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サンドイッチが言うには

「二階は楽しそうですね」


 窓が開けてあるのだろう。初夏も近い。心地よい風が楽しげな女性たちの声を運んでくる。


「五年ぶりに連絡を寄越してきたと思えば、何ですかこの状況は」


 オネストは軽食にと運ばれてきたサンドイッチを口に放り込んだ。女性たちが食べやすいように一口大になっているサンドイッチは食べやすい。ジャムとチーズの甘いサンドイッチが意外とうまいことに驚きながら、オネストは次のサンドイッチを手にしている。この子供のような悪癖は結局戦争から帰っても直らなかった。戦場での食事はいつも取り合いだったからだ。


「話したことはなかったか? 宣言通りの隠遁生活だよ」


 ネーヴェはマグカップのコンソメスープをのんびりと飲みながらソファにもたれた。サンドイッチは二、三個だけ口にしてそのままだ。

 この上官だった男はいつもそうだ。誰よりも食が細く──まるで生きることを拒むようだった。


「どこが隠遁ですか。若い娘を囲っているなんてとんだ隠者ですね」


 オネストの嫌味に笑って返すのも相変わらずだ。


「お預かりしているだけだよ。少し事情があってね」

「ドレスやアクセサリーを用意してやるのが?」

「そう。若い娘に貢いでいる悪い隠者だからね」


 事情を話す気はなさそうだ。これ以上の詮索は客商売としては失礼になる。


「そういえば、ヒースグリッドで噂を聞いたのですが。オルミ領の領主が最近社交界で噂の悪女と婚約したとかなんとか……」


 野菜の酢漬けとハムのサンドイッチを口に放り込んで、オネストはしばらく咀嚼してから飲み込んだ。


「まさか……」


 このオルミ領領主屋敷にいるご令嬢などひとりしかいない。


「早耳の君にも分からないなら、よっぽどいい加減な噂だな」


 ネーヴェは皮肉げに笑って、眼鏡の奥の目を細めた。

 そういえばこんな風に人を食った顔で笑う人だったとオネストは思い出し、今まで忘れていたことにも驚いた。あのフィオリーナの前ではけっしてそんな顔を見せなかったからだ。


「何ですかこれ。陰謀の匂いがぷんぷんするんですが…! 巻き込まれるのはごめんですよ!」

「話してもいいが、この件にはクリストフも噛んでいるよ」


 ネーヴェが口にした名前にオネストは「げっ」とうめいた。

 クリストフは貴族の悪いところを煮詰めて形にしたような男だ。関わるとロクなことにならないのは十年前から重々承知している。


「……あの人と組むなんて正気ですか、隊長。ぜったい良くないことが舞い込んできますよ」


 青ざめるオネストに、ネーヴェは「ああ」とうなずく。


「オネストは戦場でひとり取り残されたんだったな。クリストフに騙されて」


 悪夢のような不運を掘り出されてオネストは思わず顔を両手で覆う。思い出したくもない最悪の出来事だ。

 上官の命令だと向かった先でクリストフは他の任務があるからと突然逃げたのだ。オネストは敵に囲まれながらも必死に逃亡し、報告を聞いて救出にきてくれたネーヴェとエルミスに助けられたのは記憶に深く刻み込まれている。クリストフの非道な性格と共に。

 のちにクリストフが白状した動機は「暇つぶし」だ。まさか敵が来るとは思っていなかったと笑って言われて、拳銃を抜かなかったのはひとえに隣にエルミスとネーヴェが居たからだ。


「クリストフは初めからあてにしていないよ。ヒースグリッドで見つかってしまったのは、私の不注意だと思うけれどね」


 そう言っておだやかにソファの肘掛けに肘をつくネーヴェなど、五年前なら見られなかっただろう。


「……本当に五年経ったんですね、隊長」


 オネストはついこぼしていた。本当に五年経ったのだと、今更ながら実感が沸いてきたのだ。


「私はもう隊長ではないよ」


と、ネーヴェは彼らしく指摘してから静かに笑った。


「やっぱり君たちを呼んで良かったな。オネストもエルミスも、元気そうで良かった」


 そう笑うネーヴェなど、あの戦場では見ることはなかったのだ。



 北部戦線は、国の北から北西部にかけて、オルミやヒースグリッドとも近い国境で隣国と十年ものあいだ続いた国境線を争った戦争だ。

 この有事に国は平民からも兵役を募り、貴族にはひと家につき最低一人を徴兵し、多くの戦死者を出した。

 この戦争は五年前の隣国内のクーデターにより王権が交代し、平和条約によって国境線が定められたことで終結した。


 フィオリーナの兄、アーラントも三年の兵役に向かった。

 さいわいというべきか、兄はすでに文官だったので前線に出るような任務にはつかず、後方支援の任務に就いたという。

 それでも、戦争を間近で経験した兄は復員後は部屋に篭もる日が多く、文官に復帰するまで一年かかった。

 そのころからだろうか。兄はフィオリーナたち家族への責任を重く背負うようにして行動することが増えたように思う。


「──私は長女で、魔力が強かったので魔導部隊に配属されておりました」


 エルミスは手元をじっと見たままおだやかに話す。


「魔導部隊は魔術攻撃を行う部隊ですので、女性の隊員も多く所属しておりました」


 魔力の強さに肉体的な男女差はないので、魔術師のあいだでは男女格差が少ないときく。

 貴族の子弟の徴兵はいくつかの条件を満たせば免除された。けれど、エルミスの家はその免除を受けられなかったのだろう。この徴兵を断れば最悪、爵位を返還させられるのだ。家名の断絶は一族の死である。

