メレンゲが言うには
夕食会の翌日、カスケードとネーヴェが共にザカリーニ邸へとやってきた。
留学生候補になると決めたと報告すると、教授は思いのほか喜んでくれた。
「この冬は大変だと思いますが、きっとあなたの人生にとってとても良い経験になると思いますよ」
留学生選考に提出する小論文の提出期限は三か月後。選考会が開かれて春の編入試験を前に結果が通知される。審査の結果を待つあいだ、受験勉強に励まなければならない。小論文の審査を通過すれば、今度は最終選考である試験を受けることになるからだ。
試験は候補生たちの居住地へ試験官が派遣され、彼らが試験を行う。この試験に合格すれば、ハルディンフィルドで本試験に臨むことができる。
あまり時間はないが、ネーヴェは「大丈夫」とフィオリーナの隣でうなずいた。
「論文の課題はあなたにとってあまり難しいことではないと思いますよ」
ネーヴェは課題を渡して、教授と共に手続きをしに帰ってしまった。
フィオリーナはネーヴェが渡してくれた課題や提出様式をまとめた冊子をめくってみる。
留学生候補たちのほとんどは大学に通わない者ばかりだという。だから小論文の課題は難しいものではない。
課題は『自分が生まれ育った土地について』。
地域の歴史、自分の思い出、内容は問わないが、生まれ育った土地のことを論じるものだ。
ネーヴェは難しくないと言ったが、フィオリーナは論文自体に触れたことがない。
教授がいっしょに貸してくれた『論文の書き方』という本を手に取った。
▽
準備は忙しかった。
ネーヴェと本屋に出かけて、必要な教材やノートなどを束で買い、冬のオルミに必要だという冬用のブーツを買った。
母とコートを買いに出かけられたのは、母がザカリーニへ帰郷する一日前だった。
馴染みの仕立屋に頼んでおいたのだと母に打ち明けられたからだ。
「こういうことになるのではないかと思ったのよ」
注文通りに仕立てられたコートをフィオリーナに合わせて、手直しを待っているあいだ、待合室で母はそう笑った。
「ウィートでのあなたを見たからでしょうね」
ハリボテの悪女になるという計画を打ち明けにネーヴェと共に母に会いに行ったそのとき、フィオリーナがザカリーニに帰ってくるのはもう少し先になると思ったという。
ちょうどコートを新調しようと言っていたし、と母は微笑んだ。
「春にまた、元気な顔を見せてちょうだい」
小論文の審査に受かれば、今度はザカリーニ領で試験を受けることになる。フィオリーナの場合、試験官はザカリーニにやってくるからだ。審査や試験に落ちても、フィオリーナは春になればザカリーニに帰ることになる。
手直しの終わったコートを、箱に入れてもらう前に改めて母と確認する。
焦げ茶色のコートはドレスの裾あたりまで覆って、毛織の生地は柔らかく温かい。襟元と袖口には柔らかな黒い毛皮がついていて手触りもいい。
「いい出来だわ。ありがとう」
母と共に店主と針子にお礼を言って箱に詰めてもらうと、使用人の待合室で待たせていた侍女を連れて店を出る。馬車へ行きかけて、通りの向かいの菓子店に目が留まった。メレンゲの白いクッキーはこの時期、王都でよく売られている名物だ。きっとお土産に買って帰ればミレアが喜んでくれる。
じっと見ていると「どうしたの?」と母に尋ねられた。
お土産に、と言いかけてフィオリーナはふいに自分が貴族の娘だということを思い出した。
あまりにも普通に接してくれていたが、ミレアとフィオリーナには身分の差がある。
オルミ領ではあまり感じなかったこの差を、王都で平民街や八番街を行き来してまざまざと思い出されたのだ。
フィオリーナは貴族であることに今まで疑問を持ったことがない。
だからこそ、ミレアに友達として接してほしいと言うことは傲慢ではないのか。
彼女は今までどう感じていたのだろうか。
