ショールが言うには
昼食のあと、馬車で丘に沿っていくと小屋が見えてきた。
小屋の脇には小さな畑があって、そのそばには水車小屋も見えた。この農園が目的地の一つらしい。
農園には畑のほかに木々の並んだ場所も遠くに見える。あれが果樹園だろうか。
ネーヴェと共に小屋を訪ねると、老夫婦が二人を歓迎した。
「まぁまぁ、こんなところにようこそ。領主さま」
老年にさしかかろうかという女性がにこやかにネーヴェを迎えて、そのとなりでどっしりとした老木のような男性が軽く会釈する。彼らがこの農園の主らしい。
「今日は調子が良さそうですね。体の調子はどうですか?」
ネーヴェは医者のようなことを言って、二人に応じた。
「おかげさまでだいぶ良いんですよ。うちの人も果樹園に出られるようになって」
老婦人のほうが指したのは老人の左腕だ。杖を手にしているものの、握った形のまま動いていないように見えた。
「そうですか。最近は日和もいいですからね。日光を浴びるのはいいことですよ」
そう言って、ネーヴェは老夫婦について小屋へと向かうので、フィオリーナもあとに続く。
「あら、あのお嬢様は…?」
老婦人がフィオリーナを見つけると、ネーヴェはにこやかに答えた。
「私の仕事を手伝ってくれている人です。今日は視察についてきてくれたんですよ」
町の店主に向けたものとは違う紹介をして、老夫婦がうなずくのを見て取ると、ネーヴェは少しだけフィオリーナも振り返る。彼がそのように紹介するのなら、フィオリーナもそれに従うだけだ。小さくうなずくとネーヴェはほっとしたように少しだけ口元に笑みを浮かべた。
老夫婦の小屋は町にある建物とも丘から見た村の建物とも違い、ひどく古びて見えた。
石を積んだ外観は頑丈そうな造りではあるが、水車が動いていなければ人が住んでいるとは思えなかったかもしれない。
家の中はまだ人の暮らしが感じられたが、どの家具も古く、あまり掃除も行き届いていないようだった。
ネーヴェは農園主の老人を手近な椅子に座らせて、自分もその前に椅子を置いて座る。老夫婦がどこに居ても座れるようにか、部屋を見回すとこの家には椅子が多く置かれていた。
「目のかすみはどうですか。少しはおさまりましたか」
ゆっくりとした声でネーヴェが老人に尋ねると、老人もゆっくりとうなずいた。
「ああ。前よりマシだよ。関節の痛みもだいぶ楽になった。でも、あの薬を飲み始めると夜眠れなくていけねぇ」
「そうですか、それはいけないね。薬の調合を少し変えてみますよ」
どうやら老人の薬をネーヴェが調合しているらしい。ネーヴェは医術の心得もあるのかと感心していると、老婦人が家の奥にある厨房で湯を沸かそうとしているのが目に入った。
さすがに長年の習慣からか手際は良いが、手元や足下がおぼつかない。
「……何かお手伝いいたしましょうか」
フィオリーナが声をかけると、老婦人は驚いたように目を丸くした。
「いいえ、いいえ。お召し物が汚れてしまうよ」
手伝おうと申し出たものの、フィオリーナは人生で一度も皮むきひとつ手伝ったことがない。今も、老婦人が湯を沸かそうとしているのだということぐらいしかわからなかった。
「…では、あの…どういったものが必要か教えていただけないかしら。その、わからなくて…」
しどろもどろのフィオリーナに、老婦人は「ああ」と笑って、
「そこの戸棚からカップを四つ取り出してくださいな。高いところに腕を伸ばすのが、最近はおっくうでね」
きれいな布がかかっているほうよ、と場所まで指示されてやっとフィオリーナは戸棚の中からカップを探し出せた。古びてはいるが来客用の小綺麗なカップだ。貴族が使うような瀟洒なデザインではないが、絵柄が施された少し上等なものだった。
どこへ置けばいいのかと迷っていると、作業台へと言われて、厨房の中央にあるいくらか物の乗った台へとカップを並べた。老婦人もかたかたと音を立ててティーポットを持ってきて、作業台に置いてあった缶からトングでひとつかみふたつかみ、とポットへ茶葉を入れる。茶葉は干し草のような色で、ところどころに花も混じっていた。
「ハーブティですか?」
興味が向くままフィオリーナが尋ねると、老婦人は「ええ」とうなずく。
「領主さまが調合してくれたものでね、私も腰が痛かったんだけど、これを飲んでいたら楽になってねぇ」
ネーヴェが調合したのなら、きっとあの庭の薬草だろう。
こんなものしかない、とお茶請けに老婦人が干した果物を皿に並べていたところで湯が沸いた。
ティーポットに湯が注がれると、花と茶が混じりあうような不思議な香りが広がる。
良い香りだとフィオリーナが口にすると、老婦人は自分のことのように自慢げにうなずいた。カップとティーポット、果物の載った皿を盆に並べると思っていたより重かった。
