焼き栗が言うには
夕暮れを過ぎると家族連れはほとんど帰ったのか、恋人や友人同士の大人ばかりとなる。
お酒を扱うような店に人が流れて、客がまばらになった遊技場が集まるエリアは歩きやすくなっていた。暇そうな店主にコインを渡してダーツをやることにすると、ネーヴェは矢をフィオリーナにすべて譲ってしまった。
「……あまり得意ではなくて」
フィオリーナは子供の頃からこういう遊戯はうまくできた試しがないのだ。
「いくらでも失敗していいですよ」
そういうことではない。でもネーヴェはにこにこと笑うばかりで手を出さないつもりらしい。
案の定フィオリーナは暴投を繰り返して的には一つも当たらなかった。あまりにもかすりもしないので、同情した店主に失敗した子供に渡すものだというクッキーをもらってしまった。
「当てたいですか?」
フィオリーナの失敗を後ろで見ていたネーヴェがそんなことを尋ねてくるので、大きくうなずいた。
「一度ぐらい当てたいです」
フィオリーナの悔しさがようやく伝わったのか、ネーヴェは追加で矢を買うとフィオリーナの手を後ろから持つ。抱きこまれるような形になって目を白黒させるフィオリーナをよそに、ネーヴェは矢を持たせたフィオリーナの手を持って照準を定める。
トス、とダーツの的に矢が刺さる。当然のように真ん中だ。
「では、やってみましょうか」
ネーヴェはフィオリーナの手を放すと、再びフィオリーナに矢を持たせる。
目線は的へ、矢の先に的をとらえて、でも投げるとゆるいカーブを描くから、とネーヴェが助言をしてくれるが、やっぱり矢は外れた。
最後の矢を無理矢理ネーヴェに押し付けると、彼の矢はすんなりと真ん中を射抜いた。
満点がダブルになったからと、店主は一番いい景品をくれようとしたが、ネーヴェは三番目の棚に並んでいた煙草をくれと言った。一番いい景品がワインのボトルだったからだろう。
それから、と小さな猫のぬいぐるみをもらった。
パッチワークのぬいぐるみは幼い子供にちょうどいい大きさで、フィオリーナも幼ければ喜んで毎日連れていただろう。丸い瞳をフィオリーナの前に差し出して、ネーヴェは「どうぞ」と猫を渡してくれる。
「いいのですか?」
「あなたのために当てたので、もらっていただかないと」
傲慢ともとれることを言って笑うネーヴェに、フィオリーナもぬいぐるみを抱いて笑った。
遊技場をあとにすると、少し休もうとネーヴェは露店の焼き栗を買った。
人のまばらになった広場のベンチに腰かけると、夜の寒さが降って来る。冬の寒気を吹くようにして息を吐くと白く濁る。
温かい焼き栗は切れ目は入っているが鬼皮がついたままで、ネーヴェは慣れた手つきで簡単に剥いた。真似をしようとするがなかなかうまくいかない。思い返せば子供の頃は父に、成長してからはお供のメイドに剥いてもらっていたのだ。メイドと分け合って食べていたものの、フィオリーナが鬼皮を剥くのはこれが初めてだった。
フィオリーナが四苦八苦しながらようやく皮を剥くと、ネーヴェは目を細めて懐かしそうにフィオリーナを見ていた。
「栗がお好きなのですか?」
自分の不器用さに気恥ずかしさも感じながらフィオリーナは栗を頬張る。甘い湯気の香る実はかじると口の中でほろほろと甘く優しく解けた。
「ええ。あなたも?」
ネーヴェもそう言って栗を口に放り込むので、フィオリーナはふふと笑った。
「子供のころから大好きです」
これを買ってもらいたくて、駄々をこねたこともある。そう言うとネーヴェは笑った。
「私も父に買ってもらったことがありますよ。──私の実家の地域は、栗が名産なので」
カミルヴァルト領は麦などもほとんど育たず、栗畑がたくさんあるのだという。寒さに強く、保存のきく栗は文字通り命の実で、主食といってもいいほど食べられているらしい。
「古い木は薪や建材に、実は食用に、皮は暖炉の火種に……この栗、実家の領の栗ですね」
ネーヴェは栗を頬張って笑った。
「あなたが一生懸命、皮を剥いているところを見ていて、父に皮を剥いてもらったことを思い出しました」
