トランに会ったんだろ」


 フィオリーナが答えに窮すると、ミレアは苦笑した。


「あいつは採掘師だからね。せっかくの稼ぎ所がなくなったって領主さまを恨む人もいるのさ。……あたしの両親もそうだからね」


 オルミは元々牧畜だけで暮らしていたような、お世辞にも裕福とはいえない土地だった。月鉱石が盛んに採掘されるようになったのはここ三十年ほどのことだという。月鉱石の有用性が発見されて、輸出されるようになったからだ。だから、オルミにとって月鉱石の恩恵は何にも代え難いものだった。


「あたしは一度、他の土地に嫁いだからだろうね。恩恵なんて多少の小遣い程度のもんだ。月鉱石がうまい稼ぎには思えなかった。金だけあっても病気にかかっちゃあ、余計に金がかかるだけさ。うまい飯が食えてりゃいいのにさ」


 今は両親の世話をしながら、たまに様子を見に来る弟家族といっしょに畑を管理しているのだという。


「……少ししゃべり過ぎたね。退屈な話を聞かせちまったよ」


 そう言ってミレアが頬をかくのを見て、フィオリーナはやんわりと首を横に振る。


「いいえ。食事が美味しくいただけるのは健康であってこそだと、わたくしも思います」


 そんなフィオリーナをミレアはじっくりと見たかと思えば、からりと笑う。


「そうだ、チーズを持っておいきよ。いいのができたんだ」


 ネーヴェの屋敷で出されるチーズとパンのもとである小麦はこの畑と牛から作られたものだという。

 毎日おいしくいただいていると言うと、ミレアはおおらかに笑った。


「いいよ、痩せた土地で出来たもんだ。そんなうまいもんじゃない」

「お世辞ではありません。本当においしいのですもの」

「わかった、わかった」


 しつこいほど食い下がるフィオリーナを、ミレアは笑ってあしらう。日に焼けたその顔は少し赤かった。

 畑から帰ってきたネーヴェは手を布巾で拭きながらその様子を不思議そうな顔で眺めていた。




 

 ミレアから預けられた苗は全部で十本あった。水だけは与えられていたようで、しなびてはいないが、植木鉢の中の土は固くなっている。だいぶ長いあいだ放置されていたのかもしれない。

 葉の形は人の手のようにも見えて、落葉樹のようにも見えたが、緑の葉や茎は細くてこれが木ではなく草だとわかった。


「ポモドーロという野菜だそうです。隣国のデイランドで食べられるよう改良されたものなんですよ」


 デイランドは農業が盛んな国だ。研究も盛んで、さまざまな作物が改良されているという。

 マーレと共に鉢を馬車に載せ終えたネーヴェが、フィオリーナといっしょに植木鉢を眺める。それというのも、馬車の上にある荷台では落としかねないからと馬車の中に植木鉢が運び込まれているからだ。おかげで座席の足下は植木鉢で埋まっている。


