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シガールームが言うには

「あの娘についてあげていなくていいの?」


 ベロニカが酒をあけながら言うが、ネーヴェは自前の煙草を吸うばかりだ。ワインも一杯なめただけだった。相変わらず食の細い男だ。

 シガールームには女性たちの楽しげな声がささやかに聞こえてくる。それ以外は代々受け継がれている古い家具が煙草の煙すら吸い込むように静かだった。


「女性同士のほうがフィオリーナも楽しいでしょう」

「あら、それじゃあアタシも混ざる権利があるわね」

「ご自由に」


 そう言うつれないところがあまりにも昔と変わらなくて、ベロニカは笑ってネーヴェの向かいに腰掛けた。

 クリストフはラーゴを連れて婦人たちとたわむれに行ったので、このシガールームにはネーヴェとベロニカのふたりきりだ。

 広くも狭くもない部屋に懐かしい煙の臭いが充満して、ベロニカはそれが懐かしいと思うことに苦笑する。 


「あいかわらず可愛げのない子ね」

「この年で可愛げがあっても仕方ないでしょう」


 ネーヴェがくゆらせた紫煙がゆったりと部屋をたゆたう。

 本当に相変わらず可愛くない年下だ。しかし思い返してみても、ネーヴェが可愛かったことなど一度もなかったようにも思う。

 ネーヴェと出会ったのはベロニカが十五歳、彼が十二歳のときだ。その頃から子供特有の可愛げなど持ち合わせていなかった。

 戦場でネーヴェと初めて顔を合わせたとき感じたのは、同情よりも吐き気をもよおすような恐怖だけだった。

 そんな邂逅から付き合いだけならばベロニカが誰よりも長くなった。


(他の戦友はみんな死んでしまったものね)


 寒いだけの戦場を懐かしく思える今を、ベロニカは誰よりも愛している。 

 それはきっとネーヴェも同じことだろう。


「あの娘を助けてやって、どうするつもりなの?」


 ベロニカが贈ったドレスを着てやって来たフィオリーナという貴族の娘。彼女の噂ならばベロニカの耳にも入っている。薄っぺらい噂だが、暇を持て余す貴族どものあいだではかっこうの的だ。あの娘がどれほど心優しい娘だろうが関係ない。彼女やその家族にとって災難以外の何物でもないが、世間知らずなあの娘を助けてもネーヴェの得になるとは思えなかった。


「すべて私の都合ですよ」


 煙草の煙をゆったりと吐いて、ネーヴェは目を閉じる。自嘲するようなそれが、どこか楽しげに見えた。

 ベロニカはそれが答えのように思えて、紅唇で笑う。


「中途半端な手助けほど醜いものはないわよ、ネーヴェ」


 ベロニカの忠言を、ネーヴェは一笑に付した。


「もちろん。私に益のある関係ですよ」


 そうやってうそぶくネーヴェが嘘を言っているようには見えなかった。

 ネーヴェの実家のことならばベロニカも知っている。だが、あの娘に居場所を与え、クリストフやベロニカといった人脈を与え、彼女の名誉まで回復させようとしているネーヴェの労はいかほどのものか。ベロニカの目には、彼女の実家を頼る益よりもはるかに多くのものを支払っているように見えた。

 まるでネーヴェの持てるものすべてを与えるような。

 まさかネーヴェに限ってそれはない、と決めつけようとしたベロニカを横目に、当の本人はふと煙草の火を灰皿に押し付けて消した。

 ドアへ向かって眼鏡の奥から紫の目を光らせたと思えば、やれやれといった様子で顔をなごませる。そしてやわらかな笑みすら浮かべて、席を立ってドアを開ける。


「──また眠れませんか。フィオリーナ」


 コルネリアたちと談笑していたはずの、渦中の娘が目を丸くして立っていた。ノックをしようか迷っていたようで、戸惑うように上げていた腕を下ろしてフィオリーナは視線を下げる。


「も…申し訳ありません。お話中に…」


 そう言ってうつむく彼女が、悪女になろうなどという世迷い言に向いているとはベロニカには思えなかった。


「眠れないのなら、ここで何か飲みますか」


 ネーヴェの言葉にフィオリーナもベロニカもすこしぎょっとする。この国のマナーの教本にのっとるなら、女性は基本的にシガールームには立ち入らない。ここは一種の紳士クラブ的なものであるし、古くさいお歴々に見つかればここへ入る女性は男を相手にする娼婦か身持ちの悪い女性と決めつけられてしまう。だから形ばかりになったマナーばかりの中でしつこく残った、暗黙の了解といっていい常識であった。そのため屋敷の主人の妻であってもよほどでないかぎりシガールームに入ることさえしない。


「今は私たちのほかに誰も居ませんし、屋敷の主もあの格好ですし」


 あの格好、とは他でもないベロニカのドレスについてだろう。たしかに格好だけならばドレスのベロニカと着崩したベスト姿のネーヴェがいる部屋で紳士クラブの格式もあったものではない。


「悪女となるなら、貴族の男のことも学んでください。これも勉強になると思いますよ」


 もっともらしく詭弁を弄するネーヴェに、何をいい加減なことをとベロニカはあきれた。だが、フィオリーナのほうは「なるほど」とうなずいている。


「何か飲み物でも持ってきますよ。ここには酒しかありませんから」


 そう言ってネーヴェは部屋から出てしまう。使用人でも探しに行ったのだろう。呼び鈴を鳴らせば誰かが来ることは知っていただろうが、わざと出て行ったのだ。ベロニカもネーヴェを止めなかったのだから同罪だ。

