袖が言うには
翌日からは舞踏会の準備に取り掛かることになって、さっそくベロニカがお針子を連れてドレスと共にザカリーニ家にやってきた。
父はアレナスフィル侯爵の訪問に緊張を隠せないようだったが、母は王都で評判のベロニカのドレスを見られると知って始終楽しそうだった。
ネーヴェは王都の郊外にある魔術師の塔へと顔を出してくると言って出かけてしまった。
「アタクシもそうだけど、ネーヴェは軍人時代の礼装での参加だから準備なんて虫干しぐらいでいいんじゃないかしら」
太ったようにも見えないしね、とベロニカは苦笑した。たしかにネーヴェは体型の心配とは無縁の人だ。
そういうベロニカも体型維持とは無縁だと思われたが、毎日鍛錬は欠かさないのだと貴婦人の顔で上品に微笑んだ。
今日のベロニカも明るい緑のストライプが美しい、ジャケットとスカートがセットのドレス姿だ。相変わらず完璧な貴婦人の装いで、繊細なレースの手袋に包まれた分厚い手を頬に上品に当てた。
「それよりネーヴェが大人しくフィオリーナ嬢の別宅に泊まっていることのほうが驚きだわ」
「……わたくしが無理を言ってしまったのです」
苦笑するフィオリーナをベロニカは「ふぅん」と眺めて、
「まぁいいわ。あの朴念仁が見惚れてしまうほど素敵な装いにしてあげるから覚悟なさい」
ベロニカは「いいこと?」と貴婦人の顔に獰猛といっていいような笑みを浮かべる。
「ドレスは淑女の戦闘服なのよ」
▽
ベロニカの言葉通り、ドレスはベロニカの指示通りにすばらしい出来となった。
試着と靴選びや宝石選びなどでくたくたになってしまったが、付き合ってくれた母も満足そうに素敵だと言ってくれた。
準備は三日の準備期間をいっぱいまで使ったが、フィオリーナもこれ以上ない出来だと思える力作だ。
これをまとってネーヴェの前に立つと思うと、背筋が伸びるのを感じた。
いつだってネーヴェに見せるフィオリーナの姿はいちばん美しいものであって欲しいからだ。
準備期間のあいだ、ネーヴェとは朝食と夕食で顔を合わせるぐらいでほとんど話せなかった。
ネーヴェのほうは舞踏会の準備というよりも、しばらく王都へ来ていなかったために知人に会ったり細々とした所用を片付けているようだった。
フィオリーナの準備がやっと終わった三日目、夕食のあとでようやくネーヴェをシガールームの近くで呼び止めることができた。今夜もきちんとジャケットを羽織っていた。
ネーヴェは夜も兄や父たちと書類を突き合わせているのを知っている。
きっとオルミ領の訴訟について話し合っているのだ。
邪魔はしたくなかったが、少しだけでも声を聞きたかった。
「あの…」
フィオリーナが何か話そうと口を開くと、ネーヴェは少し考えるような顔をしてから、
「何か羽織るものを持ってこられますか?」
「え?」
「少しだけ、庭へ出ませんか」
苦笑するネーヴェに「すぐに参ります」とフィオリーナは自分の部屋へ急いだ。
屋敷の西側は本宅にも通じる庭が広がっている。
フィオリーナが急いでショールを持って戻ると、ネーヴェは丸く膨らんだ月を窓から覗いて庭へと続くドアの前で煙草をくゆらせていた。
「ネーヴェさん」
フィオリーナの呼びかけにゆっくりと振り返ると、煙草を灰皿に放り込む。
「行きましょうか」
フィオリーナがショールを身に着けていることを確認するように、ネーヴェはドアを開いた。
毎日庭師が手入れしている木々や草花はいろどりもなく静かで、冬に備えて肥料などを与えられているだけなのか枝葉だけで秋の終わりを眠って過ごしているようだ。
春を待つ草木が休眠しているなど今までは考えたこともなかった。
きっとオルミで農作業を手伝っていたおかげだろう。
冬の前の庭は寂しいだけだと思っていたのに、月の下でネーヴェと歩いているとまったく違って見えることが不思議だった。
「久しぶりに話す気がしますね」
