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グラスが言うには

 馬車に乗り込むと、ネーヴェはハンカチを丁寧にたたんでジャケットの内ポケットに仕舞ってしまう。

 御者は次の行き先を知っているのか、ネーヴェの指示もなく走り出した。


「あの…、どうしてハンカチなのですか?」


 つい恨みがましくなってしまうフィオリーナに、ネーヴェは素知らぬ顔で答えた。


「直接触らないとお約束したでしょう」


 さっきは不可抗力です、というネーヴェはまったくもっていつもどおりの彼だ。律儀なのか意固地なのか。少なくとも頑固者という噂は本当なのだ。

 ネーヴェに遠回しな言い方は通じない。鈍感などではなく、彼の口車に乗せられてあっという間にうやむやにされてしまうからだ。


「……ハンカチで触らなければならないほど、嫌なものなのかと悲しくなります」


 もっともらしい理由や理屈はいくらでもあったが、フィオリーナが感じたのは悲しいということだけだった。フィオリーナに指先が触れることさえ嫌なのか、という子供じみた気持ちだけ。


「──触れていいんですか?」


 いつの間にかうつむいていた顔を上げると、菫色の瞳がフィオリーナを覗いている。

 馬車の中でもネーヴェとフィオリーナの距離は適切に保たれている。

 けれど、菫色がやけに近い。

 澄んだ瞳が近付いて、フィオリーナを覆うように影を作る。

 まるで影法師が被さってくるようだというのに、それが怖いとは思えなかった。


「フィオリーナ」


 やわらかな声は静かだった。

 ふ、と笑うような吐息がかかったかと思えば、低く呟く。


「あまり、からかわないでください」


 何を、とフィオリーナが問いかける前に気配は遠のいていった。


「今日は手袋を忘れてしまったんですよ。あなたがついてくるとは思わなくて」


 言葉はフィオリーナを責めているのに「ふふ」とネーヴェは自嘲するように笑った。


「意外とお転婆ですね。言われたことはありませんか?」

「あ、ありませんっ」


 フィオリーナはどちらかといえばおとなしい子供だと言われて育った。大声を出すことも、全力で走ったこともない。今思えば温室で育ったようなものだった。

 今日のように自ら望んで慌てて誰かを追うこともなかった。


「……次はどこへ向かうのですか?」


 いつの間にかこうやって自分から尋ねることに抵抗を感じなくなっている。淑女らしくと育てられてきたフィオリーナには、それが良いことなのか悪いことなのかはわからない。


「農園へ行きます。ここから少し遠いので、着いたら昼食にしましょうか」


 ふところから取り出した懐中時計に視線を落とす菫色の瞳をとなりからじっと見つめる。ネーヴェといると、フィオリーナはまるで子供に立ち返るような心地がしてくるのだ。忘れていた何かを少しずつ思い出していくような。

 時計を覗き込んでいた菫色の瞳が眼鏡の奥からフィオリーナを見つけて細くなる。そうやって微笑まれると、ぜんぶ許されていくような気がするから不思議だった。


「今日は私に付き合ってくださいね」


 フィオリーナ、と柔らかく呼ばれることがこんなにも心地よいとは知らなかったのだ。



    ▽



 しばらく馬車にがたごとと揺られて、農園の近くだという丘につくと、御者のマーレが戸を開けた。


「このあたりでいいか」


 馬車の中へとすがすがしい風が吹いてくる。

 先にネーヴェが降りて、フィオリーナに手を貸してくれる。

 草地に降りるといっそう気持ちのいい風が頬を撫でていった。

 丘の上からは石と土壁で作られた家々と畑が見える。これがふたつある村のうちのひとつなのだろう。

 どこもちょうど昼食の時間なのか、煙突から煙も見えた。


「私たちも食べましょうか」


 馬車からバスケットを取り出したネーヴェが指したのは、丘の上の大きな木だった。木陰がちょうどいいだろうということで、ネーヴェとマーレが敷き布を広げる。

 フィオリーナも手伝いかけたが、バスケットを押しつけられてしまった。


「椅子はないからな」


 そう言ったもののマーレは御者台から道具入れを持ってきて自分のジャケットを掛けて置いた。フィオリーナはここへ座れという。


「そんな…申し訳ないわ」


 いくら丈夫そうとはいえ、人のジャケットをクッションにはできない。


「では私のジャケットも敷きますか」


 そう言ってネーヴェがジャケットを脱ごうとするので、


「だめですっ」

「やめろ」


 マーレとフィオリーナの声が重なった。マーレはちらりとフィオリーナを見下ろしてから、ネーヴェを睨む。


「お前は領主の自覚が無さ過ぎる。大体しわのついたジャケットで領民に示しがつくと思うのか」


 マーレは主人に意見する従者というよりも、出来の悪い生徒を注意する教師のようだ。でもマーレの意見には賛成だ。フィオリーナも大きくうなずくと、ネーヴェは苦笑してジャケットを着直した。

