幌馬車が言うには
出かけるというミレアとフィオリーナに少し慌てたのはアクアたちだ。彼らはネーヴェから言いつけられていた冬支度や所用で忙しい。でもミレアがいるとはいえ、フィオリーナをひとりで出掛けさせるわけにもいかない。
「ではわたくしが参りますよ」とホーネットが言い出したが、彼女も夕食の準備がある。
そうこう言っているときにマーレが外出から帰ってきた。
「ちょうどいいところに」
アクアに腕をつかまれたマーレは訳が分からないと眉根を寄せたが、面倒ごとの予感がしたのか溜息をついた。
「それで、どちらへ?」
外出帰りからそのまま外へ連れ出されることになったマーレは、ミレアが乗ってきた幌馬車の手綱を握って御者台から振り返った。
「村の風呂屋へ行ってくれ」
ミレアの注文に何かを察したのか、マーレはそれ以上問い返さず馬車を走らせた。ミレアの幌馬車はがたがたと揺れたが、のんびりと進んでほどなく村へ着く。そのまま風呂屋の前まで辿りつくと、ミレアとフィオリーナだけで建物の前に降りた。
公衆浴場というだけあって、他の建物よりも大きかった。どっしりとした平屋には二つの煙突が突き出している。玄関は二手に分かれていて、男用、女用と文字と絵の看板が立ててあった。
ミレアは堂々と男用の玄関を入っていってしまう。
「み、ミレア…!」
フィオリーナが慌てて止めるが、ミレアは気にせず進む。
「大丈夫。今日は誰もいないから」
人気はないが、そういう問題ではないのだ。ただただ居心地が悪い。
ミレアは脱衣所のような場所を横切って、そのまま外へ出た。薪や火かき棒などが積まれた裏側へ回ると、奥まったところに屋根のついた機械を老人と見慣れた長身が覗き込んでいる。
「頼まれていた部品は交換したから問題ないと思うよ」
機械の側面の戸を閉じて彼が言うと、
「いい加減、こいつも年だからなぁ」
老人はそう応えて機械のあたまをぽんぽんと叩く。
「ま、オレといっしょにくたばるまで面倒みてやってくれや」
言われた彼は皮肉屋らしく肩を竦めた。
「私にできることだけはやるよ」
老人は皮肉屋の肩を叩いて「このひねくれものが」と笑った。
「領主さん」
会話に割って入ったのはミレアだ。だが、本当についてきて良かったのだろうか。
ミレアのうしろのフィオリーナを見つけたネーヴェは案の定、苦笑を浮かべた。
「どうしました、こんなところまで」
「風呂屋なんか見たことないだろうから連れてきただけさ」
フィオリーナの代わりに応えたミレアを、ネーヴェはあきれ顔で見遣って肩を竦める。
「こんなところとはご挨拶だなぁ」
風呂屋の主人なのだろう老人がカカッと笑って、ネーヴェの肩を叩いた。
「この別嬪が噂のアンタの婚約者か!」
そんな話が村中に広がっているのだろうか。どう返したものかとフィオリーナがネーヴェを見上げると、彼は苦笑しただけだった。
「冬のあいだ、勉強のために滞在しているんですよ」
ネーヴェは嘘をついていないが本当のことでもない。だが風呂屋の主人は勝手に納得して、
「奥さま修行ってやつか。貴族さまはたいへんだねぇ」
そう言って風呂屋の主人はネーヴェの肩をまたぽんぽんと叩く。
「この朴念仁のところに嫁なんか来るのかって話してたところなんだよ。だいたい、この人ときたら年がら年中、機械いじりか研究しかしてねぇだろ? 見てくればっかり立派でも貧乏領主に嫁ぐ物好きはいねぇってさ」
本人を目の前に好き勝手に話したかと思えば、風呂屋の主人はフィオリーナにニカっと笑う。
「だからよ、せいぜい大事にしてやってくれ。こう見えていい奴なんだよ」
ネーヴェを本当に息子のように扱っているのだろう。風呂屋の主人にフィオリーナも微笑んだ。
「──はい、もちろん。わたくしの大切な人ですから」
ふとネーヴェを見上げると、困り果てたように微笑んでくれた。
