水車が言うには
家をあとにした後、ネーヴェは水車小屋へと向かった。
水路をマーレとなにやら確かめて、近くにあった柄杓ですくい取っている。水車を流れている水だ。それを慎重な手つきで小瓶に注いで封をする。
マーレに布巾を渡されて手を拭くネーヴェは、いつになく難しい顔だった。
「……何か、問題があるのですか?」
水車を流れる水は透明で、少し離れているフィオリーナでも涼しげな風が感じられる。見た目には清流にしか見えなかった。
「それは…」とネーヴェがいつになく歯切れ悪く口を開いたところで、がたんと大きな音が響いた。
「またアンタか!」
怒号といっしょにやってきたのは、作業着姿の若い男だった。顔を真っ赤にして、今にもつかみかからんばかりだ。
驚いてしまったフィオリーナを背にかばって、ネーヴェは男の前へと立つ。
「やぁ、久しぶり。トラン」
上背のあるネーヴェに少し見下ろされて、トランと呼ばれた男は少し威勢を殺されたようだ。
それでも、ぎりぎりと耳障りな音がしそうなほどネーヴェを睨んだ。
「また性懲りもなく来やがって! おやじとおふくろに今度は何を吹き込んだ!」
「吹き込んだなんて人聞きの悪い。いつもの診察だよ」
「おまえは医者でも何でもねぇだろ!」
とりつく島もないほどの威嚇にもどこ吹く風で、ネーヴェはのんびりと「そうだね」とうなずく。それをいいことに、トランはそらみろと続けて怒鳴る。
「おやじを怪しい薬の実験に使ってるだけだろうが!」
実験、という言葉にフィオリーナもぎょっとする。それはもしかして、彼らに手渡していたあの薬のことなのだろうか。
「何事だい、トラン!」
そう叫んで家を飛び出してきたのは老婦人だ。トランにすがりつくようにして、彼の腕をつかんだ。
「おまえはまた領主さまに噛みついて! いくら言えば気が済むんだい」
「だからこいつが…」
「実験でも何でもやると言ったのは、私たちなんだよ」
老婦人の言葉に、思わずネーヴェを凝視してしまう。フィオリーナの視線に気付いているだろうが、ネーヴェは振り返らずにもみ合う二人に口を開いた。
「──そういう契約です。私が援助をする代わりに、彼らは私の薬を飲む」
何の温度も感じられないほど平板な声だった。このまま、フィオリーナの知っているネーヴェが消えてしまうような。
「……ネーヴェさん!」
ほとんど叫びながらフィオリーナはネーヴェのジャケットを思い切り引っ張った。無我夢中だった。ジャケットを思い切り引っ張ったというのにネーヴェの体は見た目以上に堅く頑丈で、フィオリーナが引っ張ったところで揺らぎもしない。けれど、驚かせるには十分だったようだ。
フィオリーナを振り返ったネーヴェは目を丸くしたものの、
「……すみません」
フィオリーナを見下ろした菫色の瞳は、いつもの柔らかな光に戻っていた。
ネーヴェはそれ以上何も言わずにジャケットを引っ張るフィオリーナに小さく笑みをこぼした。まるでここに居てくれと言われたようだった。
小さく息をついて、ネーヴェはトランと老婦人に向き直る。
「──誤解させたならすまない。ブラッドリー医師を知っているか? 村の開業医だ。彼にもご両親を定期的に診察してもらっている」
ネーヴェの言葉に老婦人は大きくうなずく。
「ご両親には確かに治験……試薬を飲んでもらっているが、ブラッドリー医師とよく相談して調合している」
ネーヴェが静かに続けると、トランは心底嫌そうな顔で押し黙る。
「トラン」
農園主の老人がゆっくりと杖をついてやってきていた。
「薬を飲むと決めたのはオレだ。責任をとることを決めたのもオレだ。もうこの村の者でもないお前が気にすることじゃない」
父親の言葉が一番こたえたのか、トランは唇をきつくかみしめた。
「わかったら農園へ連れて行ってくれ。そのために来てくれたんだろう」
「……ああ」
トランは父親の元へ行くと、彼をおぶって果樹園へと向かっていった。
「すまないね、領主さま」
親子を見送った老婦人が申し訳なさそうにネーヴェに言う。
「でも、あの子はああやって文句を言いながらも、手伝いに来てくれるんだよ」
「わかっています」とネーヴェは答えて、
「私のほうこそ、協力してもらっているのに説得できなくて申し訳ない」
