シードルが言うには
シードルはリンゴ農家が各家で作る庶民の酒だ。
家によって味が違い、リンゴの出来や気候によっても違うらしい。
ネーヴェがシードルを買ったのは昔から精霊祭に屋台を出している農家で、この時期だけ王都にやってくるという。
「やぁ、久しぶりだな! 小僧!」
ネーヴェに豪快に笑った老人はかくしゃくとしていたが、右足がなく義足だった。樽に腰かけてかわるがわるやってくる客にシードルを振る舞っているようだ。
「なんだなんだ、とうとう嫁か!」
老人はフィオリーナを目ざとく見つけて笑うので、ネーヴェは呆れたように肩を竦めた。
「まさか。お預かりしているお嬢様をエスコートしてきただけだよ」
ネーヴェは老人の手伝いをしている中年の女性からシードルがなみなみ注がれた木のカップを受け取って苦笑する。
「こんな美人をお迎えできるほど、善行は積んでいないものでね」
「ははは、違いねぇ! 悪たれ小僧め!」
豪快に笑う老人に「また来ます」とネーヴェは苦笑して、フィオリーナを連れて店を離れた。
ネーヴェが善行を積んでいないのなら、フィオリーナはほとんど積めていないだろう。
何と言って良いのか分からないでいるうちに、ネーヴェはフィオリーナを連れて屋台の脇にあるベンチにフィオリーナを座らせた。
ハンカチを敷いた場所にはフィオリーナを座らせて、自分はじかに座ってしまう。そして有無を言わせず、シードルをフィオリーナに手渡した。
「どうぞ。飲んでみてください」
ジュースと同じだと言ってネーヴェが口をつけるのを見て、フィオリーナもカップに口をつける。
シュワシュワとした泡がはじけると甘い香りが漂ったが、味はあまり甘くない。リンゴの奥に隠れている酸味があとからやってきて、喉をわずかなアルコールといっしょに通り過ぎる。
けれど、あとに残る味はほんのりと甘かった。
甘いシャンパンとも辛口のワインとも違う、不思議な酒だ。
「……美味しい」
教えてくれたメイドが、故郷に帰ったら必ず飲むのだと言っていたことがよく分かった。
これは忘れられない味だろう。
フィオリーナもきっと忘れない。
そっと隣を見る。すると菫色の瞳が穏やかに笑った。
「次はホットワインでも飲みましょうか」
フィオリーナがうなずくのを見て、狼の瞳が細くなる。
ネーヴェはフィオリーナが何をしても許してくれるだろう。
行きたいと言えばきっとあの道の奥にある場所も見せてくれたはずだ。
でも、もうフィオリーナがネーヴェのそばに寄ることを許してはくれなくなるだろう。
今のフィオリーナではあの先にある暮らしも価値観もきっと理解できないからだ。
そして生まれの違いを倦んで病んでいくフィオリーナを、ネーヴェは静かに置いていく。
(それは嫌だわ)
フィオリーナはネーヴェのすべてが知りたいのではない。
ただそばに居たいのだ。
ネーヴェの冷たい雪が解けなくても、フィオリーナがその冷たさに凍えても、そばにいるのだと知ってほしい。
甘くはないシードルを飲み干すと甘い香りだけが残った。
シードルを飲んでからは屋台を見て回った。
具がいっぱいのキッシュ、カスタードとリンゴのアップルパイ、ホットワインはホテルで用意されたものよりスパイスが効いていた。
お腹がいっぱいになるほど食べるのは久しぶりのことだった。
「そうなんですか?」
フィオリーナを不思議そうな顔で見るネーヴェは太るという言葉とは縁遠い人だ。
「ドレスが入らないと、怒られてしまうので」
ベロニカが怒るとは言わなかったが、ネーヴェは「なるほど」と苦笑した。
「まぁ、私もこんなに食べるのは久しぶりですよ」
夕食はいらないな、とネーヴェは言って、
「今日はワインを飲んで適当に眠ることにします」
「飲み過ぎないよう気を付けてくださいね」
何事も理性的なネーヴェだがワインだけはたまに飲み過ぎてしまうことがある。ネーヴェは酔っぱらって醜態をさらしたことはないが、フィオリーナが空になったワインボトルの数を数えて蒼白になったことがあるのだ。フィオリーナの指摘に「はい」とネーヴェは素直にうなずいた。
次はどうしようかとあたりを見回すネーヴェに隠れて、フィオリーナはわずかに自分のお腹を撫でる。
フィオリーナは生まれて以来飢えたことなど一度もない。
精霊の子供たちにとって、フィオリーナは別世界の人間だろう。
彼らにとっては目の前で食事を振る舞ってくれる大人が良い大人であるはずで、そうではない人がほとんどの世の中は冷たく映ることだろう。
