蔵書が言うには
再びオルミへ帰ることを決めてから、ネーヴェの行動は早かった。
アクアには用事を申し付けて、クリストフにザカリーニ邸へと戻るよう言いつけた。
クリストフは自分に責任はないと言い張ったが、ネーヴェに押し切られる形でフィオリーナとネーヴェを乗せて、馬車を戻らせた。
「まぁ、ここまで来たら最後まで見届けるけれどね」
クリストフは苦笑してフィオリーナとネーヴェをザカリーニ邸に送った。
ザカリーニへ帰郷するために準備していた両親は、ネーヴェの話を聞いてあきれたように笑ったが、ネーヴェの話を聞いてくれることになった。応接間でテーブルを囲んで、用意された紅茶を飲むこともそこそこにネーヴェは留学生の選考には二段階あることを切り出した。
「アルフェド教授からあらためてお話があると思いますが、留学生候補はまず小論文を提出することになります」
小論文が選考委員会で選考され、留学生が選出される。
「フィオリーナ嬢は大学に通われていないので、まずグラスラウンド王国の大学の一般教養試験を受け、ハルディンフィルドへの編入資格基準の学力と判断されれば、本国での試験に臨むことになります。この本国での試験はハルディンフィルドでの一般教養と語学の試験でしょう」
簡単な流れはこれぐらいで、と言ってネーヴェは話を終えると、半ば呆然と聞いていたザカリーニの人々に苦笑する。
「試験ばかりで驚かれましたか?」
ネーヴェの苦笑に父も苦笑いを漏らした。
「いや……そうだな。少し驚いてしまった。候補にあがった時点でもう半分は決まったものと」
「そうですね。今回はアルフェド教授の推薦もあるので、そう難しくはないでしょう」
ネーヴェはそう言ったものの、「ただ」と続ける。
「ハルディンフィルドの大学が求める学力は持っていないと、授業を理解することも難しいでしょう。やはり受験勉強は必要ですよ」
その代わり、とネーヴェは隣のフィオリーナを見遣った。
「入学した生徒には丁寧な聞き取りによって、生徒にあった学部を紹介してくれるそうです。生徒の興味や得意分野を成績や生活などからも読み取って相談に乗ってくれるようなので、きっとあなたが本当に学びたいことが見つかりますよ」
フィオリーナの学びたいことなど今は皆目見当もつかない。けれど、きっと学ぶということはそれを見つけることなのだろう。自分で研究課題を見つけるカスケードやネーヴェのように。
「オルミ卿はお詳しいのですね。留学のご経験が?」
母にそう言われてフィオリーナもあっと気付く。ネーヴェの話は留学に詳しいばかりではなく、体験したかのようだ。
ネーヴェは苦笑して答えた。
「昔、留学を勧められたことがありまして。私は魔術の専攻でしたが」
ネーヴェの答えに父は「そうか」とうなずく。
「良い先生に恵まれたんだね」
父の言葉に、ネーヴェはすこしだけ遠くを見るように視線を上げて、ゆっくりと微笑んだ。
「……はい」
フィオリーナにはどういう意味か汲み取れないうちに、ネーヴェは「詳しい話はアルフェド教授に」と言って話し合いを終えてしまった。
自分の屋敷へ帰るというネーヴェだったが、律儀に待っていたクリストフと共に夕食をと父が誘って、夕食を共にすることになった。
準備のあいだ、クリストフは父とシガールームへ行ったが、夜の庭を応接間から眺めていたネーヴェをフィオリーナは捕まえた。
「……申し訳ありません。こんな、急に…」
思えばネーヴェが領地に帰る予定を繰り下げてしまったのだ。これからもっと忙しくなってしまう。
「構いません。善は急げというでしょう?」
ネーヴェはそう言って微笑んだ。
「王都でゆっくりしている時間はあまりありませんが、教材と情報を集めてオルミへ帰りましょう」