 けれど、他に選択肢はなかったとはいえ女性の身での従軍は並大抵のことではなかったはずだ。

 エルミスの姿が帰還したばかりの兄と重なって見えて、フィオリーナは思わずエルミスの膝の上に置かれた手にみずからの手を重ねていた。

 戦争の終結から五年が経つ。

 こうしてエルミスがここに居ることを心から安堵した。


「──よくお戻りになられました、エルミス様。今日この日、あなたとお会いできたことを心から嬉しく思います」


 フィオリーナの突拍子もない行動に、エルミスは目をぱちぱちとさせたが、やがてゆっくりと微笑んだ。


「──ありがとうございます。フィオリーナ様」


 そうして少し恥ずかしそうに笑う。


「申し訳ありません。余計なことを申しました」

「そのようなことは……」


 フィオリーナにエルミスは首を横に振る。


「お伝えしたいのは、私のことではないのです。──私は、隊長…オルミ卿の部隊にいたのです」


 エルミスの言葉で、フィオリーナにはどこか遠かった戦争がひんやりと近寄ってきたような心地になる。

 兄を思ったことも、先ほどエルミスにかけた言葉も、どこか薄っぺらだと感じた。


「本日、共に伺ったオネストもそうです。オルミ卿には、復員後も何かと気にかけていただいておりました」


 どこか気安い彼らの空気は、戦時を共に駆けたからだったのか。

 それが腑に落ちると同時にフィオリーナではけっして踏み込むことのできない空気だと感じる。

 気持ちが沈んでいくフィオリーナと裏腹に、エルミスは先ほどより清々しい顔だ。


「こうして本日お招きいただいて、フィオリーナ様とお会いできて本当に感謝しております」

「え?」


 訝るフィオリーナの手をエルミスは重ね返す。

 細いが、しっかりとした手は世間知らずのフィオリーナとはまったく違う重みのある手だ。


「戦時ではお嬢様を着飾ることなんてできませんでしたから」


 ふふ、といたずらっ子のように笑って、エルミスは「さぁ」と立ち上がる。


「朴念仁たちにお嬢様をご披露いたしましょう。もちろん、ドレスが似合わないなどとぜったいに言わせませんとも」


 そう言って微笑むエルミスは、少女のように可愛らしかった。


 ▽


「これはこれは」


 昼食の時間はとうに過ぎ、午後のお茶の時間になってようやく応接間にやってきたフィオリーナを、オネストとネーヴェは驚き顔で出迎えた。

 応接間のテーブルはコーヒーや新聞などが散らかり、ネーヴェが愛煙している煙草は灰皿で山となっている。だいぶ待たせてしまったようだ。


「すばらしいですね! よくお似合いです」


 さっそく手放しに誉め言葉を口にしたのはオネストだ。

 深紅のドレスに合わせたのは、協議の結果ダイヤモンドで揃いのネックレスとイヤリングとなった。小粒の宝石が連なってバラの花に滴るしずくのようだ。髪型は緩く編み込んでダイヤモンドのついた金の髪飾りで後頭部にまとめた。前髪は左だけ長く残して顔の左側に紗がかかるようにした。化粧もドレスに合わせて試行錯誤した結果、赤い口紅に淡い赤みを帯びた薄茶色のアイシャドウ、そして目尻が少しだけ長く延びるように焦げ茶の色墨で描いた。それだけで丸みを帯びていたフィオリーナの燻したような濃い焦げ茶の瞳が、切れ長でどこか神秘的に見えるのだから化粧というものの可能性は無限大だ。

 フィオリーナだけならば謙遜していたかもしれないが、この成果はエルミスたちとの合作だ。

 だから素直にフィオリーナは微笑んだ。


「ありがとうございます。……これで大丈夫でしょうか?」


 それでも少し不安になるのは、ネーヴェがしげしげと眺めて何も言ってくれないからだ。


「大丈夫どころか、園遊会の花となりますよ」


 目利きのオネストが惜しげもない賞賛を送ってくれるので、これで良しとしなくてはならないだろう。


「……隊長も何か言ってさしあげてください」


 オネストに肘でつつかれて、しげしげと遠くでこちらを眺めていたネーヴェはようやく近付いてきた。

 フィオリーナの前に立っても、やっぱり観察するように見つめてくる。フィオリーナはまるで博物館の標本にでもなってしまった心地だ。

 やっと視線をフィオリーナの顔に向けたネーヴェは、心得たように微笑んだ。


「一瞬、誰だかわかりませんでした。この格好ならフィオリーナとバレませんね」

「隊長!」


 オネストとエルミスが昔の呼び方でそろって声を上げた。



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