そう言って、ネーヴェはフィオリーナの手からそっとジャケットを離す。
「行きましょうか」
フィオリーナはうなずくしかできない。老婦人を振り返ると、彼女は手を振ってくれた。
それだけが心を少し軽くした。
▽
やっと馬車へと戻ってきたが、走り出した馬車の中は静けさに淀んでいた。
マーレも一切無駄口をきかずにフィオリーナたちを迎えて、出発の準備を整えただけだ。ネーヴェは考え込むようにして、採取した水の小瓶を座席の下の箱へと仕舞っていた。
走り出した馬車の中で、ネーヴェは懐を探るような仕草をしたが、すぐに止めた。煙草を吸おうとしたのだろうか。
「……わたくしのことならお気になさらないでください」
フィオリーナが声をかけると、ネーヴェはようやくぎこちなく苦笑した。
「すみません」
そう息をついて、
「……先ほどは助かりました。あなたが止めてくれなければ、私は彼らと揉めるだけでした」
そんなことを口にする。
どことなく疲れたような声が、ネーヴェと彼らが長いあいだ様々な葛藤を抱えていることを部外者のフィオリーナにも窺わせた。
ジャケットをつかんでしまったことははしたないことだったが、それ以上にネーヴェを止められて良かったとも感じた。
「……あのご夫妻は、どこかお体が悪いのですか?」
あの老夫婦は若者のように元気にとはいかないが、かくしゃくとしているように見えた。
「そうですね……」とネーヴェは少し黙考して、
「今のところ、目立った症状は出ていませんね」
そう付け足して、ネーヴェは考えをまとめるように目を伏せる。
「──月鉱石というものを知っていますか?」
世情に疎いフィオリーナでも名前ぐらいは知っている。魔力を蓄積できる石だ。身近なものなら転送機に使われている。
「オルミはその月鉱石の鉱山が最近まで盛んでしてね」
農園主の老人、マケットは元はその月鉱山の鉱山師だった。鉱山師とは、鉱山を採掘する管理責任者のことで、採掘師などを采配する元締めのことらしい。採掘師は、実際に鉱山を掘る技術者のことで、昔は鉱夫などとも呼ばれた労働者のことだ。時には死人も出るほどの重労働のため、大昔は奴隷の仕事だったという。
「月鉱石が発見されたのは百二十年ほど前のことですが、最初に発見されたのがこのオルミなんです。オルミは長らく今は隣領のティエリ領の一部でしたが、オルミ領として分割されました。──私のために分割されたんです」
ティエリ領はネーヴェの実家であるカミルヴァルト家の分家が統治する領だが、ネーヴェに土地を分割する形でオルミ地区を領に分けたという。
「領の分割なんてここ百年は無かったことだそうですよ」
領地の分割などという大それた話をフィオリーナは聞いたこともなかった。それほどネーヴェが戦争で功績を上げたということなのだろうか。どういう経緯があるにせよ新たな領主に据えられた以上名誉なことであるはずなのに、当の本人は興味もないのか謙遜する様子も自慢する様子もない。ただ淡々と事実を述べているだけのようだった。
「……そんなわけで私はこの領を引き受けることになったのですが、その頃には月鉱石はほとんど掘り尽くしていたんです」
オルミにある山は領の境界線でもある。オルミ側はすでに掘り尽くしていたが、すぐ隣のティエリ領側からならば月鉱石の新たな鉱脈が見つかっているという。
「採掘師のほとんどはティエリ領に移住しました。まぁ、当然ですね」
マケットの息子のトランも採掘師で、ティエリ領へと移住したひとりだという。
「オルミ側を閉山したのは……私です」
まだ掘れる場所があるかもしれないという反対意見がほとんどだったが、ネーヴェはそれを完全に無視して閉山を決めた。
「……どうしてですか?」
何の理由もなくそんなことを決める人ではないと知っているが、ネーヴェにしては強引な手段とも思えた。ネーヴェは少し目を伏せたまま続けた。
「──鉱山で働いていた者を中心に、奇病が流行っていたからです」
鉱山で長年採掘に従事していた者を中心に、慢性的な症状が表れていたという。
最初は小さな咳、腰痛、関節痛と病気とも言えない症状が数年に渡り続き、肺病、胃潰瘍などの内臓の病気へと移っていく。
