噴水が言うには
舞踏会の会場を側面から出て庭を望んで回廊へ出ると、以前と同じように警備の騎士も遠くに見えた。
ほとんど人のいない冬の庭では相変わらず噴水が静かに湧いている。
ネーヴェと初めて会った場所だ。
フィオリーナが噴水の水に触れてみると本当に冷たくて驚いた。
「よくこんなに冷たい水をかぶっていましたね」
フィオリーナが笑うと、ネーヴェは苦笑して変装を解いた。
「……頭からワインをかぶったもので。一刻も早く洗い流したかったんですよ」
正直に白状したネーヴェは、今のフィオリーナだから話したくれたのだろう。
たしかに舞踏会の会場で第三王女からワインをかけられたのだとは、十四歳のフィオリーナには教えられない話だった。
「どうしてこの場所に?」
ネーヴェに問われてフィオリーナは思わず微笑む。
「ネーヴェさんに初めて会った場所だからです」
フィオリーナの答えにネーヴェは笑って、
「たしかに。あなたも噴水の水に頭を突っ込んでいる男に、よく声をかけようだなんて思いましたね」
言われてみればそのとおりだが、フィオリーナはとにかく必死だった。
「ネーヴェさんの他に人が居ませんでしたし、あまりよく考えていなくて……こんな寒空では風邪をひいてしまうと思ったのです」
苦笑するフィオリーナに、ネーヴェは自分の上着を脱いで肩にかけてしまう。
見た目のとおり重い上着は、薄いレースのドレス姿のフィオリーナには温かかった。
「あの時もあなたが寒そうで、上着をかけてあげようと思ったのですが」
ネーヴェはそう言ってフィオリーナにかけた上着の合わせを整えるように閉じてしまう。
「あまりにも小さい女の子で、上着に埋もれてしまうと思ったんです」
今はそうでもないですね、と言うネーヴェにフィオリーナも思わず笑ってしまう。
「さすがにそんなに小さくはありませんでした」
「私の周りは軍人ばかりでしたからね。あなたのような人は本当に小さく見えて驚いたんですよ」
ネーヴェに比べれば今のフィオリーナも十分小さいだろうが、そんな風に思われるほど十四歳のフィオリーナは幼かったのだろう。
細く笑うネーヴェの吐息が白い。あの日もきっとこんな寒空だった。
あの日のフィオリーナは、こうしてネーヴェと再び同じ場所で笑い合う未来など想像もできなかった。
菫色の瞳に救われて、こうしてまた見つめ合うことも。
「ネーヴェさん」
見つめれば、見つめ返してくれるということも知らなかった。
「助けてくれて、ありがとうございます」
今も昔も、フィオリーナを助けてくれたこの人に話したいことはたくさんある。
「ずっと、お礼を言えなくてごめんなさい」
フィオリーナが微笑むと、菫色の瞳もおだやかに微笑む。
(この人に恋をして良かった)
今ならこの気持ちが恋だと分かる。
この気持ちはフィオリーナだけのものだ。
(だから)
フィオリーナは幸せな気持ちのまま微笑むのだ。
(ぜったいに伝えない)
きっとネーヴェはもうフィオリーナを見捨てられない。
フィオリーナがどう思っていようと、ネーヴェはフィオリーナを大切にしてくれるからだ。
もしも気持ちを伝えればネーヴェはもう自由にはなれないだろう。
ネーヴェ自身の気持ちなど無視して、フィオリーナを優先する。
フィオリーナはネーヴェを自由にしたいのだ。
彼がフィオリーナを自由にしてくれたように、いつまでもあなたが大切だと伝えたい。
(だから言わない)
傲慢でも、ワガママでもいい。
大切にしたい気持ちは偽らない。
どんなにそばに居たくても、ネーヴェをないがしろにしたりしない。
それがどんなに辛くても。
(笑って、泣かないで)
フィオリーナはもう大人だ。
十四歳のフィオリーナではない。
「──本当にありがとうございます、ネーヴェさん」
微笑むフィオリーナの頬を大きな手がかすめて、上着の襟をそっとつかんだ。
「……こちらこそ。ありがとう、フィオリーナ」
額に吐息が降って、淡く口づけられる。
子供のするようなキスが震えるほど甘く、泣きたくなるほど優しい。
たしかに心がつながったのだと思えることが、辛くてこの上なく嬉しい。
(きっと、ずっと忘れない)
この瞬間を、この気持ちを、フィオリーナはずっと忘れない。




