ハンカチが言うには
あのあと、いくら探しても見つからなかった彼がふたたびフィオリーナを助けてくれたのは、それから四年も経ったあとのことだ。
戻ってきた刺繍のハンカチは王都のフィオリーナの部屋に大事にしまってあった。
そして刺繍のハンカチは今、フィオリーナの手の中にある。
「綺麗よ、フィオリーナ」
支度を終えたフィオリーナを迎えにきた母が嬉しそうに微笑んだ。
舞踏会用にベロニカが用意してくれたのは、白に近い水色のドレスだ。淡いレースと白の真珠をあしらった上品なデザインで、まるでデビュタント用のドレスにも見える。
けれどスカートのひだは何層にもなっていて、デビュタントのフィオリーナでは今ほど上手に裾をさばいて歩けなかっただろう。
今のフィオリーナならこのドレスを美しく着ることができる。
髪は真珠の髪飾りと淡い紫のリボンで編み込んでまとめて、アクセサリーは母に借りた真珠のネックレスとイヤリング。化粧は淡い紅色をさして優しい色合いに仕上げられた。
まるで雪のようだ、と思った。
ベロニカの指示だというこの姿を、一刻も早く見せたいと思った。
あの人に。
母に連れられて階下のサンルームに連れられていくと、手前で待ち構えていた父が苦笑した。
「……複雑な気分だが、綺麗だよ。フィオリーナ」
フィオリーナが微笑むと父自らサンルームの扉を開けて、ここで待つように言う。
今回の舞踏会は父や母は招待されていない。だからこうしてゆっくりと娘を見送ることができるのだと言ってくれたが、王家主催の舞踏会は招待条件が厳しいのだ。伯爵家であっても例外ではない。
だからフィオリーナがこうして舞踏会に招待されたことは、本当に運と協力してくれた人たちのおかげだ。
サンルームからは庭師に整えられた冬の庭が見える。窓際のソファに腰かけると温かい日差しがゆっくりと射す。この窓からは冬でもでたらめに生き生きと伸びる薬草たちは見えないのだ。
あの日と同じように刺繍のハンカチを握って、フィオリーナは自分の手に視線を落とした。
これからはひとりで生きていかなければならない。
もちろん両親や兄姉も助けてくれる。でも、もうフィオリーナは子供ではないのだ。彼らの助けとなりたかった。
これからはそれを考えていくのだ。
(でもその前に)
会いたい人がいる。
コツ、とわずかな靴音と共にドアが開かれる。
長身のその人は裾の長い軍人の礼服を身に着けていた。
幾重にも紐飾りを肩口に渡して、胸元はいくつもの勲章で重そうだ。
重厚な黒の礼装は他にないほど重苦しい印象だった。
彼の黒に近い紫の髪ならなおさらで、白皙の容姿も相まってひどく冷たく見えた。
けれど、その菫色の双眸が柔らかく微笑むことをフィオリーナは知っている。
──ずっとこの人であったら、と思っていた。
あの日出会ったのも、助けてくれたのも、この人であったらこれほど嬉しいことはなかった。
「……やっぱりあなただったんですね。……ネーヴェさん」
フィオリーナがそう微笑むと、初めて出会った日と変わらない格好のネーヴェが苦笑した。
いつもは下ろしている前髪をフィオリーナと初めて会った頃のように上げていて、一筋だけ額に垂れている。ネーヴェの整った容貌がよく見えて、やはり美しい狼のようだった。
狼が穏やかに微笑む。
「──久しぶり、お嬢さん」
ネーヴェはそう言ってフィオリーナの隣に腰を下ろした。
「……とうとうバレてしまいましたね」
諦めたように言うネーヴェはフィオリーナに視線を寄越す。その様子がイタズラが見つかった子供のようにも見えて、フィオリーナは思わず微笑んだ。
「髪を切られたのですね」
「ええ……髪は切る機会がなくてただ伸びただけだったので」
今は肩ほどの長さを水色のリボンでまとめているが、ただ伸びただけであれほど美しかったのだ。うらやましく思ったのはフィオリーナだけではなかっただろう。
けれど、ネーヴェは本当にずいぶんと印象が変わっていた。
あの頃のネーヴェはまるで森深くに棲む狼のようで、陽だまりで微笑んでいる様子など想像ができなかったのだ。
(でも)
フィオリーナは同じ人にまた恋をしたのだ。
「……やっぱりネーヴェさんは、わたくしの初恋の人です」
今は、今だけは素直に気持ちを言える。
フィオリーナは菫色の瞳に微笑んだ。
「またお会いできて、本当に嬉しいです」
微笑むフィオリーナにネーヴェは困り果てたように眉根を寄せる。
溜息をつくように「フィオリーナ」と呼んで、こちらを見遣った。
「……あなたにずっと隠すつもりは──ありましたが」
珍しくネーヴェは言い淀んで、うつむいて額に手を当てた。
「……すみません。できれば、ずっと隠していたかった」
「……どうしてですか?」
フィオリーナが問いかけると、ネーヴェは伏せていた視線を上げる。
それは初めて会ったときのような瞳だった。
初めて空を見たような、澄んだ瞳だ。
ネーヴェは柔らかく苦笑して、フィオリーナを見つめる。
「……私が、あまりあなたに嘘をつけないからですよ」
