しっかり者の姉が言うには
「──ご挨拶が遅れて申し訳ございません。ネーヴェ・オルミ・カミルヴァルトと申します」
フィオリーナを見送ってから、ロレンティナが視線を向けるとすぐに彼はそう名乗った。勘のいい男だ。
フィオリーナが嘘をついていたことなどお見通しだった。
(そんなことより)
ロレンティナの言葉ですぐにフィオリーナを助けたこの男のことのほうが問題だった。
兄のアーラントが見つけてきたこの婚約者とやらは、社交界においてすこぶる評判の悪い男だからだ。
優秀な魔術師でありながら、老獪ともいえる手腕で戦場を生き残り、若くしてオルミという辺境で隠遁しているという変わり者だという。
噂が真実ではないとわかっているが、ロレンティナが真相を探ろうとしても容易に正体が知れないことが彼の胡散臭さを物語っている。
(噂は噂なのよね)
実際のオルミ卿はどこか学者然とした若者だが、フィオリーナが言う通り隅から隅まで紳士として完璧に仕立て上げられている。型は古いが仕立ての良い三つ揃い、外歩き用にほどほどに磨かれた靴、今どき老紳士しかつけないような皮の手袋。手入れの行き届いた身形はきちんとした使用人を雇っている証拠だ。貧乏貴族ではたしかな手腕を持つ使用人は雇えない。
野暮ったい眼鏡をかけているが、長身はそばに居ても威圧感がない。彼が無防備ではない証拠だった。無造作に人と接すれば、彼はいくらでも他人を威圧できるのだろう。それをロレンティナに感じさせないということは、とくに女性との距離感を心得ているのだ。
(でもこの人、どこかで見たような)
この得体のしれない男のことだ。一度見れば忘れようがないはずだ。
じろじろとロレンティナが眺めていることに気付いているだろうに、オルミ卿は素知らぬ顔で微笑みに顔を作った。フィオリーナの前の婚約者なら絶対にこんなことはできなかった。
あの男は良くも悪くも典型的な貴族の男だった。マナー以前に女は見下して当たり前という価値観がにじみ出ていたのだ。当然フィオリーナにふさわしいはずもないので、ロレンティナは婚約に反対したし、あまりに煩わしくて顔を合わすことさえ極力避けた。それがいけなかったのだと、今ではひどく反省している。ロレンティナがもっと強く反対していれば、ありもしない噂程度でフィオリーナを見捨てるような情けない男に婚約破棄などという不名誉を押し付けられることなどなかった。
だから今度は見誤らない。
「フィオリーナを待つあいだ、紅茶でもいかがですか」
オルミ卿が使用人を呼ぼうとするので、ロレンティナは許さなかった。
「ちょっとこちらへ来てかがんでくださる?」
椅子に座る婦人に近づくのは紳士としてはマナー違反だ。けれどオルミ卿は少し息をついて近寄った。
長身がかがむとさらさらと音を立てるように髪が降りた。
近くで見るとぞっとするほど整った顔立ちだ。眼鏡の奥では軽く伏せられた紫の双眸が淡く光っていて、どこから見ても人形のように完璧に整っている。この素顔が社交界で公開されれば、たちまち噂になって悪い評判など吹き飛ぶだろう。
だが、それ以上にまるで人間の皮をかぶった人ではない何かにも見えた。
実際、ロレンティナが無作法に手をのばしても怪物じみた美貌は揺らぎもしない。
──きっと頬に触れようとすれば、この怪物はロレンティナを嚙み殺す。
そんな妄想か予想がよぎる。
危険な綱渡りをするように自分の指先が無事この怪物の眼鏡のつるにわずかに触れると、ふっと形の良い唇が嗤う。
「──この眼鏡を取ればよろしいですか?」
するりとロレンティナの指先を避けて、皮手袋が眼鏡をとる。
向けられた紫の目はやはり深淵なうろから光るような妖しい虹彩をたたえていたが、その白皙の顔をすぐに思い出した。
「……あなた、もしかして」
言いかけたロレンティナの耳にがたんとドアに何かがぶつかる音が入った。
思わず視線を向けると、フィオリーナが真っ青な顔でこちらを見ている。すでにコートを羽織って準備を整えてきたらしい。
「お、お姉さま、ネーヴェさん…!」
