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律儀が言うには

 すぐに出かけると言うフィオリーナに慌てる執事のとなりから、何事かと出てきた母が自分のショールを巻いてくれた。

 母のショールだけを巻いてためらいもなく馬車に乗り込むと、馬車の持ち主は笑い転げてしまった。


「いや、焚きつけたのは俺だけれどね」


 クリストフの馬車はすばらしく速かった。

 持ち主が涙が出るほど笑っているうちに馬車は九番街まで駆け抜けて、御者はクリストフに急かされるまま、見覚えのある静かな通りを走り抜ける。

 クリストフの無茶には慣れているのか御者は慌てもせずに閑静な住宅街を駆け抜けて、大きな木のある小さな屋敷の前で停まった。

 屋敷の前には御者のいない二頭立ての馬車が停まっていて、不思議と馬は大人しく待っていた。


「さぁ、行っておいで。王子様を捕まえてこい、お姫様!」


 フィオリーナは姫ではないし、彼は王子様でもない。

 彼は、フィオリーナにとってこの世で一番大切な人だ。


 不本意な応援を背に受けて、フィオリーナは馬車を降りると屋敷の扉へ向かって走り出す。

 今までこんなに走ったことなどあっただろうか。

 息を切らして真っ直ぐ誰かの元へ駆けていくのは、きっと貴族の娘でなくともはしたない。

 でも今だけは、誰かひとりぐらいは許してくれるのではないだろうか。

 その誰かは、きっとたったひとりだけ。


「ネーヴェさん!」


 扉を開けたばかりの長身は、フィオリーナの大声に顔を上げた。

 彼の足元にはトランクが置かれている。

 本当に、今日帰るつもりだったのだ。

 飛び込むようにして駆け寄る。

 少しだけためらった長い腕が、フィオリーナを柔らかく囲う。

 走ることに必死で、息を切らして上を向いてようやく抱きしめられていることに気付いた。


「……フィオリーナ」


 スーツにコートを着た長身が少しかがんで、長い指がフィオリーナの額をかるく拭った。

 汗が流れていたのかもしれないが、構っている余裕はなかった。


「あの…ネーヴェさん…」


「はい」


 優しく律儀に答えてくれることがもう懐かしくて涙が出そうになる。けれど、泣いてすがりに来たのではないのだ。


「わたくしがハルディンフィルドへの留学生の候補に選ばれたのです」


「ええ」


 ネーヴェももう知っているのか。クリストフといいどういう耳をしているのだろうか。これぐらいのことは彼らの常識なのだろうか。


「留学生になるには、たいへん勉強しなくてはならなくて…ですから、その」


 本当に利用してもいいものなのか。フィオリーナには立派な目的も目標もない。


(でも)


 この機会は今このときだけだ。


「わたくしの、先生になってください…!」


 長い両腕をつかんで見上げる。

 菫色の目が眼鏡の奥で丸くなっている。当然だ。急にそんなことを言われても、決められるはずもない。

 けれど、深い葡萄色の頭を下げるようにして溜息をつくと、ネーヴェはフィオリーナではなく、その後ろに向かって睨んだ。


「……お前の入れ知恵か」


「入れ知恵とは失礼な。お姫様をエスコートしたんだよ」


 クリストフの笑い声を苦々しく受けて、ネーヴェはフィオリーナに視線を向けた。

 呆れたような、あきらめたような、そんな苦笑を浮かべて息をついた。


「受験勉強は難しいですよ。ハルディンフィルドの優秀な学生も試験に落ちるぐらいですから」


 それでもやりますか、と脅すが、ネーヴェの菫色の瞳は穏やかなままだ。フィオリーナはやる気を見せなければと叫ぶ。


「が、頑張ります! 先生!」


「……先生はやめてください」


 そう苦笑してネーヴェはフィオリーナの手を自分の腕から外すと、そのまま自分の手のひらに載せる。


「では、まずはおうちへ帰って、ご両親に許可をいただきましょう。冬のあいだはずっと勉強漬けになりますから」


 冬のあいだ、ずっと王都にいるということだろうか。それとも、とフィオリーナが見つめるとネーヴェは苦笑を向けた。


「私は領地へ戻らなければならないので、オルミ領でよければ滞在してください」


 ネーヴェのうしろからアクアが笑い、フィオリーナのうしろではクリストフが笑っている。

 ネーヴェは、というと観念したようにもう一度息をついてから、フィオリーナに笑った。


「──帰りましょうか、オルミへ」


 フィオリーナもこれ以上ないほどの笑顔でうなずいた。


「はい!」


 本当にまた望みが叶ってしまった。

 この先、この瞬間ほど嬉しいことがあるのだろうか。

 でも今のフィオリーナには後ろを振り向いて後悔している余裕はなかった。

 つかんだ手を、今だけは離さないようにするだけで精一杯だった。




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