「医者も症例を集めて原因を究明しようとしていましたが、彼らだけではわからなかった。……魔力が関係していましたから」
月鉱石は魔力を蓄積する性質があるため、その粉塵などを長年吸い込んだ人々は体内に魔力が溜まりやすくなっていたのだという。
「魔力を蓄積する石が体内に胆石のようなものとなって固まっていました。一度摘出しても、石はまたできます。体中に石の小さな粒が詰まっているようなものですからね」
石は一度体内に入るとなかなか排出されず、取り込み続ければ増える一方だ。
「マケットさんの手を見ましたか? 末期になるとああやって石のように固まって動かなくなり、最悪の場合、崩れ落ちます」
手が崩れ落ちる奇病などフィオリーナは聞いたこともない。その恐ろしい病気のために、ネーヴェは医師と協力して薬を作っているという。
マケットは長年奇病に苦しんでいる採掘師やその家族たちを見てきた。だから、鉱山師を廃業したあと、自らの体で薬の実験に協力しているという。
「……でも、月鉱石は今現在、莫大な利益を生む金脈です。私の施策を嫌って移住する人も多いですよ」
月鉱石が発見されたことによって、近頃は転送機をはじめとした魔術を利用した器具や乗り物が開発されているという。
「月鉱石はほとんどが輸出されています。輸出先は大国のハルディンフィルドですね」
ハルディンフィルドは魔術の研究が盛んな国だ。転送機もかの国が開発した。
「閉山はしましたが、今も山には石の粒子が残っています。一番古い鉱山のあった一つ目の山は今も立ち入り禁止にしています」
マケット夫妻が暮らしているのは二つ目の山の麓で、ほとんど掘り尽くした鉱山跡が残っている。
「粒子は水に混じって土地に蓄積しますから、私はそれを調べているんです」
水車で水を採取していたのはそのためだったのだ。そのときのネーヴェの表情からは、あまり好転しているようには見えなかった。
「石毒──私と医師はそう名付けましたが──石の毒は上流から下流へと流れています。今はまだ下流の川に石毒は少ないですが、土には確実に蓄積が見られます」
それを五年間、ずっとネーヴェはひとりで採取し続けているという。
「まぁ……私は領主ですが魔術師ですから。こういう研究対象があるのは興味深いことなんですよ」
ネーヴェはそう話を締めくくるが、フィオリーナはその軽口においそれとうなずけなかった。
ずっと実家のザカリーニ領で父の視察を見てきた。父も領地の産業をくまなく視察し、問題が起きれば部下と共に解決策を模索していた。だから、ネーヴェの研究がどれほど大変なことか、少しはわかるつもりだ。
「……ですから、先ほどは本当に助かったんですよ。フィオリーナ」
ネーヴェにそう言われても、フィオリーナが何をしただろうか。
首を傾げる彼女にネーヴェは苦笑した。
「私は頭でっかちの研究者ですからね。人を怒らせてしまうことが多いんです」
正論が必ず正しいわけではなく、共感を生むわけでもない。ネーヴェは口下手ではないが、整然と事実だけを並べて怒らせてしまうこともあるらしい。
「あなたが止めてくれなければ、私は理路整然と論じて口論に勝つだけでした。……勝つだけでは説得になりませんから」
それはよくわかっているのに、とネーヴェは自嘲する。
「人の気持ちは他人には変えられませんからね」
ひとりごとのように呟いて窓の外を見るネーヴェの横顔を、フィオリーナはじっと見つめる。
人の気持ちは変わらないし、わからない。けれど、ネーヴェが閉山しなければ病気で苦しむ人はもっと増えていただろう。
少なくとも、誰かの起こした言動は誰かのきっかけになる。
フィオリーナがネーヴェと出会ってこのオルミに滞在すると決めたように。
「……わたくしがネーヴェさんのお役に立てることがあるのなら嬉しいです」
フィオリーナはどうあがいても部外者だ。けれど滞在中にひとつでもネーヴェの役に立つのなら、それはこの不思議な関係もじゅうぶん意味のあるものになる気がする。
どこか遠くを見ていた菫色の瞳と目が合う。
「これからは、わたくしも頼ってくださいませ」
そうフィオリーナが微笑むと、ネーヴェも笑う。
「これは頼もしいですね」
笑い声といっしょに「ありがとう」と小さく聞こえた。