何か勘違いしたことは明白だったが、当の本人は落ち着き払ってフィオリーナに近寄った。
「眼鏡を落としてしまったので、拾っていただいただけですよ」
誰が聞いても嘘だと分かる言葉だったが、フィオリーナはオルミ卿に眼鏡を渡されてしまう。
「かけてくださいますか?」
そう言って顔を差し出されてフィオリーナは眼鏡を手にしたまま目をさまよわせたが、目の前の長身が身じろぎもしないことにとうとう諦めた。
「……動かないでくださいね」
そう言って覚悟を決めたフィオリーナの細い指がつるをそっと彼の耳にかける。レンズを紫の双眸に合わせると、伏せられていた怪物の目が柔らかく細くなる。そのまま首を傾けるので、フィオリーナは彼の頬を手のひらに乗せられてしまった。
猫が主人に甘えるような仕草で、悪い怪物がフィオリーナに微笑みかける。
「ありがとうございます」
見ているだけのロレンティナも逃げ出したくなるような甘い声だ。
正面からすべてを向けられたフィオリーナは顔から指先まで真っ赤になったまま、震える声でわずかに「はい」とだけ答えた。泣き出しそうに見えるのは気のせいではないはずだ。
逃げ出さないことだけでも十分頑張っているフィオリーナを見かねて、ロレンティナは二人に声をかけることにした。
「……あなた、あのときの軍人ね?」
四年前、フィオリーナを暴漢から救ってくれた軍人だ。フィオリーナから探してほしいと頼まれていたし、あの美貌は忘れようにも忘れられるはずもなかった。
フィオリーナはオルミ卿とロレンティナを見比べて視線をさまよわせるが、オルミ卿はロレンティナを振り返る。
「はい。お久しぶりです」
そう微笑むオルミ卿に内心あきれていると、フィオリーナが「お姉さま」と呼び掛けてくる。
「……ネーヴェさんのことを、すぐお分かりになったのですか?」
妹に言われてみればおかしなことだと気付いた。フィオリーナを前にした今のオルミ卿と以前の彼はまったく別人のように異なるからだ。以前の彼は穏やかではあったがまるで野生の怪物のようだった。今の学者然とした様子は想像もできなかったのだ。社交界で人の顔と名前を覚えることに長けたロレンティナでもすぐに気づくのは難しかっただろう。
だとすれば、
(わざと気付かせたのね)
わずかな変化も見逃さないロレンティナを逆手にとって、ほんのわずかな表情の変化であの軍人だと気付かせたのだ。
(油断のならない男)
でも、とフィオリーナと並ぶ彼を眺める。誰にも触れさせようとしない怪物がフィオリーナにはすんなりと触れさせている。この事実がすべてなのだ。
「お父さまとお母さまにはわたくしから言っておくわ。夜まで楽しんでいらっしゃい」
でも必ず家には帰るように、と言い含めると素直な妹は嬉しそうに微笑んだ。必ず帰るようにと言ったのは隣の彼に向けての言葉だったが。
「はい! ありがとうございます。お姉さま」
可愛がり過ぎて世間知らずのきらいもある妹だが、フィオリーナはロレンティナにとって可愛い妹だ。それに、フィオリーナはたかが男に容易くへし折られるような心など持ち合わせていない。フィオリーナは諾々と従うだけを良しとしない、しなやかな女性なのだ。
それを十分心得ているのか、オルミ卿は「お預かりいたします」と殊勝に答えた。
「貴族街ならご案内します」と張り切るフィオリーナについて、彼が柔らかに微笑む様子はロレンティナに心配はいらないと告げているようでもあった。
「では、いってまいります。お姉さま」
フィオリーナに続いてオルミ卿も「失礼いたします」と挨拶を続けて応接間から出掛けて行った。
(どこがケンカ中なのだか)
けれど、フィオリーナはそんな嘘をつかなければならない状況に置かれているということだ。
フィオリーナが別れ話を切り出すことはありえない。だから、オルミ卿がフィオリーナから離れようとしていることが事実なのかもしれない。
(これは確かめる必要があるわね)
ロレンティナはまずは両親に話をするべく席を立った。




