紫の目を持つ友人が言うには
第一王子との謁見は近衛騎士も置かない、王子の私室で行われた。
リカルドはうしろに控え、ネーヴェが前に進み出ると王子は手放しに出迎えた。
「やぁ、よく来たね」
執務机からネーヴェを見上げる王子は金の髪をなびかせていかにも人の良さそうな顔に笑みを作った。リカルドはこの王子のこの顔以外を見たことが無かった。
彼はネーヴェとは違う形の怪物なのだ。
ネーヴェは王子に対峙してもほとんど表情を変えず、挨拶や口上も省いて口火を切った。
「──私はあなたの思惑通りにこの国に留まっています。これ以上何をお望みですか」
ネーヴェの言葉に王子は笑みを少しおさめて、片眉を上げる。
「フィオリーナ姫のことなら心配はいらないよ。──君と私はいい友人になれると思うんだ」
王子の言葉にネーヴェは心底嫌そうな顔をする。
「脅迫は攻撃とみなします。あなたの国が戦火に見舞われても良いなら彼女の名前をいくらでも口にしてください」
質の悪い冗談のように聞こえるが、ネーヴェの怒気はすでに頂点なのだろう。王子は両手を挙げた。
「わかった。けれど、それには君がカミルヴァルト領を継ぐのが条件だ」
王子の条件にネーヴェは肩をすくめる。
「オルミ領だけでは不足だと?」
「ああ。……だがそうだな。今のところは月鉱石の研究にオルミ領が便利か」
王子はそう呟いて、
「月鉱石の中毒については本格的に調査させよう。君の報告にも期待している。これからも研究に励んでくれ」
王もそれをお望みだ、と続けるがネーヴェは頷く代わりに別のことを投げるように口にする。
「ハルディンフィルドへの脅迫はおやめになったほうがよろしいと思いますよ」
ネーヴェの言葉に王子の笑顔が硬くなる。
「……どうしてそう思う?」
「大国相手に開戦など愚の骨頂だと誰も諫言なさらないのですか。あれを怒らせたところで大損するのはこちらであることは明白だ」
遠慮のないネーヴェの言葉に王子は目を細めたが、あきれたように肩を竦めた。
「だから君とは友人になれると思うんだが」
「私は脅迫するような者を友人とは呼びません」
ネーヴェは変わらずにべもないが、王子は愉快そうに笑っただけだった。
「では、これからも脅迫するとしよう。ザカリーニ邸に帰ったら確認してみてくれ。彼女にとってもいい話のはずだ」
王子はフィオリーナの名前は出さなかったが、ネーヴェは不機嫌に「これで失礼いたします」と勝手に踵を返す。
けれど「ああ、そうだ」と王子を振り返る。
「ハルディンフィルドへの嫌がらせは良い方策だと思います」
それだけ言ってリカルドに来いと手を振って、退室してしまった。
「ゴベルト卿」
呼び止められたのでせめて辞去の挨拶だけでもリカルドが述べようとするが、王子が片手を上げて遮った。
「あなたも来てくれてありがとう。あなたが来てくれたおかげで有意義な会話ができた」
この短く危険な会話のどこが有意義だったかリカルドには理解できなかったが、王子がそう決めたのならそれでいい。
「もったいないお言葉です」とだけ返したが、王子は目を細めて笑った。
「私と一対一であったら私は殺されていただろう。君を連れてきたことが彼の良心の表れだ」
それで十分だと言われても安心はできなかったし、ネーヴェならやりかねないことだった。
「先ほども繰り返したが彼女のことは心配しなくていい。もう傷などつけないし、障害は排除しておく」
そう王子が視線をやったのは、執務室から見える庭だ。その庭には王子の近衛が配置されていて、その一人に見覚えがあった。
フィオリーナの元婚約者だ。
ネーヴェはこれを確認したのだ。あの男を王子が手元に置いているということは、もう生殺与奪を王子が握っている。これからはどのような自由もあの男には許されない。
「すべて自由に、とはいかないがこれから先、私が彼女を脅かすことは決してしないと約束しよう」
あの男の命を王子が握っていると分かって、ネーヴェは譲歩することを決めたのだろう。
王子は本当にフィオリーナを害することを止めたことを確認したからだ。
フィオリーナが自由になるのはリカルドにとっても有意義なことだ。
今度こそリカルドは辞去を告げてネーヴェを追って退室した。
ネーヴェを追って廊下を戻ると、すでにネーヴェは馬車を待たせていた回廊の脇で煙草に火をつけていた。王城の中ではきっと咎められたのだろう。
リカルドが戻ったことを確認すると、すぐに馬車に乗れと言う。まったくこの仕事の早い上官に八年もよくついていったものだ。
