キャッシュトレイが言うには
ネーヴェは「アテ」のためにマーケットからフィオリーナを連れ出した。
マーケットが開かれる広場は商業施設が連なっている第八区画にある。広場を出るとするに貴族向けのブティックなどが連なっていて、通りもウィンドウショッピングを楽しむ貴族たちがのんびりと歩いている。この第八区画では貴族も使用人と共に歩いて買い物を楽しむことができるのだ。
いくつかの通りを曲がると、通りに面した宝飾店にネーヴェはフィオリーナを連れて入った。
入口は広くないが、ずっと奥までショーケースが並ぶ店内はガラス越しにアクセサリーを眺める人でにぎわっていた。
ネーヴェは宝石やアクセサリーには見向きもしないで、ショーケース越しに店員を捕まえた。
「オネストを呼んでくれないか。上官が来たと言えばいいから」
ネーヴェの言葉でフィオリーナはあっと気付く。ここはオネストの実家の宝飾店なのだ。
店内は磨かれたショーケースと貴族向けに重厚な調度が置かれて落ち着いた雰囲気だ。壁や天井の装飾も古い時代のもので、年代物の建物を改装したのだろう。客層も若者よりも少し上の男女が多くて、店員と親し気に話す様子から常連が多いように思われた。
そんな落ち着いた店内にバタバタと足音が響いたと思えば、いくつかある従業員用の出入り口から一際洒落たスーツを着た男性が焦り顔を隠しもしないで駆け込んできた。オネストだ。
「やぁ、久しぶり」
「あなたはどうしてそう…!」
のんびりと挨拶するネーヴェにオネストは苛立ちを隠せず叫びかけたが、ようやくここが店内だと思い出したのだろう。「失礼いたしました」と近くの客に愛想笑いをして、ネーヴェを睨んだ。
「……ひとまずこちらへ」
そう言うと、フィオリーナにもようやく気付いて苦笑した。
「ご無沙汰しております、お嬢様」
どんなに慌てても名前を大っぴらに口にしないのは、オネストの商人の矜持を見た気がした。
オネストはネーヴェとフィオリーナを奥の応接間に通した。商談のための個室なのだろう。
紅茶を運んできた従業員を追い出して、オネストはフィオリーナ達を座らせたソファの向かいの一人掛けソファに座って息をついた。
「……それで、何か御用ですか。隊長」
「マーケットに行くからちょっと融通してほしい」
手持ちがなくてね、と言うネーヴェの恥も外聞もない言葉にオネストは項垂れた。
「……もう少し繕うということを覚えてください」
大きく溜息をついてオネストはフィオリーナに向かって苦笑する。
「この方について行かれるのは勇気がいるでしょう」
ネーヴェがフィオリーナをマーケットに誘ったのだと思われているのだ。
「ち、違うのです。……わたくしがお誘いしたというのにお金のことを失念していて……」
口にしていると恥ずかしさが舞い戻ってきて、フィオリーナは思わず項垂れてしまう。
「君こそ少しはご自慢の観察眼を働かせてはどうかな」
自分を棚に上げるネーヴェをオネストは睨んでから、フィオリーナに向き直る。
「失礼いたしました。申し訳ありません、お嬢様」
「いえ…その、わたくしの不注意ですので」
苦笑いするフィオリーナに、オネストは安心させるように微笑む。
「ご心配にはおよびません。お得意さまにマーケットを楽しんでいただくのは、我々商会にとっても日頃のご愛顧へのお返しですので」
そもそも精霊祭のマーケットは第八区画の商会が集まって企画して運営しているものだという。
オネストは代金などを載せるキャッシュトレイを取り出すと、その上に見慣れない刻印のコインを重ねて置いた。三十枚ほどあるだろうか。
「当店のお客様に、マーケットで使っていただく専用コインです。一枚でたいていの店の支払いができます」
それでは支払いはすべてオネストの店がもつということになる。このコインは常連客の接待用なのだ。
「こんな貴重なものを預けていただくわけには…」
そもそもフィオリーナはオネストの店にアクセサリーを借りていた身だ。ネックレスやイヤリング、ブローチなどを揃いで買ってもいない。
「そもそも隊長はこのコイン目当てでうちに来たんでしょう?」
オネストが水を向けるとネーヴェは素知らぬ顔でうなずく。
「こういうコインがあることは噂に聞いていたから」
「……相変わらずどういう耳をしているんですか。八番街の常連客しか知らないことですよ」
ほとんどこの街には来ないくせに、と言うオネストの恨み節を無視して、ネーヴェはコインを手に取った。
「代金はあとで請求してくれて構わないよ。すぐに欲しいだけだから」
「しませんよ、こんなことで」
オネストはネーヴェを睨んだ。
「クリストフに頼らないで、私を頼ってくれたことがちょっと嬉しいんですから」
そう言って、オネストは笑う。
「あなたにいくら恩義があると思っているんですか。足りないのでもっと頼ってください、隊長」
笑うオネストをネーヴェはじっと見つめて、思わずといった様子で笑った。
「……分かった。ありがたく奢られるよ」
ネーヴェが笑ったところで、個室のドアがノックもなく開けられた。
「お嬢様がいらしてるって…!」
オネストと同じように慌てた様子で駆け込んできたのは、エルミスだった。
商談から帰ってきたばかりだという彼女は、オネストがテーブルに並べていたコインをざっと目算で数えて、鼻を鳴らした。
「こんな少ない枚数で行かせるつもりだったの?」
オネストに文句をつけて、さらに五十枚もコインを持ち出してきてしまった。
どっさりと盛られたコインを前に、さすがのネーヴェも呆れ顔だ。
「こんなにいらないよ」
「恥をかくのはあなたではなくて、お嬢様です」
エルミスはぴしゃりとネーヴェに言って、フィオリーナに向き直った。
「ご無沙汰しております」
「はい、エルミスさまもお元気そうで何よりです」
フィオリーナはいつも通りに笑ったはずだが、エルミスは何かを察したように少しだけ笑みをゆるめたが、すぐに笑顔を作った。
「今日は楽しんでくださいな。財布を連れているのですから、少しぐらいハメを外してもいいのですよ」
財布、と言外に呼ばれたネーヴェはコインを渋々ジャケットの内側に収めている。
「こんなことなら普段から少しは手持ちを持っておくべきだったかな」
「サインで買い物できるからと油断しているからですよ」
エルミスは辛辣に言うと笑った。
「まったく、いつまで経ってもスマートなエスコートもできないなんて。手がかかって仕方ない隊長ですね」
エルミスの苦言にオネストも笑う。
「そうですよ。──困ったことがあってもなくても、我々をごひいきに」
二人の笑い顔に、ネーヴェは苦笑する。
「分かったよ。助かった、ありがとう」




