銀貨が言うには
大きかったはずの馬車の音が霞むほどの喧噪が入りこんできた。
ざわざわと波音のような雑踏が道を通り過ぎる。馬車や人が道を横切り、大通りは馬車がいくつも並んでなかなか進まない。うしろの馬車の馬のいななきまで聞こえて、怒った声も笑い声もいっしょくたになって溢れていた。
建物はどれもアパルトマンのように四階か三階建て以上で、煤けていてまめに手入れをされているようには見えなかった。大通りの脇にぎっしりと並んだ商店はどこも忙しそうで、立ち寄る人もコインを投げ入れるようにして商品を買っては去っていく。
貴族が目立つわけがよく分かった。
こんなに雑多で、活気にあふれた場所でいちいちマナーを守っていられないだろう。
馬車がいくつかの区画で人を降ろして馬車の中が静かになってきた頃、ネーヴェは降り口を指した。降りるというのだろう。フィオリーナがうなずくと、ネーヴェは手を引いて降り口へと向かう。
馬車が停まったのは、大通りから少し外れた公園の前だった。
フィオリーナを連れて降りると、ネーヴェは苦笑した。
「びっくりしたでしょう」
ネーヴェの苦笑にフィオリーナも笑う。
「はい。……わたくしが目立つと仰ったのがよく分かりました」
フィオリーナは辺りを見回しながら、ネーヴェに質問を続ける。
「今日はとくべつ人が多いのですか?」
「そうですね」とネーヴェはフィオリーナを連れ立って公園を歩き出す。公園は広く芝生が整備されていて、幾人もの人が寛いでいるのが遠くに見えた。
「精霊祭の前で人は多いでしょうね。この季節に地方から物を売りに来たり、買いに来たり、往来が増えますから」
秋の終わり、この国はもっとも人々が忙しくなる。王都はそれが特に顕著だという。
「ああ、そうだ。今のうちに渡しておきますね」
そう言ってネーヴェ小さな袋をフィオリーナに渡した。
「開けてもいいですか?」
「どうぞ」
ネーヴェの許しを得て開けてみると、三枚ほどの銀貨が入っていた。
「あのこれは……?」
「何もなければいいのですが、もしも私とはぐれたときはアクアと馬車に乗ってください。銀貨一枚で馬車に乗れます」
それではあと一枚は余分になってしまう。
フィオリーナがネーヴェを見上げると、ネーヴェは笑った。
「お小遣いですよ。好きなものを買ってください。食べたいもの、欲しいものがあるといけないでしょう?」
「お小遣い……」
フィオリーナは生まれてこのかたコインを持ったことがなかった。いつでも隣に控えている使用人がすべて支払うからだ。ランベルディでの買い物でも必要なお金はすべてアクアに預けている。
「でも、失くしても慌てないでくださいね。精霊の子供にあげたと思ってください」
ネーヴェは「秘密ですよ」とひとさし指で自分の唇を指す。
「この時期は精霊の子供が冬の前に一生懸命稼いでいるんです。今日だけ許してあげてください」
ネーヴェの言う精霊の子供というものをフィオリーナは見たことがなかったが、おずおずとうなずく。フィオリーナがうなずいたのを見てから、ネーヴェは「こっちですよ」と公園の小道を突っ切った。
ネーヴェについて歩いていくと公園は終わり、通りに出た。通りにはいくつかの商店があったが、どこものんびりとしていてさっきまでの喧噪は遠い。
服や宝石を売る店は無く、どれも食品を売っている店のようだった。パン、野菜、肉、クッキーばかりを集めた店。
どの店も貴族の区画にはない簡素なものだったが、丁寧に作られたそれらはつやつやとして見えた。
「何か気になる店でもありますか?」
気になるというのならすべて気になるが、フィオリーナではどうすればいいのかすら見当もつかない。
迷っていると、ネーヴェは「じゃあ、広場に行きましょうか」と誘った。
「今なら精霊祭の屋台が出ているんですよ」
屋台では精霊祭に合わせて地方から運ばれた物も商品として売っているという。
「行ってみたいです」
フィオリーナの即答にネーヴェは笑って、
「では、エスコートいたしますね」
すくうようにしてフィオリーナの手をとった。
手袋の手は温かく、フィオリーナは自分の手が思っていたより冷えていたことを知った。
緊張していたのだろう。けれど、ネーヴェについて歩く足は軽かった。