尋ねられれば答えてしまう、とネーヴェは困ったように笑った。
「そもそも初恋と言われて、たじろがない男がいるならお目にかかりたいものです」
今度はフィオリーナの方が困ってしまう。
顔を赤くしたフィオリーナを見て、ネーヴェは苦笑する。
「あなたとは、本当に二度しか会ったことがなかったのに」
繋がりはハンカチだけでしょう、と言われてフィオリーナにも言い分がある。
「……それはわたくしも同じです。二度しかお会いしたことがなかったのに」
ずっと気になっていたことだ。
「──どうしてわたくしを、助けて下さったのですか?」
いくらネーヴェが遠因なったからといっても、フィオリーナを助ける方法などいくらでもあったはずだ。けれどネーヴェはフィオリーナをオルミに呼び寄せ、悪女として活動させて、今日この日まで来た。
ネーヴェは笑みを収めてじっとフィオリーナを見つめると、自嘲するように目を細めた。
「私の自己満足だからです」
ネーヴェはフィオリーナが持っていたハンカチを、フィオリーナの手ごとすくって自分の両手でくるんだ。助けてくれたあの日のように。
「……私は、あなたに救われたんです」
くるんだ自分の手に言葉を落とすようにネーヴェはそう切り出した。
「私はずっと憎くてたまらなかった。……この国が」
冷たい言葉にフィオリーナは身を引きそうになるがじっと耐えた。
その様子を見定めるようにしてネーヴェは続ける。
「戦争を起こす者たちも憎かったし、それを支持して煽る人々が憎かった。……戦場では身分や戦力など関係ありません。ただただ人が死ぬだけです」
──それを祝おうなどと、微塵も思えなかった。
ささやくように呟かれた言葉は、穏やかなネーヴェからは想像もできないほどの怒りを蓄えていた。
ネーヴェは「だから」と静かに続ける。
「戦後処理を終え次第、祝勝会を待たずに出国するつもりでした。それを、父に捕まって無理矢理祝勝会に参加させられたんです」
垣間見たネーヴェの生い立ちを考えれば逃げ出したくなるのは当然だろう。
ネーヴェはずっと誰かのために使われ続けていたのだ。
ネーヴェの冷たい雪の底を見た気がした。
彼は本当に誰も近寄れないほど冷たい場所で生きている。
(でも、今はそばにいる)
フィオリーナはネーヴェの手のひらの中でそっと大きな手のひらを握るように動かす。すると、ネーヴェはくるんでいた手を開いて、フィオリーナの指先を捧げるように持った。
「……でも、祝勝会には参加して良かったですよ。あなたに会えた」
ただの偶然で出会ったフィオリーナがネーヴェに何かできたとは思えなかった。
フィオリーナにできたことと言えば、ネーヴェが生きて帰ってきたことを言祝いだぐらいだ。
不思議に思って見つめ返すフィオリーナにネーヴェは穏やかに微笑む。
「単純な話ですが……あなたのような人を守ったのだと思えたんですよ」
ネーヴェはそのときを思い出すように少し目を伏せる。
「あなたが戦いを知らず、怖い思いをせず、笑って過ごしてくれる時間を守れたのだと……本当に心の底から良かったと思えたんです」
ですから、と菫色の瞳がフィオリーナを見つめる。
「あなたがいなければ、今の私はここにはいませんでした」
捧げ持っていたフィオリーナの手から、ネーヴェはハンカチを引き抜く。
「ここにいなければ、あなたをまた助けられなかった。だから」
大きな手がフィオリーナの頬にハンカチをあてて、菫色の瞳が穏やかに細くなる。
「──本当にありがとう。フィオリーナ」
頬をそっとハンカチで拭われて、ようやくフィオリーナは自分が泣いていることに気付いた。
流れる涙を止められない。
ネーヴェはフィオリーナがいなければ、きっと自由になれた。
フィオリーナはネーヴェをこの国に引き留めてしまったのだ。
けれど、そうでなければフィオリーナはネーヴェと再び会うことも叶わなかった。
浅ましく醜い、この執着を捨ててしまえればいいのに、ネーヴェの手に自分の手を重ねると温かくてどうしても手放せないのだと思い知る。
「……ごめんなさい、ネーヴェさん」
泣きじゃくるフィオリーナにネーヴェは困ったように苦笑する。
「……フィオリーナ」
薄い唇がフィオリーナのまぶたに寄せられる。
「……謝ってほしいわけじゃない」
かすれた声が吐息と共に言う。
「あなたに泣いてほしくないだけだ」
首裏に指がかかって、軽く引き寄せられる。
長い指がうなじのおくれ毛を絡めるように、フィオリーナをそっと上向かせた。
唇がフィオリーナの口元をかすめて、まぶたの上をさまよって、額に届く。
額に柔らかく、甘い感触が降った。
すると滑稽なほど涙は引っ込んで、目じりに残った涙だけが頬を流れた。
まばたきを繰り返すフィオリーナに、ネーヴェはゆったりと口の端を上げて笑う。
「やっと止まった」
ようやく自分の身に起こったことが分かったフィオリーナは、全身くまなく指先まで真っ赤になって絶句する。
額にキスをした張本人は、したり顔で脅すように笑った。
「今度からはこうすることにしますよ」