母にもう一度「どうしたの」と尋ねられて、フィオリーナは考えたことをそのまま口にした。すると母は「そうね」と肯いて笑った。
「お世話になった方に何かを贈りたいと思うのは、誰でも同じではないかしら。フィオの気持ちをどう受け取るのかは、その方の領分よ」
あなたはどうしたいの、と問われてフィオリーナの答えはすぐに出た。
「……またお茶をご一緒したいです」
「では、決まりね」
母は少女のように笑って、フィオリーナの手を引いた。
「わたくしたちもお茶にしましょう」
相手を慮ることは大切だ。けれど、相手の領分に立ち入らないことも大切なのだ。
フィオリーナが貴族であることは変えられないし、その身分を考えるのなら。
母に並んでフィオリーナも「はい」と笑った。
考えなければならないことはたくさんある。けれど、悩んで立ちすくむことはもうなかった。
▽
母と買い物に出かけた翌日、行きよりも増えた荷物を積むため、父が用意してくれた馬車は四頭立ての大きな馬車だった。この馬車で港まで行き、フィオリーナ達は手荷物だけを持って船に乗り、他の荷物は陸路を行くという。船には貨物を多く積めるが紛失も少なくないからだ。
「目立った金目の物はありませんが、船には荷重制限もありますからね」
ネーヴェは馬車の荷台に積まれる衣装箱や書籍用の箱を見ながら、肩をすくめた。
船客ひとりが積み込める荷物にも制限があるらしい。
本や衣服を積んだ荷物を詰め込んだ馬車の荷台には、五匹の黒猫が次々と乗り込んだ。アクアの影だ。この猫たちが荷物の護衛をするという。フィオリーナが荷台を覗くと青い目の黒猫が大きなあくびをした。
「我々も午後にはザカリーニへ帰るよ」
見送りに出てくれた父がそう言ってフィオリーナに苦笑する。
「また春に。元気な顔を見せておくれ」
となりの母がフィオリーナを抱きしめてくれた。
「こちらは心配いりませんからね。風邪などひかないように」
「はい」
父と母にフィオリーナは笑って、
「行ってまいります!」
フィオリーナの笑顔に父の顔は心配そうに眉を下げた。
「……冬のあいだは居てくれるものと思っていたが……」とネーヴェを父は見遣った。
「くれぐれも、娘をよろしくお願いいたします。今度は家庭教師として」
父の心配顔に、ネーヴェは「はい」と行儀よくうなずいた。
「大切にお預かりいたします」
なおも心配顔の父のとなりで、母は笑った。
「春にはオルミ卿もザカリーニへおいでになると良いですわ。ちょうどリラが盛りで美しいのですよ」
母の提案に、フィオリーナの方がばっとネーヴェを見上げてしまう。
「春の初めに咲く花で、とても美しいので、ぜひ…っ」
おいでください、と勢いづいて言いかけて、ネーヴェの困り顔を見てしまった。
ネーヴェはとても忙しいのだ。これ以上迷惑をかけていいはずがない。
尻すぼみになってしまった言葉はフィオリーナの喉元で止まってしまった。
フィオリーナの様子にネーヴェは苦笑する。
「考えておきます」
ネーヴェらしい返し方だ。フィオリーナが目線を上げると、ネーヴェはおだやかに目を細めた。
「まずは勉強を頑張りましょうか」
もっともな正論だ。フィオリーナは「はい」と辛うじて答えた。勉強がたいへんそうなことはここ数日ネーヴェが買い求めた本の量で察している。ネーヴェが自前の書庫から選んだものも含めて、大きな馬車の荷台の半分が埋まりそうなほどになっているのだ。
心配そうな父と笑顔の母に見送られて、馬車に乗り込む。
向かいには当然のようにネーヴェが座る。
行きの馬車ではこんなことになるとは考えてもいなかった。
ネーヴェとは確実に別れる時が来る。
(けれど)
ネーヴェといられる時間、学べる時間はきっとフィオリーナが最初につかみとった時間だ。
それを今は大切にしたかった。




