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馬車が言うには

 ベロニカの講義は夜遅くまで続いた。

 授業は白熱し、フィオリーナはネーヴェから貸し出されたメモに書き留め、質問を繰り返した。

 そんな熱血講義だったが、そばで見ていたネーヴェが居眠りを始め、ベロニカが怒鳴ったところでお開きとなった。

 美容にはよくないが、今日だけだといって食べた紅茶とチョコレート菓子は美味しかった。チョコレートの原料は輸入品なので高級なのだ。持ち込んでくれたネーヴェと甘やかしてくれたベロニカに感謝した。



 その夜、フィオリーナは驚くほどよく眠れた。

 ベロニカは怖い人だという印象からお節介な人という認識になって、緊張が解けたからだろうか。

 翌日はすがすがしいほどすっきりと目覚め、朝から元気なベロニカの息子たちと朝の散策に出かけたほどだ。

 広大な敷地は子供たちのかっこうの遊び場となっていて、庭の奥ある秘密基地まで連れて行ってもらうことができた。


 だから、いざオルミ領へ帰る時間となるまで気がつかなかったわけではないのだ。

 馬車の中でネーヴェと二人きりにされるとは思わなかっただけで。


 御者は当然のことながら、ラーゴやアクアまで外付けの御者台に乗ると言って馬車の中へは入らなかった。

 いくら気安いとはいえ、主人と使用人の関係であるから何らおかしいことはない。


(でも)


 フィオリーナは恨みがましい気持ちをおぼえずにはいられなかった。

 それほど大きくはない車体のわりに、この馬車は大人が向かい合わせに座ることが出来る。走り出した馬車の中では車輪と馬が土を蹴る音だけが響いていた。

 今日のフィオリーナもベロニカが作ったドレスを着せられている。さわやかな夏空のような淡い空色と白いレースをふんだんに使ったやわらかなドレスだ。細かいストライプの生地に襟や袖口に丁寧にあしらわれたレースが華やかだが、生地の光沢はおさえてあるおかげで派手過ぎずいっそ素朴に見えた。細部まで凝られたデザインからは本当にドレスが好きな人が作ったと伝わってくる。

 夫の楽しみなのだと嬉しそうに言ったコルネリアの顔が思い浮かんでフィオリーナのほうが思わず顔がほころんだ。きっとさまざまな苦労も多いはずだ。けれど、うらやましいほど幸せな夫婦だ。

 それに比べて自分はどうだろう、とフィオリーナは今に立ち返る。

 フィオリーナの対角線上で見慣れない人が窓の外を眺めている。

 今にも上着のポケットから煙草とマッチを取り出しそうな雰囲気だ。

 濃い紫の髪は今日にかぎって櫛で丁寧に梳かれているようで、ジャケットの肩口をゆるやかに流れている。スーツは夏雲の影のような少し暗い藍色。ネクタイは細かい模様の入った白に近い光沢のある灰白色。靴は光の反射で鈍色にも見える黒。その手にはふしぎと涼しげな鼠色の皮手袋。

 帰り際にベロニカに捕まったのだというネーヴェは、今まで見たこともないほど完璧な紳士姿だった。エルミスたちが宝の持ち腐れだと嘆いていたのもうなずける。

 しかし当の本人は不機嫌なのか、退屈なのか。

 眼鏡の奥にある菫色の瞳が何を見つめているのかさえ、出会って間もないフィオリーナには思い当たらない。フィオリーナの手を引いて馬車に乗り込んでからずっと黙り込んだままだ。

 ただ、この不機嫌な猫のような横顔に不思議な既視感を覚えていた。

 そのときも今と同じように光に透ける髪がきれいだと思ったのだ。

 そして、フィオリーナを見下ろした瞳はとても澄んでいた。

 ──あの瞳の色は何色だっただろうか。

 何か思い出しそうになったフィオリーナだったが、現実の菫色の瞳にじっと見られていることに気づいた。

 ときどき大きな猫のような人だ。澄んだ瞳に見つめられていると、小さなねずみになってしまうような心地になる。


「……そのドレス、あなたも着せられたんですね」


 そう猫が喋って──いや、ネーヴェの声にフィオリーナはぱっとドレスに意識を切り替える。話題を提供されて良かった。あのままでは本当にねずみになりそうだった。


「すてきなドレスですよね」

「侯爵は人を着飾ることがお好きなんだそうですよ」


 迷惑している、とうんざりしたような顔をしてから、ネーヴェは苦笑する。


「でも、あなたに発揮されるなら有益な趣味ですね。──よくお似合いです」


 ネーヴェにそう言われると、小さなねずみから本当にすてきなドレスをまとったお姫様になったようで嬉しくなる。


「ありがとうございます」とフィオリーナがほっとして笑うと、ネーヴェも息をつくように笑った。


「……よかった。怒っているわけではなかったんですね」


 フィオリーナがあんまり黙り込んでいるから怒っているのだと思っていたという。黙り込んでいたのはお互い様だったのだ。思わずフィオリーナが笑ってしまうと、ネーヴェもつられたように明るく笑った。 