「気をつけて持つんだよ」と言われながら、フィオリーナが老婦人の代わりにお盆を持つことにした。これも人生で初めてのことだ。
貴族の娘が客人にお茶をもてなすことはあるが、ほとんどの準備は使用人が行うし、運ぶにはティートロリーという専用のワゴンを使うのだ。
こちらへ、と言われて盆を置いたのは暖炉を囲む応接間だった。サイドテーブルに盆を載せると大きな息がもれる。思っていたよりも慣れないことに緊張していたらしい。
ネーヴェたちのほうを見ると、まだ老人と話し込んでいるようだった。
「先にどうぞ」と老婦人に言われるまま、サイドテーブルを囲んだソファでハーブティを飲むことになった。
茶の味はお世辞にも美味しいとは言えなかった。これはきっとフィオリーナがいつも口にしないものだからだ。甘味も感じられる薬草のほうが香って、茶葉の味をほとんど感じさせない。
(でも、おいしいわ)
一緒に勧められた干した果物は甘くて、ハーブティとよく合った。きっとこれと一緒に楽しむために調合されたのだ。
「あら」
お茶を一緒に楽しんでいた老婦人のショールが少しほつれている。
「どこかで引っかけてしまったのですか?」
思わずフィオリーナが尋ねると、老婦人は苦笑する。
「みっともなくてすみませんね。なかなか針仕事がおぼつかなくて」
老眼では針に糸を通すこともたいへんなのだと言われて、フィオリーナは自分の失言にやっと気付いた。
彼女はこのショールを大切に使っているのだ。それを、少しほつれているからといって指摘してしまった。それは無邪気な指摘だったとしても、失礼に他ならない。
「……ごめんなさい。良い織物だからつい差し出がましいことを言いました。艶のある良い生地だわ。羊かしら」
フィオリーナの様子を少し見ていた老婦人だったが、やがてゆっくりと微笑んだ。
「ええ、羊です。いい織物でしょう?」
節くれ立った指でショールを撫でて、フィオリーナにも触らせてくれた。
何十年も使い込まれているはずなのに、丁寧に手入れをされて艶のある良い生地だった。
「大昔はオルミでも羊をたくさん飼っていてね。毛織物を作る工房がたくさんあったんだよ」
オルミには昔は三つの村があって、そのどれもが牧畜を生業にしていたという。低山とはいえ三方を山に囲まれているから、あまり広い土地はない。だから山を放牧地としていて、その豊かな草地に人よりも多くの羊や牛がいたらしい。
「今は反対側……町を挟んで向こう側だね。海の見えるほう。そっちで細々と羊を飼っているんだよ」
老婦人の持つショールは、この地域で羊が飼われていた頃の最後の品だそうだ。
「結婚するときにね、お祝いだって両親が買ってくれたんだよ」
何度も撫でられたショールはフィオリーナの手にも温かに感じられた。
だから、ショールのほつれを直したいと言われて嬉しく思ったし、熱心に老婦人といっしょになって繕っているところをネーヴェに覗きこまれていることにもすぐには気づけなかった。
驚いてすくみ上がるフィオリーナの上からからかうように笑って、ネーヴェは満足そうに身を起こす。長身の彼はフィオリーナが座るソファの背もたれのうしろからこちらを覗いていたのだ。
「お、驚かせないでください」
「すみません。つい」
思わずネーヴェを睨んでしまったフィオリーナに肩をすくめて「そろそろお暇しましょうか」と言う。
そう言われてフィオリーナは手にしたショールを見比べる。まだほつれは直しきっていないのだ。
「いいよ、十分だ。手伝ってくれてありがとう」
老婦人ににこやかに言われては引き下がるしかない。
「途中までしかお手伝いできなくてごめんなさい」
「いいんだよ。久しぶりにおしゃべりできて楽しかったよ」
ショールを受け取る老婦人が本当に嬉しそうにみえて、フィオリーナも微笑んだ。あまりしつこくしてはかえって迷惑であるし、少しでも手助けになったのなら良かったと思うことにする。
「では、新しいハーブティと薬を置いていきますね」
そう言って、いつのまに手に取ったのかネーヴェは行儀悪く立ったままハーブティを飲み干した。そんな彼を老婦人は「まぁまぁ」とあきれて笑う。
「相変わらず忙しい人だね」
「約束が多くて。薬はいつものように日に三回飲んでください」
「はいはい。ハーブティは毎食だったね」
わかったよ、とうなずく老婦人に追い出されるようにして、フィオリーナは席を立つ。
先に向かったネーヴェが戸を開けると、包みを持ったマーレが立っていて、その包みをネーヴェは老婦人へと預けた。
「領主さん」
部屋の中から老人が椅子に座ったまま声をかけてくる。
「いつもありがとう。助かるよ」
老人の言葉にネーヴェは眼鏡の奥で目を細めた。
「他にも困りごとがあれば、どうぞご贔屓に」