菫色の瞳が温かい明かりに照らされる。
(良かった)
ネーヴェにも温かい思い出があることに、フィオリーナは嬉しくなる。それを話してくれたことも。
ベンチからは乗客のいなくなったメリーゴーランドが見えた。
明かりだけを乗せた木馬や馬車がゆったりと回る。
栗の鬼皮をしなやかな長い指がぱきりと割る。
柔らかな実は形の良い唇にふくまれて、消える。
フィオリーナの言葉もきっとああやって食べられてしまうのだろう。
たとえ戯れに「あなたが好き」と告白をしても、ネーヴェはフィオリーナの気持ちごと食べてしまう。
食べることと同じぐらい、大切で自然で、何の変哲もないことのようにネーヴェはフィオリーナの言葉を受け入れるだろう。──受け入れてしまう。
そのことがフィオリーナには耐えがたいほど悔しくてたまらなかった。
フィオリーナが自分のすべてでネーヴェのことを愛したいと思えば思うほど、ネーヴェはフィオリーナに縛られてしまう。
(それだけは)
いくらネーヴェのことが欲しくても、きっとそれはフィオリーナの欲望でしかない。
それはフィオリーナを人形のように扱った元婚約者と同じなのだ。
ただ自分だけが満たされたいだけ。
そんな欲望でネーヴェを縛りたくなかった。
ネーヴェがフィオリーナを自由にしてくれるように、フィオリーナもまた彼と同じでありたいのだ。それこそが欲深いと言われるのなら、欲深くありたかった。
何度同じことを自分に言い聞かせても、納得などとうてい出来ないほど苦しくても。
最後の栗を皮手袋の指先が割る。
ネーヴェはそれをフィオリーナに「どうぞ」と渡してくれた。
「ありがとうございます」と受け取って食べる。甘い栗が優しくて、泣きそうになる。
栗の皮を手の中でかすかにカチリと鳴らすと、それがまるで時計の針が巡る音に聞こえた。
「……そろそろ帰ります」
手元から顔を上げると菫色の瞳がフィオリーナを静かに見ていた。
ランプの明かりを受けてきらきらと光る瞳は夜空のように凪いでいて、フィオリーナの気持ちなど吞み込んでしまいそうだった。
薄い唇がためらうように開いて、淡く白い息を吐いて閉じると、いつものように柔らかく笑んだ。
「帰りましょうか。あまり遅くならないうちに」
ネーヴェの苦笑に、フィオリーナも微笑む。
立ち上がる前にネーヴェがごく自然に差し出してくれる手にも、もうすっかり慣れてしまった。
それを受けようとして、手首をつかまれた。
驚く暇もない。
一息に引き寄せられる。
抱きしめられた、と気付いたのは頬のとなりで吐息が聞こえたからだ。
柔らかく、けれど離さないように抱きしめられて、フィオリーナは知らないうちに止めていた息を吐き出した。
「フィオリーナ」
かすれた声に釣られて顔を動かそうとするが、動くなと言うように首元に頬を寄せられた。
「困ったことがあれば、いつでも連絡を。……私でなくてもいいので、誰かに頼って」
大丈夫、という声に涙がこぼれそうになる。
フィオリーナの震える指先が広い背中をかすめて、コートを握りしめた。
「どうか元気で──幸せになってください」
別れの言葉だというのにどうしてこんなにも温かいのか。
フィオリーナは硬い肩口で息を吐いた。
優しくあるのは、これほど苦しいことなのだ。それが恋しい人であればあるほど。
幸せになってほしいと願えば願うほど、苦しい。
「……ネーヴェさんも、どうかお元気で」
寒い夜空の下、どれほど抱きしめていたのか分からない。
長い時間だったかもしれないし、短い時間だったのかもしれない。
馬車に乗って屋敷に帰るまで、ネーヴェはフィオリーナと手を繋いでいてくれた。
夕食はいらないから、と自室まで帰ってからようやくフィオリーナは枕に顔を押し付けて泣いた。
▽
翌日、ネーヴェはザカリーニ邸を去っていった。
これまでが嵐だったのだと気付かされるほど、辞去はとても静かだった。
父や母、それからフィオリーナにももう一度別れを告げて、いつでも連絡をと繰り返すことも忘れなかった。
ネーヴェは未練も何も残さなかった。
ただ、フィオリーナだけを残していった。