ネーヴェの言葉にフィオリーナも「はい」とうなずいた。
オルミに居たときはこれほど話さないときなど無かった。毎日食堂や応接間で何かしら話していたことが今は懐かしく感じるほどだ。
「疲れているでしょう。連れ出してすみません」
ネーヴェに言われるまで疲れていたことなどフィオリーナはすっかり忘れていた。
「ネーヴェさんもここ数日お忙しかったのでは?」
フィオリーナの問いにネーヴェは「そうですね」とうなずく。
「王都にいるあいだに雑用と知人への挨拶をしておこうと思って」
軍人時代、ネーヴェは部隊を率いていたのだ。知人は多いだろう。
「明日、第九区画に行こうと思いますが行けそうですか?」
「はい。……実は楽しみにしていて」
フィオリーナは第九区画にはあまり行ったことがない。貴族が通う商業施設は第八区画までにあるからだ。
「第九区画は新興貴族のために平民の区画を削られて出来た区画ですからね。あまり馴染みはないでしょう。明日はアクアの言うことをきちんと聞いてください」
そういえばアクアもここ数日見かけていない。
それをネーヴェに問うと、
「私の用事を申し付けていましてね。夜はこの庭のどこかで眠っていると思いますよ」
妖精は人の街ではあまり回復できない。だからわずかでも自然のある場所で眠りたがるのだという。
「あの、この庭にも妖精はいますか?」
庭に人がいないことは知っているが声をひそめて尋ねると、ネーヴェは小さくうなずいた。
「少ないですが、庭の奥にいますよ」
それはぜひ見てみたい。けれどフィオリーナの期待を先読みしたのか、ネーヴェは「ダメですよ」と釘を刺す。
「こちらから相手が見えるということは、向こうからもこちらが見えるということなんです。普段は見えない相手に見られていると思うと怖いでしょう?」
それは少し怖いかもしれない。恐縮したフィオリーナにネーヴェは苦笑した。
「人の場所だというのに妖精がいるということは、それだけこの庭が居心地が良いんでしょう。王城の庭にはひとりもいませんよ」
あれだけ広い王城の庭に妖精がいないのか。それが異常なのか正常なのかは、フィオリーナでは分からなかった。
ネーヴェは整えられた庭を見渡す。
「この庭は長年丁寧に、大切に整えられてきたんでしょう。大事に守られてきた場所は居心地が良いんです」
「それは……ネーヴェさんもそう思いますか?」
フィオリーナが問うと、月光に葡萄色の髪が揺れた。
菫色の瞳が柔らかい光を宿して細くなる。
「あまり男を誑かすものではありませんよ」
うっすらと唇が弧を描いて、ゆるやかに微笑んだ。
誑かすというのなら、それはこの人のほうだろう。
フィオリーナに触れもしないで誘惑し続ける。
ネーヴェに触れずに済んでいるのは、フィオリーナにその勇気がないだけだ。
ふ、とネーヴェが煙草のけむりを吐くように息をつく。
観念するような吐息の先で小さく呟く。
「──あなたのそばに居て、居心地が悪かったことなどありませんから」
戻りましょうか、と歩き出す背中を追って、フィオリーナは指先を伸ばした。
ネーヴェのジャケットの袖に指がかかる。
そのフィオリーナの指先を、ためらうように長い指が優しく捕らえた。
そのままフィオリーナの手を引いてゆっくりと歩き出す。
ネーヴェの顔は見えない。
けれど、会話もなくただ歩いているだけで指先と心が温かくなる。
ネーヴェも黙ったまま、フィオリーナの部屋まで送り届けると繋いだままだった指先を離す。
「……おやすみなさい」
フィオリーナからそう言って、ようやくネーヴェの顔を見上げると菫色の瞳が穏やかに微笑む。
「おやすみ。……また明日」
フィオリーナの額に告げて、ネーヴェは廊下を戻っていく。
その背中を見送って、フィオリーナは思い知ってしまった。
フィオリーナはネーヴェの隣にいることが、泣きたくなるほど好きなのだ。




