ホットチョコレートが言うには
急いで馬車を用意してもらって、ネーヴェを引っ張るようにしてやってきたのは貴族街の広場だ。
ほとんど無理矢理だったが、大広場まで連れてきてから今更ネーヴェが王城から帰ったばかりだったことに思い至った。姉が来ていたとはいえ休む時間を作るべきだった。
「……申し訳ありません。お疲れだったでしょう」
フィオリーナが謝ると、ネーヴェはいつものように「大丈夫ですよ」と笑う。
「私たちはケンカ中だったようですから、仲直りをしないと」
ネーヴェに言われてフィオリーナは顔を覆う。
「……申し訳ありません」
他に言い訳が思いつかなかったとはいえ、あまりにもつたない嘘だった。
「フィオリーナ」と下を向くフィオリーナに手が差し出される。
「仲直りをしてくれますか?」
顔を上げるとネーヴェは楽し気に笑った。
「……もちろんです」
油断すれば泣き笑いになってしまいそうな顔を、フィオリーナは微笑みの形に整える。
(ああ)
溜息をつきたくなるほどこのままでいたいと思った。
この人とずっと楽しく、笑っていたい。
ネーヴェをフィオリーナから自由にしたいという願いは本当だ。
けれど、自由がこれほど痛みを伴うのだということをフィオリーナは初めて思い知った。
ネーヴェの手をわずかに力をこめて握ると、彼も少しだけ握り返してくれる。
(きっと)
ネーヴェにはフィオリーナの心の中などお見通しなのだ。
それでも何も言わないということは、フィオリーナの選択が正しいということなのだろう。
「貴族街のマーケットは初めて来たので、教えてもらえませんか」
フィオリーナ、と柔らかく呼ぶ声をよく覚えていよう。
そう決めてフィオリーナも微笑んだ。
「はい! お任せください」
デパートなどが並ぶこの地区の広場では、毎年精霊祭にあわせてマーケットが開かれて、サーカスまでやってくる。車溜まりからもサーカスの呼び込みが大道芸を披露しているのが見えた。貴族の家族連れが大道芸に見入っているのを眺めていると幼い頃を思い出す。フィオリーナもこうして大道芸を見るのが大好きだったからだ。
貴族街のマーケットには企画担当のバイヤーが招いた屋台や商店街から出店している屋台が軒を連ねている。平民街で見たような、活気溢れる雰囲気というよりは、整然と並んだ屋台をゆっくり眺めて散策できるようになっている。ただこれは先日平民街の精霊祭を見たから出てくる感想で、これまでのフィオリーナにとってこのマーケットは一年でもっとも華やかなお祭りだった。
「ネーヴェさん、見たい物はありますか?」
案内役をかって出たからには精一杯努めようとネーヴェを見上げるが、彼は菫色の瞳を穏やかに細めただけだった。
「あなたは? あなたの好きなものが知りたいですね」
そういえば平民街ではネーヴェと同じようなやりとりをした。
自分の好きなもの、大事なものを、大事な人に知ってもらうことがこんなに楽しいこととは知らなかった。
ネーヴェも同じ気持ちだったのだろうか。
(そうだったらいい)
きっとそうだと信じることも楽しいのだ。
「行ってみたい場所ならたくさんあるのです。お付き合いしていただけますか」
フィオリーナがそう笑うと、ネーヴェも「もちろん」と笑った。
まずは何か食べようとネーヴェを連れて向かったのはホットチョコレートの店だ。甘い香りを漂わせた陶器のカップを受け取ろうとして、フィオリーナははたと気付く。
(お金を持っていない…!)
フィオリーナが連れ出したようなものだというのに、すっかり忘れていた。
馴染みの店ならザカリーニ家の名前で後日家に請求書が届くが、屋台ではその都度代金を払わなければならない。
(……そういえばお父様が支払ってくださっていたわ)
幼い頃は父が、年頃になってからはお付きのメイドが支払ってくれていた。父は家族で楽しむのだからとこのときばかりは財布を持っていたのだ。
フィオリーナがあたふたしているうちにネーヴェは支払いを済ませてカップを受け取ってしまう。湯気のたつカップを手渡されてフィオリーナは項垂れる。
「……申し訳ございません。わたくし、持ち合わせがありませんでした」
「構いません」
ネーヴェは苦笑して、広場の中心に設けてあるベンチのひとつにフィオリーナを誘った。
ベンチは木製ではなくクッションまで敷いてあるものだったが、ネーヴェはハンカチを敷いてくれた。
腰を落ち着けてホットチョコレートを飲んでみるが、久しぶりの甘さが美味しいというのにいまいち楽しい気分にはなれなかった。
ネーヴェも「甘そうですね」と感想をこぼしただけで、静かに湯気を吹く。
「とはいえ、少し困りましたね」
実は、とネーヴェは切り出した。
「私も今日は持ち合わせが心もとなくて」
考えてみればそうだった。ネーヴェは先ほどまで登城していたのだ。その帰ってきたネーヴェをフィオリーナはそのまま連れ出してしまった。
「……かさねがさね申し訳ございません」
フィオリーナがまったくもって気が回らないことが露呈してしまった。世間知らずはこんなところでも弊害があるのだ。
項垂れるフィオリーナに、ネーヴェは「大丈夫ですよ」と笑う。
「アテがあるので、まずはそちらへ行きましょう」
万事解決してしまうネーヴェも元手もないのにさすがにお金を生み出すことはできないだろう。しかしネーヴェが「意外と美味しいですね」とホットチョコレートを舐めている様子を見ていると、不思議と甘い味が戻ってくるから不思議だった。