さすがに公衆浴場に入ることはできないから、とフィオリーナはミレアと共に風呂屋の休憩所やボイラーの仕組みなどを説明してもらって、見学を終えると風呂屋の主人は最後に笑って見送ってくれた。
「いやぁ、今日はいい話が聞けたよ。ありがとな!」
話を聞かせてもらったのはフィオリーナの方だが、それでも「こちらこそ」とうなずいて風呂屋をあとにした。
ネーヴェは馬で来ていたので騎乗して帰ることになり、フィオリーナはミレアの幌馬車で送ってもらうことになった。御者はマーレだ。
がたごとと揺れる座席に慣れたころ、ミレアは「どうだい」と笑う。
「困ってただろう?」
ネーヴェを困らせるのは気が進まないが、彼の仕事ぶりを見られることや仲のいい人と出会うのは純粋に嬉しい。
フィオリーナの答えにミレアはあきれ顔で笑った。
「あのじいさん、今日は酒場で領主さんとアンタのことを言いふらすよ」
「……それは、困ります」
ネーヴェとはもう婚約者と偽る必要もない。今はただの教師と生徒なのだ。
困り顔のフィオリーナにミレアは静かに笑った。
「何を悩む必要があるんだ。アンタはもう分かってたじゃないか」
ネーヴェのことを大切な人と言えた。
これまではとてもではないが素直に口に出せなかったことだ。
今まで熱であぶられていたような気持ちが、すこしずつ冷まされて形になってきたようだった。
それでも、ミレアに本当のことが言えなくてぎこちなく微笑むと、ミレアは苦笑する。
「……アンタも困った子だね」
いつでもお茶に付き合うよ、とミレアは笑ってくれた。
領主宅に着いた頃にはすっかり日は傾いていて、先に着いたのだろうネーヴェが馬を厩舎に戻して庭に戻ってきたところだった。
ミレアを見送ってマーレと共に門をくぐると、フィオリーナたちを見つけたネーヴェはすこしだけためらうように足を止めた。
庭先で夕暮れにゆっくりと染まる葡萄色の髪を見ながら、フィオリーナがネーヴェの前に立つと彼は気を取り直すように「おかえりなさい」と言う。
帰ってきたのはネーヴェも同じだ。フィオリーナも慌てて「おかえりなさいませ」と言うと、ネーヴェは苦笑した。
「今日はどういう趣向だったんですか?」
ただの修理ですよ、とネーヴェは穏やかに言うが、困らせたことには違いなかった。
「……ネーヴェさんが、お風呂を修理されると聞いて、その、興味を…」
ミレアに連れ出されたとは言いたくなかった。彼女の提案に乗ったフィオリーナも同罪だ。
ネーヴェは「なるほど」と見透かした様子だったが、それ以上は追及しなかった。
「今日は……」とネーヴェは言いかけて、自分にあきれたように苦笑いした。
「……風呂屋の主人に勘違いされたまま、訂正しなくてすみません」
あとあと面倒になると思って、と続けるネーヴェを見上げて、フィオリーナは「それは」と遮った。
「……それは、わたくしも同じです」
ネーヴェのことを今は先生だと紹介もしなかった。
ただ、大切な人だと。
それ以外に言えなかったのだ。
「──嬉しかったですよ」
自分の気持ちがこぼれてしまったのかと思った。
フィオリーナが見上げると、ネーヴェは菫色の瞳を細めた。
「……大切だと言ってもらえるのは、嬉しいものなんですね」
はにかむように言うネーヴェを見ていると、フィオリーナまで温かい気持ちになってくる。
自分が口にしている言葉を返してもらえることが、こんなにも嬉しいこととはフィオリーナも知らなかった。だからもう一度フィオリーナはネーヴェを見つめて繰り返す。
「……ネーヴェさんは、わたくしの大切な人です」
きっと、いつまでも。
音にならなかった言葉をフィオリーナは呑み込んだ。
それでもネーヴェは穏やかに笑って、照れたように苦笑する。
「……何度も言われると恥ずかしいことも分かりました」
ふふ、とお互いに照れた顔で笑っているうちに夕暮れが庭を覆う。
あとどれぐらいこうやっていられるのか分からない。
フィオリーナは大事なこの瞬間を大切にしたい。
それだけは、きっとネーヴェと同じ気持ちだと分かるから。