 どんな遊びや享楽だろうが、人選は慎重になされなければならない。それが広大な領地を維持管理する貴族の性分なのだ。ベロニカがフィオリーナと一対一で話したいことをネーヴェは察したのだろう。


「いらっしゃい。そちらへかけて」


 ベロニカがネーヴェが座っていた椅子のとなりを指すと、フィオリーナは意を決したようにシガールームへと足を踏み入れた。

 落ち着かずきょろきょろと部屋を見回す彼女はどう見てもふつうの貴族の娘だ。

 ネーヴェとクリストフの悪い遊びに捕まってしまったとしか思えないが、


(そそのかされたとしても、自分の足で歩いているわ)


 すすめた席に座るフィオリーナを長いまつげの下からとっくりと見ていれば、弱いだけの娘にも見えなかった。椅子に浅く品よく腰掛け、スカートのひだを整える様子はとてもよく教育されている。


「はじめてシガールームに入った感想は?」


 呼びかけると、落ち着かない木の実のような目がベロニカへと視線を戻した。


「……お、思っていたより煙草の臭いがしないのですね」


 おずおずと質問に答えた声はか細くてもよく聞こえた。


「そうね。このシガールームはアタシぐらいしか使わないし、煙草は吸わないから」


 ベロニカがそう言うとフィオリーナはサイドテーブルに残された灰皿を見た。その得心したような顔は、ネーヴェが煙草を吸うことを知っているようだった。あの人嫌いが趣味のひとつをさらしている。それだけでもフィオリーナという娘のひととなりは輪郭を持ってくる。


「余裕ねぇ──私が君のことを誰かに話せば、悪評はあっという間に真実になるよ」


 ベロニカが男の言葉で返すと、フィオリーナは顔をこわばらせた。


「も、申し訳ありませ…」

「すぐに謝らないで」


 謝ることができるのは美徳だが、焦ってすぐに謝罪を口にするのはよくない癖だ。

 謝ることが癖になっているのだろう。世間知らずの貴族の娘に、それを言わせ続けた者がいるのだ。


「貴族の男は見た目が誠実でもどいつもこいつも性格は良くないわよ。覚えがあるのではなくて? クリストフなんていい例だと思うけれど」


 ベロニカが足を組んで言うと、フィオリーナはひどく渋いものを食べたような顔でうなずく。覚えがあるのはクリストフだけではないのかもしれない。


「従順であることはちょっと忘れなさい。自分の意見を考えて、口に出せるように練習をしてみるの」


 木の実色の瞳が輝いて、ベロニカを見た。それは弱々しい光だが確かにきらりと輝いた。


「誰かと競う必要なんてないわ。人の話を遮るなんて会話術として最悪よ。無礼者になるだけ。人の話を聞いて、意見を述べる。これができればあなたの話を聞いてくれる人が格段に増える。話を聞く気がない人はどうやっても聞かないからあきらめなさい」


 ベロニカの話を静かに聞いていたフィオリーナはゆっくりと口を開いた。


「……わたくしの話を必要としない人とは、もう話はできないのでしょうか」


 フィオリーナが思い浮かべている人物が誰かは見当はついている。


(これはおそらくネーヴェも)


 これはベロニカたちにとってはひどく単純で、彼女にとっては難解である問題だろう。


「話ができるようになるまで待つしかないわね。そのために、悪女になるんでしょう?」


 自信がないのなら作ればいいだけだ。来る気配のない人を待つ時間があるのなら、時間は有効に使えばいい。


「覚えることはたくさんはあるわよ。まずあなた、アタシのドレスを着るには貧弱よ」

「ひ、貧弱ですか…?」


 思わずといった様子でフィオリーナはベロニカを見つめてくる。ベロニカが他に類を見ないほど恵まれた体格であることは自他ともに認めるところだ。


「かかとの高い靴でまっすぐ歩くには筋肉が必要なの。夜会ですぐ椅子に座り込んでいる女性をよく見るでしょう? あれは筋力がないのよ」


 世の女性は男より貧弱であることを求められているため、どの女性も細身であることが良しとされている。だが、ベロニカに言わせればそれはただの男の都合であって、彼女たちが普段着こなすドレスの重さを知らないだけだ。


「運動をしなさい。筋力をつけるの。太ってもだめ。多少の融通はしてあげるけれど、今より太ってごらんなさい。社交界の笑いものにしてあげる」 

「は、はい!」


 フィオリーナが背筋を伸ばしてしっかりと返事をする。


「その調子よ。声はお腹から出すの。コルセットに頼りきりにならないで、自分の体が動いていることを意識しなさい」

「はい!」


 新兵訓練のようになってきたシガールームに帰ってきたネーヴェは、二人の様子にあきれた顔をした。


「……何をしているんですか」


 その手の銀盆には紅茶とチョコレート菓子が載っている。


「ちょうどいいわ。気をつけるべき食事も教えて上げる」

「はい!」


 教官のように声を張るベロニカと新兵よろしく返事をするフィオリーナを見渡し、ネーヴェは面倒臭そうに銀盆をテーブルへと置いた。そして会話に加わるつもりは微塵もないのか、椅子にどっかり座って煙草に火をつける。

 保護者の了解を得たのならば遠慮はいらないだろう。

 ベロニカもフィオリーナに向き直って気合を入れる。

 長い夜になりそうだ。



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