御者が言うには
「本日はお招きいただきありがとうございます。アレナスフィル候ベロニカさま」
フィオリーナがなんとかマナー通りにドレスをつまんで挨拶すると、ベロニカは長いまつげをはばたかせて目を細めた。
「ええ、ようこそ。フィオリーナ嬢。──それからラーゴ」
ベロニカはフィオリーナのそばで姿を消すようにして黙っていたラーゴに目を向ける。
「聞きたいことが増えたわ。今すぐ、あなたの主人を連れていらっしゃい」
「あるじは本日別件の所用で…」
「来ているんでしょう? 招待してあげるからさっさと連れてきなさい」
持ち前の人当たりの良さでベロニカの要求をかわそうとしたラーゴだったが、ベロニカの揺るぎのない口調に早々に降参を示すように胸に手を当てた。
「少々お待ちください。──フィオリーナ様、少しのあいだ失礼いたします」
優雅に目礼するとラーゴは無情にもフィオリーナをベロニカの前に残していってしまう。
ラーゴの主人というと、カミルヴァルト本家の人物が来ているのだろうか。ネーヴェの親戚に会うことになってしまうと、まだ色々とよくない気がする。
「ラーゴ…っ」
呼び止めようと焦って名前を口にしたが、ラーゴはすでに会場の人々にまぎれて姿が見えなくなってしまった。
「大丈夫よ。すぐ戻ってくるわ」
ベロニカは悠然と頬に指を添えた。仕草はたおやかながらも、腕の筋肉がすばらしい。歴戦の武人と対峙したらこのような緊張感になるのかもしれないとフィオリーナは我知らず息をのんだ。
「さぁ、こちらへ。少しお話しましょ」
使用人がしずしずと椅子を持ってやってきて、フィオリーナはクリストフと共に席を勧められた。
ベロニカも優雅に腰掛けて使用人に飲み物を注文している。彼の所作は、貴婦人を見慣れているはずのフィオリーナも感嘆するような完璧な所作だ。
思わず姿勢を正していると、ベロニカがフィオリーナをじっと観察していることに気がついた。
(そうだわ、お礼を…)
おそらく、フィオリーナの今日のドレスを選んでくれたのはベロニカなのだ。こちらから話しかけることはためらわれるが、どうにかお礼を伝えなければと思ったところで、フィオリーナははたと気づく。
(同じ色)
ベロニカとフィオリーナのドレスはデザインこそ違うが、同じ深紅のドレスだ。着ている者が違うだけでここまで印象が異なるものかと感心してしまうが、もしかしたら同じ生地なのかもしれない。そう思えてきてしまうほど同じ色だった。
(同じ色だったからだわ)
この会場で受けた多くの視線は、フィオリーナ本人に向けられたものではなかったのだ。主催のベロニカと同じ色のドレスを着ていたからだ。
招かれた者として主催とまったく同じ衣装を身につけるなど、いつ会場から摘まみだされてもおかしくないほどのマナー違反だ。
フィオリーナはさぁっと血の気が引いていくのを感じた。
贈られたドレスを身につけているのだからフィオリーナに選択の余地はなかった。だとすれば、ベロニカはわざとこのドレスを贈ったのだ。
(いったい何が目的で)
脅迫か。警告か。排除か。
いずれにせよ良い感情ではないもので満たされた壷に落とされたようなものだ。
(どうしよう)
このままではせっかく協力してくれたエルミスたちやネーヴェに迷惑がかかってしまう。
フィオリーナのような何もできない娘がハリボテでも悪女になろうとした計画は浅はかだったのだ。
今すぐドレスを脱いで詫びたいが、それでは醜聞がさらなる大きな醜聞になるだけだ。
冷や汗で手袋が冷たくなってきたのは、気のせいではないだろう。
「堂々としていなさいな」
問題のベロニカが艶やかな紅唇を引き上げた。
「あなたはアタシが作ったドレスを着ているのだもの。ふてぶてしく着飾ってもらわないと」
胸を張れ、とベロニカは言う。
「……ベロニカ様がお作りなったのですか……?」
思わずフィオリーナが尋ねるとベロニカは大きくうなずく。
「ええ。素敵でしょう?」
そう自信たっぷりに言われては「はい」と返事をするしかない。
「アタシは自分が着たいドレスを作っているの。アタシにふさわしいドレスはそうそう無いから」
ベロニカはお世辞ではなくすばらしい体格の持ち主だ。並のドレスでは似合わないだろう。
「その宝石、オネストとエルミスの見立てね。今のあなたにぴったり」
にっこりと微笑まれ、少しだけ緊張がゆるんだフィオリーナが礼を口にしようとしたが、すかさずベロニカは続けた。
「でも、悪女になりたいならそれじゃあダメね」
ぴしりと鞭で叩かれたように固まったフィオリーナに、ベロニカはゆったり笑んだ。
「今の自分を変えたいのなら、自分でも行動しないと。──そういう意味では、この園遊会へ参加したのは間違いではないわ」
そう言って、ベロニカは分厚いまつげに縁取られた瞳をフィオリーナのうしろへ向ける。彼の視線につられてフィオリーナも振り返る。
そこには、今朝からずっと馬車を操っていたはずの御者がいた。
どうしてラーゴが御者をこの場に連れてきたのか。
その問いは御者が帽子を脱いですぐ分かった。
帽子からこぼれたのは、深い葡萄色の髪。帽子から落ちた長めの髪は肩を覆い、その背は他に見ないほど高い。伏せた目にかけたのは分厚い眼鏡。
思わず声を上げそうになって、フィオリーナは口元を指で覆う。
フィオリーナに苦笑したのは、今朝べつの用事に出かけたはずの人だ。
見慣れない三つ揃いに見慣れた分厚い眼鏡。その奥ですみれ色の瞳がこちらを覗いて細くなった。
「どうせついてくるなら始めから一緒に来なさい。ネーヴェ」
呆れ声のベロニカに、ネーヴェは恥ずかしそうに頭をかいた。