「元は雨の少ない地域の作物だそうで、オルミ領のような土地でも栽培できるかもしれないと聞いて取り寄せてみたんです」


 狭いオルミ領ではあまり多くの作物を育てられない。そのうえ鉱山からの石毒の影響か、土地の成分も変わってしまっているそうだ。


「今まで育てられたものがなかなか育たなくなっているようですから」


 ネーヴェは研究も兼ねて新しい作物を色々試しているらしい。


「そういうのはいいから、そいつはあんたの飯の足しにしなよ」


 そう馬車の外から声をかけたのは見送りにきていたミレアだ。


「あんたときたら、領主のくせに自分の金で病気の研究をしてるんだろ? 貧乏領地でろくな税金も集まらないだろうに」


 領の税収は単純に住む人が多ければ多くなる。オルミ領は今まさに人口が減っていて、税収が減るのは自然なことだ。


「今は恋人もいるんだから、ちゃんと食わせてやんな」


 恋人と勘違いされたということよりも先に、税収のことを聞いてフィオリーナは青ざめた。彼はこの重要な研究を国費でもなく、税収でもなく、私費でまかなっているという。

 それはもしかしなくてもフィオリーナは十分な負担になっているということだ。

 青ざめたフィオリーナを横目に、ネーヴェは「大丈夫ですよ」とミレアに答えた。


「いつも小麦とチーズをありがとうございます」

「……あんたね、そうやって何人に現物をたかってるんだい。まぁ、うちは薬代も茶葉代も免除してもらってるから」


 別にいいけどね、とミレアは肩をすくめた。ミレアは税金代わりにチーズと小麦をネーヴェに納めているらしい。その代わりというのか、マーレがマケット夫妻と同じようにミレアに包みを渡していた。おそらくあれが薬とハーブティなのだろう。


「その野菜とやらがうまくいったら、あたしにも食わせておくれよ」


 そう言ってミレアはフィオリーナに手を振って見送ってくれた。

 だが馬車が走り出してもフィオリーナの心配は晴れない。きっと問いたださない限り説明などしないであろうネーヴェを見据える。


「お金のことは相談してくださいと申し上げました」

「ですから、心配いりませんって」

「で、でも…っ」


 フィオリーナはすでに宝石を借りたり、ドレスを買ったりとネーヴェに負債のある状態だ。


「研究は私の趣味ですし、あなたのことは負担でも何でもありませんから」


「財産目録でも見せればいいですか」とネーヴェはあきれ顔だ。それでも心配顔のフィオリーナにネーヴェは苦笑する。


「あなた一人も養えないと思われているとは…、情けないところを見せすぎたかな」


 ネーヴェを情けないと思ったことはないが、フィオリーナの心配はそういう話ではない。


「わ、わたくし、働きますっ!」


 ほとんど涙目になって決意表明を口にする。恋人でも妻でもないフィオリーナにできることは、働くことぐらいしかないように思われた。実家の助けを待ってはいられない。

 貴族の娘は働くことが一番はしたないことと教わって育つ。けれど、とフィオリーナは目を丸くする菫色の瞳をひたと見つめる。


「……みなさん、ちゃんと働いて暮らしていらっしゃるのですから、わたくしが働いても悪いことなど何もないはずです」


 ネーヴェはもちろんのこと、今日話した誰もが自分の役目をまっとうしようとしていた。フィオリーナもそうやって生きていけたら、きっと何かが変わる確信があった。

 そう言うフィオリーナを菫色の瞳は見つめて、ふとまぶしいものでも見るようにすがめた。それから、


「あっはっはっはっ!」


 物静かな見た目に似合わないほど、ネーヴェは大笑いした。


「ネーヴェさん!」


 フィオリーナは真剣だったのに、ネーヴェは「すみません」と言いながら涙を指でぬぐっている。いつも思うが、この人はフィオリーナのことを笑いすぎだ。

 フィオリーナが頬を膨らませると、さすがに悪いと思ったのかネーヴェは取り繕うように笑う。


「フィオリーナ」

「……もう知りません」

「はい」


 うなずいて、やわらかい忍び笑いがする。きっとまだ笑っているのだと、ちらりと視線を上げると菫色の瞳が思っていた以上に穏やかに微笑んだ。


「資金繰りについては、本当に心配しなくていいですからね」

「……本当ですか?」

「ご心配なら、明日から毎日アイスクリームでもいいですよ」


 アイスクリームは作るのに手間がかかるのだ。またからかわれたのだとまなじりをつり上げたフィオリーナに、ネーヴェは笑って続けた。


「苗をさっそく植えましょう。明日から大変ですよ」


 手伝ってください、と添えて菫色の瞳がフィオリーナを見る。今度はからかい混じりでもない、誠実であろうとする顔だった。


「庭以外はろくに手入れもしていませんからね。土を掘り返すところからですよ」


 そんな本格的な土づくりはフィオリーナもやったことがない。

 それでもやってみたい。

 心の底がうずくような好奇心に動かされるまま、フィオリーナは大きくうなずいた。


「はい。明日からよろしくお願いいたします」




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