大人しく馬車に乗り込むと御者に合図を出して走らせる。
馬車が走り出したところで、質問を許すようにネーヴェは煙を吐いた。
「……もうフィオリーナ嬢は自由になったと考えていいのか?」
リカルドがまずそれを口にすると、ネーヴェは珍しくすこし考えるように黙り、口を開く。
「……いくつか想定はある。けれど、ここから先はフィオリーナが決めることだ」
私が決めることじゃない、とネーヴェは溜息をつくように煙草をくわえる。
「じゃあ、ハルディンフィルドへの脅迫とはどういうことだ?」
これがもっとも聞き捨てならなかった会話だ。しかしネーヴェは呆れたような顔で極めてつまらなさそうに煙を吐いた。
「殿下はハルディンフィルドを恨んでいる」
「……敵国であったセラシナスではなく?」
リカルドの問いに、ネーヴェはうなずいてかみ砕くように続けた。
「殿下はセラシナスとの開戦前、中立の立場から交渉の仲介をハルディンフィルドに嘆願したんだ。それがもっとも平和的でどの国も消耗が少ない策だったからな。だが、結果は君も私も知るとおり」
交渉は決裂し、グラスラウンドとセラシナスは血みどろの戦争に突入し、ハルディンフィルドは十年に及ぶ眼前で繰り広げられた戦火を静観し続けた。
「そのくせ月鉱石の輸出は継続しろと圧力までかけた。私たちが護衛した貨物に、どれほどの月鉱石が含まれていたか知っているだろう?」
グラスラウンド王国は膨大な戦費と物資を賄うために、ハルディンフィルドからの外貨を断つことなどできはしなかった。おそらくこの国を削るような輸出がなければ、オルミ領の奇病がここまでひどく現れることはなかったはずだ。
ネーヴェは短くなった煙草を灰皿に放り込んで続ける。
「この構図はセラシナスでも同様だったはずだ。セラシナスはグラスラウンドよりも鉱脈がずっと少ない。要求量を賄うことに相当苦労しただろう。元々戦力の劣ったグラスラウンド王国が有利になるほど国力が低下するのは目に見えていた」
ハルディンフィルドは自国の発展のために二国から文字通り血と金脈を吸い上げたのだ。漁夫の利どころの話ではない。停戦とはなったが、敗戦も同然だったセラシナスからの怨嗟は相当なものだろう。
「ハルディンフィルドの横暴は他国も当然見ている。だから、殿下は他国を巻き込んでハルディンフィルドを衆人環視の檻に放り込みたいんだ。どんな手段を使っても」
いくら大国といえど世界中の国が連盟を組めば太刀打ちするのは難しくなる。長い年月のかかる壮大な陰謀だ。
「……そのためにお前が必要なのか」
今の時代、この世界において魔術の稀有な才能は鉱脈にも匹敵する資産だ。
ネーヴェが魔術師の塔の招聘を断り続けているのはリカルドも知っている。誰よりも才能を持ち合わせたこの男は脅迫でもしなければ、自発的に護国など考えようともしないことも。
けれどネーヴェは軽く笑って、
「私をこの国に縛る理由はそんな大層な理由じゃない。……ああ見えて、殿下はこの国がお好きなんだよ」
ネーヴェは次の煙草をくわえて、マッチを擦った。
「この暗く凡庸で、けれど美しいこの国を愛しておられる。──だから自分に意見できる私が必要なんだ」
この国を自分の手で滅ぼしてしまわないために。
煙と共に呟かれた言葉がまるでネーヴェと重なる。
大切なものを壊してしまう怪物は、どうして誰も彼も不器用なのか。
「……ハルディンフィルドへの嫌がらせというのは?」
溜息交じりのリカルドに、ネーヴェは「ああ、あれか」と言って新たな煙を吐いた。
「あれは人間のやることではないから気にしなくていい」
聞けば後悔すると言われてリカルドはこれ以上尋ねることを止めた。
クリストフあたりは無理矢理聞いて後悔していただろう。それほどネーヴェの忠告はいつだって貴重で、外れたことはないのだ。ネーヴェは嫌がるだろうが、王子がネーヴェの注進を必要とする気持ちを副官であったリカルドなら理解はできる。
「ネーヴェ」
リカルドの言葉に怪物が魔眼とまで揶揄された紫の視線を寄越す。
「お前には鎖かもしれないが、お前に助けられた私たちはいつでもお前の味方だ。それだけは忘れないでくれ」
ネーヴェが常人から外れていることは間違いない。だが、彼はリカルドの恩人であり友人なのだ。そしてそれはリカルドに限ったことではない。ネーヴェが助けたすべての人がそうであるし、心を砕いて人に奉仕した彼の恩義に報いるべきなのだ。
リカルドの言葉を聞きながら煙草を指に挟んで煙を吐くと、友人は笑った。
「そんなこと、今更言わなくても分かっているさ」