帰ったら勉強漬けですから、とネーヴェの菫色の瞳がやわらかく細くなる。これからの勉強はたいへんだが、ネーヴェのそばにいる時間が伸びたことは単純に喜ばしい。
「……あの、先ほど父が言ったことの意味が、あまりよく分からなくて」
ネーヴェが師事した教授たちのことだと分かったが、どうして父には良い先生だと思えたのかがフィオリーナにはいまいちわからなかったのだ。
ネーヴェはそう尋ねるフィオリーナをすこしじっと見てから、先ほどと同じようにゆっくりと微笑んだ。
「……私は戦時中に塔に在席したんです」
魔術師の研究施設である“塔”は魔術師を認定する役目も負っている。
「魔術師は認定官と呼ばれる、魔術師としての資格を与える魔術師に認定されなければ、魔術を行使できません。簡単に言えば認定されていない魔術師は、魔術師として仕事ができないんです」
ネーヴェは戦時中にその認定官になるために塔に在席したという。
「私自身は認定官の資格を持つ父に資格を与えられていたので魔術師となっていましたが、魔術師の部隊を率いるために認定官の資格が必要になったんです」
ネーヴェが率いていた魔術師の部隊は、そもそも魔術の素養のある子どもたちが集められた部隊だ。素養がある子供をネーヴェは一から魔術師として教育し、戦場へ送り出していた。
「塔では認定官の資格を得られれば良かったのに、教授に騙されましてね」
ネーヴェは認定官の試験だと言われて、魔術師の教師となる資格である導師の試験まで受けさせられたのだという。
「導師は塔の教授になれる資格です。あと、これができなければ認定官の資格を与えられないと言って、ハルディンフィルドの魔術師研究施設と大学院の編入試験まで受けさせられました」
ここまでくるといくら温厚なネーヴェでも怒る。苦情を言い募ったネーヴェに教授たちは告げた。
「──この資格を持って、この国を出ろと言われたんです」
教授たちは戦時下の統制が厳しくなる中、ネーヴェを国外に亡命させようとしていたのだ。
中立国である大国ハルディンフィルドへの亡命なら、いくらネーヴェが優秀な兵士であっても手出しができなくなるのではという思惑だった。
「……先生方は……」
無事なのか、と尋ねる言葉が続かなかった。いくら戦争に参加していない教授でも、優秀な部隊を率いていたネーヴェを亡命させようとしたのなら無事では済まないのではないかと思われたのだ。
言葉を詰まらせたフィオリーナをすこしだけ見て、ネーヴェは菫色の視線を夜の庭に戻した。
「私が戦場に戻ったので、咎めはなかったようです」
それ以来会っていませんが、と言うネーヴェの言葉がどこか遠い。
「……本当に身勝手な先生方なんですよ。今でもときどき、いらないからと蔵書を送ってきます」
教授から贈られた本をネーヴェは大切に書庫に仕舞っているのだ。
父の言葉は正しい感想だった。
本当に正しく良い先生だ。
教授たちは戦場へ向かう少年を正しく導こうとしたのだ。
フィオリーナが触れていい思い出ではなかった。
でも、今ネーヴェのそばにいるのはフィオリーナだ。
ネーヴェが無造作に身体に沿って垂らしている手を、指先で触れる。冷たい手はわずかに戸惑って、フィオリーナの手を包んだ。
「……泣いているんですか?」
フィオリーナの目じりに溜まった涙を目ざとく見つけて、ネーヴェは菫色の目を細める。ネーヴェはきっと泣かないのだ。これまでもこれからも、涙の代わりに教授の本を大切にしていく。
「……いつか、先生にネーヴェさんの書庫を自慢できますね」
そっと握っていた手がすこしだけ強く握られる。
「……ええ」
いつか、と雪が微笑むような声が聞こえた。
冷たい手がすこしだけ温かくなる。
冬が終われば春が来る。
そうしたら、今度こそこの手と離れることになるのだ。