(冷たくてもいい)
貴族のフィオリーナならもっと別の何かができるはずだ。
今はあの銀貨が子供たちの食事になることを願わずにはいられなかった。
▽
午後をいくらか過ぎたところで、ネーヴェはフィオリーナを連れて広場を出た。
「そろそろ帰りましょうか。遅くなると酔っ払いだらけになりますから」
確かに屋台にはお酒を扱う店も多かった。これからもっと盛況になるのだろう。
乗合馬車の停留所まで行こうということになって、道を歩き出すと少し暗い細道のほうから軽い足音が向かってきた。
「先生!」
細い道から少しだけ表の道に顔を出したのは、お世辞にも清潔な格好とは言えないが大人用の帽子をかぶった少年だった。大人と子供のあいだにいるような顔であたりを見回して、
「来たんなら声かけろよな。オレの下のやつがおまえを見かけたって言うからさ…」
早口にそう言う少年とフィオリーナの目が合った。
「オンナ連れかよ!」
「失礼なことは言うなといつも言っていたはずだ」
ネーヴェはフィオリーナを庇うように立ってあきれたように言う。
「相変わらずだな。礼儀は身につけろとキトラドに言われているはずだぞ」
「ラド先生は関係ねーだろ!」
少年はそう口を尖らせて、
「……でも邪魔して悪かったよ。せっかくの精霊祭にさ」
うつむく少年にネーヴェは苦笑する。
「いいや。会えて良かったよ。大きくなったな」
ネーヴェの言葉に少年はパッと顔を上げた。
「オレ、来年は細工工房の親方に弟子入りするんだ!」
「そうか。頑張れよ」
そう笑うネーヴェに、少年は「そうだ」と続ける。
「アンタも元気なら顔出せよ。あの銀貨入りの袋がなきゃ気付けなかったぜ」
「私からの贈り物じゃないだろう?」
ネーヴェに言われて、少年はフィオリーナに顔を向ける。
「あの……ありがとうございました」
きっと彼は精霊の子供のまとめ役なのだろう。彼に銀貨が渡るのなら悪いことにはならないはずだ。
「温かいものを食べて、元気で過ごしてね」
微笑むフィオリーナを見て、少年はぎょっとしたようにネーヴェのうしろに隠れてしまう。
「なんだこの人! おまえのオンナじゃないのかよ!」
「憧れるのはかまわないが、惚れるのはダメだ」
ネーヴェは顔を真っ赤にする少年を見下ろして意地悪く笑う。
「この人は私の大切な人だから」
今度はフィオリーナが顔を真っ赤にすると、少年は「わかったよ!」と怒鳴る。
「じゃあ、礼は言ったからな。また来いよ!」
怒涛のようにまくしたてて、少年は少し暗い細道を戻っていった。
「……先生なのですか?」
呆気に取られて少しずれたことをフィオリーナは問うが、ネーヴェは肩をすくめた。
「少しのあいだ手伝っていただけですよ」
停留所に向けて歩き出したネーヴェにフィオリーナもついて歩き出す。
「軍人時代の部下が孤児院を開きたいと言い出したので、用地を融通したり資金を集めたりするのを手伝っていたんです。彼はそのころから居た子供で」
ネーヴェが妙に子供の扱いに慣れているのはこういう経験からだったのだろう。
「驚かせてしまいましたね」
色々と、と苦笑するネーヴェを見上げて、フィオリーナは自分のまなじりが下がるのを感じた。
「……実は、屋台でお腹いっぱい食べて罪悪感があったんです」
フィオリーナではあの銀貨がどうなるのか想像もできなかったからだ。
「子供たちに恨まれていると?」
ネーヴェの率直な言葉がすとんと当てはまった気がして、フィオリーナは「はい」とうなずく。
「うらやましくは思うでしょうが」とネーヴェは街並みを見ながら続ける。
「大人になって稼ぐことができれば、あれが食べられるのだと思うだけですよ」
「……そう思っていたのですか?」
見上げるフィオリーナにネーヴェは笑って、
「もちろん。今日は夢が叶いました」
満足そうなネーヴェが子供たちの将来ならこれ以上喜ばしいことはない。
「ですから、今日の支払いは私に持たせてくださいね」
フィオリーナが帰宅したら相談しようと思っていたことに先手を打って、ネーヴェはにやりと笑う。
「たまには花を持たせてください」
楽しげなネーヴェにつられて、フィオリーナもようやく心から微笑むことができた。
(こんなに素敵な人が、大切な人で良かった)
生まれも育ちも違う。境遇も立場も違う。けれど、たしかに心が触れ合える。
ネーヴェがフィオリーナを大切だと言ってくれるように、フィオリーナもネーヴェが大切なのだ。




