妻が言うには
どうしてこの人が、と思うより先にフィオリーナは席を立ってネーヴェに駆け寄っていた。
「ネーヴェさん、どうして…」
ほとんど詰問に近いフィオリーナの問いかけに、ネーヴェは気まずそうに視線を泳がせる。
「すみません」
「謝られるばかりではわかりません」
今のフィオリーナに言い訳は通じないと知れたのか、ネーヴェは息をついてから口を開く。
「……御者になりすましていました」
「なりすまし…?」
先ほどまで馬車を駆っていたのがネーヴェだとするなら、
「……最初からついて来られるつもりだったのですか!?」
自分でもおどろくほど大きな声だった。
ベロニカも言ったではないか。ネーヴェは最初からついてくるつもりだったのだ。
そんなにフィオリーナは頼りないか。不安そうだったのか。
始めから言っていてくれれば、と悔しくなってしまったところで、色々なものがないまぜになったフィオリーナが吐き出したのは、笑い声だった。
「ふふ…あははっ」
大口を開けて笑うなんてはしたないことだ。けれど、とうとう堪えきれなくなったのだ。
とつぜんフィオリーナに大笑いされたネーヴェは目を白黒させている。いつも泰然とした彼にしては珍しいことだ。
それがまた可笑しくてフィオリーナは笑った。
ネーヴェは、ベロニカに指摘されなければ何食わぬ顔で道中を往復していただろう。そして素知らぬ顔でフィオリーナに園遊会の様子を訊ねるのだ。
彼のどうしようもない優しさが嬉しくて、滑稽で、たまらなく可笑しかった。
「あっはっはっは! いいツラだな、ネーヴェ!」
気付けば、うしろでベロニカとクリストフも大笑いしている。ネーヴェの隣ではラーゴが肩を震わせて口元を必死におさえていた。
一同に大笑いされたネーヴェは怒ったように口を曲げたものの、それは呆れから苦笑に変わった。
「──まどろっこしいと言ったアクアが正解だったようですね」
付き添いのラーゴが知っていたなら、アクアも当然知っていたのだろう。
もしかすると、知らなかったのはフィオリーナだけかもしれない。
これほどまでに心配され、気にかけてもらえることなど、フィオリーナがもっと子供であったときにもあったかどうか。
りっぱな淑女であるように、常ににこやかにしとやかであれと育てられるのだ。きっと大笑いすることなど一生なかっただろう。
ネーヴェと出会わなければ。
(ふしぎな気分だわ)
騙されていたといえばその通りであるし、ちっとも自分の思い通りになどいかなかったというのに、フィオリーナの心は不思議と晴れ晴れとしていた。
はじめて自分の足で地に立ったような感覚さえする。
そんなフィオリーナを眺めて、苦笑していたネーヴェが菫色の目を細めていた。
日の光を反射した瞳はやっぱりきれいだった。
▽
園遊会は夕方でお開きとなったが、フィオリーナはネーヴェと共にベロニカに勧められるまま屋敷に迎えられた。
そこで引き合わされたのは、薄茶色の髪のうつくしい女性だ。
見ているこちらまで微笑んでしまいそうな、ふっくらとした彼女は外見にたがわずゆったりとフィオリーナを歓迎してくれたのだが、
「妻のコルネリアと申します。お昼にご挨拶できなくて失礼いたしました」
子供がひどく泣くものだから、というコルネリアの話題に相づちを打っていたフィオリーナだったが、ふと気付く。
彼女は誰の奥方なのだろうか。
助けを求めるようにさりげなくクリストフを見るが、彼は目敏く首を横に振る。
ネーヴェはもちろん未婚であるし、ラーゴは従者だ。
いまいち事実を現実として受け止めていないフィオリーナはコルネリアのとなりに真っ赤なドレスが並んで、ようやく理解した。
「アタシの妻よ」
ベロニカが大切そうにコルネリアの肩を抱いている。貴族にありがちな冷めた夫婦関係には見えなかった。彼のすばらしいドレス以外。聞けば、彼らのあいだには二人の子供がいるという。
オルミ領へ帰るにはもう遅いからと、そのまま屋敷に一泊することになって、夕食の席で顔を会わせた子供たちはまだ三歳と七歳の男の子たちだった。
夕食の席ではとうぜんのようにフィオリーナは新しく落ち着いた水色のドレスを用意され、ベロニカも今度は紫のドレスを身につけてやってきた。コルネリアとその子供たちはベロニカとフィオリーナのドレスを誰よりも誉めた。
夕食後の談話室で大人たちだけとなってから、コルネリアはフィオリーナに打ち明けてくれた。
「うちは男の子ばかりだから、あなたのお話に夫がすっかり乗り気になってしまって。しばらく付き合ってあげてくださいね」
私もお手伝いしますから、とコルネリアは微笑んだ。
クリストフはこの夫妻にどこまで話したのだろうか。
横目でクリストフに視線を投げてみるが、彼はフィオリーナには見向きもしなかった。
(きっと、ぜんぶ話してしまわれたのだわ)
彼はフィオリーナの視線に気付いていながらわざと無視している。その沈黙が答えだった。
(でも)
コルネリアの言葉を信じるならば、すでにベロニカはフィオリーナの味方であるらしい。味方は多いほうが良い。
そう思い直して、フィオリーナはコルネリアに微笑み返した。
「──これから、よろしくお願いいたします。コルネリアさま」
「はい。こちらこそ」
この優しいコルネリアがこれほど幸せそうなのだから、彼女の夫であるベロニカが悪い人であるはずもないのだ。