 マーレはその様子に満足したのか、手際よく御者台から荷物を下ろしていく。まず敷き布の上に小さなテーブルを置き、クロスを広げてその上に皿とカトラリーを並べ、フィオリーナからバスケットを受け取って開く。

 バスケットには本当にたくさんの料理が詰め込まれていた。道理で重いはずだ。フィオリーナでは両手で持たなければならないほどだった。

 小ぶりの白パン、パイの包み焼きにオムレツ、魚の燻製にパテ、チーズに木の実入りのヌガーまである。すべて一口大に切ってあるのでフィオリーナでも食べやすそうだった。

 いっしょにバスケットを覗いたネーヴェはあきれ顔で肩を竦める。


「私ひとりでは、チーズとパンぐらいしか食べませんでしたよ」


 ネーヴェの普段の食事量を知らないカリニではないので、フィオリーナがついていくことを折り込み済みだったのだ。

 座れと勧められるまま、フィオリーナは道具箱にありがたく腰掛けることにした。地面に座り込んでしまうとドレスの裾をさばきにくい。


「私も食べていいか?」


 マーレもバスケットを覗きながら、フィオリーナとネーヴェにグラスを持たせてくる。


「かまわないよ。──フィオリーナも構いませんか?」


 使用人と主人家族がいっしょに食事をすることはまず無い。それは外出先でも同じことだが、同じものを食べるのだ。不快にも思えなかった。


「どうぞ。何がお好きなのかしら」


 フィオリーナはテーブルに置かれた皿を取って、バスケットの中にあった取り分け用のトングを手に取る。

 マーレは少しフィオリーナを見つめたが、


「パンとチーズを」

「ヌガーもつけてやってください」


 口を挟んだのはネーヴェだ。


「ヌガーが好物のくせに」


 ヌガーは卵白と砂糖を混ぜた素朴なお菓子で、小さな子供に人気がある。

 マーレは心底嫌そうにネーヴェを睨んだが、フィオリーナに「ヌガーも」と付け足す。

 ここで笑ってはフィオリーナも嫌われてしまう。我慢したつもりだったが、皿を受け取りながらマーレに少し睨まれた。


「こらえるぐらいなら、さっさと笑え」


 口をとがらせるしぐさは子供のようだ。フィオリーナもとうとう堪えられなくて吹き出してしまった。

 ネーヴェとフィオリーナに笑われることになってしまったマーレは、盛大に顔をしかめたが律儀に瓶だけ置いて馬車へ戻ってしまった。

 マーレが置いていったのは白ワインのようだ。

 ネーヴェは瓶を手に取ると手早く封を切って、香りをかぐ。


「サングリアですね。カリニが趣味で作っているんです」


 干した果物や木の実、香草などをワインに漬けたお酒だという。蜂蜜も入っているというから、お酒に強くないフィオリーナでも飲みやすいかもしれない。

 ネーヴェがグラスに注いでくれて、フィオリーナも香りを確かめた。グラスの中で黄金色に波打つ酒は、ワインの酒気が思っていたより飛んでいて、果物や香草のかおりがさわやかに香ってくる。

 自分のグラスにもなみなみとサングリアを注ぐネーヴェに、フィオリーナは気になったことを口にする。


「……マーレに悪いことをしてしまったでしょうか」


 いくら使用人とはいえ、バカにされたと怒っていないだろうか。


「ヌガーを食べれば機嫌を直していますよ」


 ネーヴェは少しも気にならないようで、たっぷり注いだサングリアに一口飲む。

 つられてフィオリーナもサングリアを少しだけ舐めてみる。香りのとおり、果物や香草の複雑な風味と甘さが美味しい。お酒の味はほとんどしなかった。


「気になるのならあとで話せばいいだけです」


 そう言いながら、ネーヴェはさっさとパンとオムレツを皿に取っている。そういえば、あの大柄なマーレが燻製や卵の料理はいっさい取ろうとしなかった。


「マーレはパンとチーズだけで良いのですか?」


 あれだけではお腹が空いてしまうのではないか。心配するフィオリーナにネーヴェは首を横に振る。


「いいんですよ。彼らは食事も趣味みたいなものですから」


 食事が趣味とはどういうことか。フィオリーナが尋ねようとしたが、ネーヴェは珍しくオムレツやパンを食べて食事を続ける。その様子にフィオリーナもつられて食べることにした。

 白いパンは柔らかく、香草と塩のオムレツは香りが良い。パテは丁寧に臭みをとってあるのか旨味だけが残っていて、薫製も嗅いだことのない豊かな香りがした。パイ包みはたっぷりとクリーム煮が仕込まれていて、チーズは牛乳と香草の香りがした。おそらく庭の香草がふんだんに使われているのだろう。

 バスケットがからになるころ戻ってきたマーレもまったく気にした様子はなかった。

 ハンカチに包んで残しておいたヌガーはどうしようかと思ったが、「ヌガーはもらっておく」とだけ言って、マーレはハンカチからつまんでそのまま口に放り込んだ。

 この主従たちはあきれるほど、どこかそっくりだった。



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