 オルミ領に着くまであと一時間と少し。ネーヴェは仕事があるだろうから、帰ったあとで二人きりで話す時間は少ないだろう。ネーヴェとふたりで話すのなら今がいい。


「……あの、どうしてついてきてくださったのですか」


 こうして尋ねること自体がフィオリーナのわがままだと分かっていたが、ネーヴェが変装してまでついてきてくれた、その気持ちを聞きたかった。

 今度はフィオリーナがネーヴェを見つめると、彼は眼鏡の奥で少しだけ目を泳がせる。


「……すみませんでした」


 謝ってほしいわけではない。ただ理由が知りたい。それをフィオリーナが伝えると、ネーヴェはますます視線をあさっての方向へ飛ばした。「うーん」と唸りながら手のひらで口元をおさえて隠してしまう。

 それでもフィオリーナがじっと視線を動かさない様子を見て、ネーヴェは観念したように菫色の瞳をフィオリーナへ戻した。


「……怒りませんか?」

「怒りません」


 ネーヴェの答えによっては悲しくなってしまうかもしれない予感はあったが、フィオリーナが怒ることはないような気がしていた。

 ネーヴェは肺にたまった空気を全部吐き出すようにして息を吐いて、でも少しだけまたフィオリーナから視線をそらす。


「──あなたが心配だったからです」


 ネーヴェの声はやわらかいのに馬車の中でもよく聞こえる。

 菫色の瞳はななめに床を見たまま、彼は口だけを動かした。


「……侯爵のことですからあなたを悪いようにしないとわかっていましたが、あなたを焚きつけたのは私であることに違いありませんし……お預かりしている責任がありますから、あなたがうまく侯爵と会えるまで心配で…」


 そこまで口にしてネーヴェは顔をしかめた。


「…やっぱりどんなに言い訳してもおかしいですね。あなたは小さな子供でもないのに…心配などと気味が悪いとお思いでしょうが……」


 そう言うと息を吐いてネーヴェは軽く頭を振る。


「……すみません。これは私の言い分であってあなたは何も悪くありません。今回のことはあなたの功績なのですから。やっぱりどうかしていました。黙ってついて行くような真似をしてすみませんでした」


 目を伏せてしまったネーヴェの頬が少し赤い気がするのは日の光のせいではないだろう。

 ネーヴェらしくない早口はどう聞いてもただの弁解だった。


「私のような男があなたのような女性の後をつけるような真似は本当に頭のおかしいことです。今後は一切このようなことはしないと誓いますので……」


 たしかにどんな善意であってもよく知らない人につけ回されることは恐怖以外の何物でもないし、知人であっても気味が悪い。どう間違っても好意なんて抱かない。

 だから、フィオリーナがあのときはっきりと嬉しく思ったのは、きっとあのとき、あの瞬間そばにいたのがネーヴェだからだ。

 そうやってネーヴェがフィオリーナを心配してくれたことが嬉しいと思うのに、ネーヴェ自身がそれを否定するというのか。


「ネ、ネーヴェさんがわたくしを心配してくださったのに、それをあなた自身がおかしいとおっしゃるのですか…!」


 落ち込むより先に、気持ちを口にしてしまった。

 ネーヴェの気持ちを否定されたことが悔しかった。

 そして、彼の言うとおり小さな子供のように感情を爆発させることが恥ずかしい。

 相手の気持ちも汲まず、そんな自分をさらけ出してしまうことが何より未熟だ。

 淑女の見本のように笑って受け流せば良かったのに、それができないことが情けない。

 体が熱い。きっと顔だけはなく体中が真っ赤だ。

 こちらを見ている菫色の瞳が丸くなっている。驚いて当然だ。フィオリーナも自分で自分に驚いている。

 どうしてこんなに悔しいのか、これほど恥ずかしいのかも分からない。

 でも唇をかみしめてしまいそうになるほどの、フィオリーナの沸騰するような気持ちは簡単にはおさまらなかった。


「フィオリーナ…」

「謝らないでくださいっ」


 ネーヴェがフィオリーナの名前を呼ぶだけで心臓が痛いほど波打つ。

 いっそ泣きたくなるというのに、怒りにも似た恥ずかしさでフィオリーナは真っ赤になるだけだった。

 フィオリーナの様子を戸惑うように見ていたネーヴェは、こちらも考え込むようにして頭を下げてくる。


「……すみませんでした」


 再度繰り返すネーヴェを見ていられなくなって、フィオリーナはふくれっ面のまま窓へと顔を背けてしまった。



 重たい沈黙を抱えた馬車はやがて何事もなくオルミ領へ着いた。

 ネーヴェとフィオリーナの妙な空気に気付いたのか、アクアとラーゴは何も言わずに顔を見合わせている。

 何も言えないままでいると、先に降りたネーヴェはフィオリーナに手を差し出した。

 当然のようにこういうことができる人だというのに、どうしてフィオリーナの心をかき乱すことばかりするのか。

 悔しい気持ちを新たに手を借りて馬車を降りてから、フィオリーナはあっと気付いてしまう。

 ネーヴェとフィオリーナの格好は空色と藍色、そして白でまとめられている。これはふたりで一対になるよう揃えられていたのだ。──まるで恋人のように。

 そんなことにも気付かなかったことがまた情けなくて、フィオリーナは真っ赤になったままネーヴェのエスコートで帰宅した。

 結局最後までネーヴェの顔は見ることができないまま。

 それでも、ネーヴェの手はフィオリーナの指をむやみに離したりはしなかった。



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