別宅が言うには
王都は魔術の防壁と要塞を連ねたような城壁に囲まれた、グラスラウンド王国でもっとも堅牢な都市だ。
王城を中心に放射状にいくつもの区画に分かれていて、貴族の住まう区画と平民の暮らす区画が明確に分かれている。この貴族と平民の区画を行き来するには通行証が必要だ。
貴族の区画も身分や家柄によって細かく区切られていて、王への進言も許されている貴族は王城の周辺に土地を与えられて邸宅を構えている。
ザカリーニ家は本宅と別宅を構えていて、本宅には兄夫婦が住んでいる。シーズンに領地からやってくる父母は、今は別宅を主な住まいとしていた。
王都への入都許可の手続きを終えると、ザカリーニ家の馬車がフィオリーナたちを待ち構えていた。
ここまで旅をした馬車は本宅へ戻り、これからまた別宅行きの馬車に乗り換えるのだ。
「ザカリーニ家の邸宅は……たしか第二区画でしたね」
馬車が走り出してから街を眺めて言うネーヴェにフィオリーナはうなずく。
「はい。ザカリーニ家は歴史だけなら古い家柄なので、古くから土地をいただいていたと聞いています」
区画は王城の周縁から区切られているので、王城の外周となる第一区画は王家に連なる公爵家の土地だ。第二区画は五大侯爵家と古公爵家の縁戚の区分だ。身分だけならザカリーニ家は伯爵家なので本来ならもう少し離れた第三区画より向こうになるのだが、公爵家との縁があって近くの土地を戴いたのだという。
「では、アレナスフィル侯爵の邸宅とは近いですね」
ベロニカの本宅も第二区画になるらしい。アレナスフィルは侯爵家なので当然だ。
今まで交流はなかったが、今年からはネーヴェを通じてつながりが出来た。
「ネーヴェさんはどちらの土地をお持ちなのですか?」
割譲されたとはいえ、オルミはネーヴェの領地だ。領地を持つ貴族なら貴族区画の土地を新たに与えられていても不思議ではないと思ったのだ。フィオリーナの問いにネーヴェは苦笑して答えた。
「第九区画ですよ。領地の屋敷に置いておけない本などを置いています」
第九区画は貴族の区画の中でもいちばん新しい区画で、平民の区画とは真隣だ。昔は騎士の官舎などもあったらしいが、今では名誉貴族や一代貴族などの新興貴族の街になっている。新興貴族と呼ばれる名誉貴族や一代貴族は領地を持たない貴族のことで、国益に貢献した大商人や功績を挙げた騎士などが第九区画に住む権利を戴くという。第九区画でも土地を持てるのは領地を持つ貴族だけらしい。
「管理はオネストに頼んでいるのですが、彼も忙しいのでこの機会に様子を見に行きますよ」
オネストは宝石商として各地を飛び回っているのだ。こまめな屋敷の管理は難しいだろう。
けれど、ネーヴェの家は自身の家だけではない。実家であるカミルヴァルト家の邸宅が第二区画にあるはずだ。
(でもご実家との関係は良いとは言えないし……)
ネーヴェは長年離れて暮らしているカミルヴァルト侯爵を父とは呼んでいるが、その関係を他人であるフィオリーナが窺い知ることはできない。
尋ねて良いものか迷っていると苦笑が聞こえて、
「カミルヴァルト家のことなら気にしないでください。顔見知りの使用人もいないので、私が突然現れたら逆に追い出されてしまいますよ」
ネーヴェはなんでもないことのように言って笑う。
「父は舞踏会に招待されているでしょうから、遠くからでも姿を見かければ生きていたと分かるでしょうしね」
淡泊という言葉では括り切れないほどネーヴェはまるで他人事のように言う。
フィオリーナはデビュタント以来の舞踏会で緊張と共にどこか浮足立っていたが、ネーヴェにとって王都はあまり良い思い出がないのかもしれない。
フィオリーナはあまりにも自分のことばかりに気を取られていたのだ。
今更ながらそれを思い知って、ネーヴェの顔を見られなくなってしまう。
ここで舞踏会への参加をしなくていいとネーヴェに告げるのは簡単だ。きっと彼は怒らないし、フィオリーナを責めもしない。
それが分かってしまうほど悲しくなるのは、やはり自分勝手だと思えた。
「フィオリーナ」
声につられて顔を上げると、思った通りフィオリーナの心などお見通しの顔で菫色の瞳が苦笑していた。
「すみません。やはり私の事情を話し過ぎましたね」
あなたは気にしないで、と言われるほどフィオリーナが苦しくなることをネーヴェは分かっているのだろうか。
この切なさを知って欲しいとも思うし、絶対に知られたくないとも思うもどかしい気持ちを。
目を伏せたフィオリーナを気遣うように「そういえば」とネーヴェは穏やかに続けた。
「舞踏会へ行く準備の前の日は、予備日として空けていましたよね?」
ネーヴェに確認されてフィオリーナはうなずく。休養日として空けているのだ。
「その日に第九区画の私の屋敷の様子を見に行こうと思うのですが、行ってみますか?」
これ以上迷惑はかけたくない。だが、ネーヴェと過ごせる時間はもうあまりない。
(ごめんなさい)
謝りたくなるほど、フィオリーナは自分の気持ちを止めるすべがなかった。
だから何も知らない、考えないふりをして微笑むのだ。
「……ついて行っても良いですか」
「ええ。もちろん」
ぎこちない笑顔にネーヴェは気付いているだろう。
けれどやはりフィオリーナに問い返すような真似はしなかった。
▽
久しぶりにやってきたザカリーニ家の別宅は他の邸宅と比べてそれほど大きくもないと思っていたが、こぢんまりとしたオルミの屋敷に慣れてしまうと大きく感じた。
出迎えに出てきてくれたメイドや従者に荷物を預けていると「フィオ」と声がかかった。
「お母さま」
数か月ぶりの母が満面の笑みでやってきて、フィオリーナを抱きしめてくれる。
「久しぶりね、元気そうでよかった」
「はい。お母様も」
ひとしきり抱きしめ合ったあと、母はネーヴェに向き合った。
「ようこそ、オルミ卿。王都ではご自分の家だと思って寛いでいらして」
「お招きいただきありがとうございます。ザカリーニ夫人」
ネーヴェが母に挨拶していると、エントランスに久しぶりに見る父のベルアンもやってきた。
「ようこそ。歓迎するよ、オルミ卿」
「お招きいただきありがとうございます。ザカリーニ伯のお心遣いに感謝いたします」
ネーヴェは胸に左手を当て、右手を後ろ手にして頭を下げる。略式だが目上の者への挨拶だ。相変わらず教本通りの挨拶に、父も鷹揚にうなずいた。
久しぶりに会う父は、以前よりも顔色が良くなったようだ。
父はフィオリーナに目を向けると、焦げ茶の目を細めて微笑んだ。
「アーラントから聞いていたが……見違えたよ、フィオリーナ。元気になったようで安心した」
心から安堵するような言葉が心に染みていくようだった。
両親に心配をかけていると分かっていたが、ザカリーニに居た頃はどんな慰めも受け取ることができなかった。
だから今、父の安堵や嬉しそうな母の様子を素直に喜ぶことができることが嬉しかった。
心から嬉しいと思えることが幸せで、自然と顔が綻んで笑顔になる。
「……ご心配をおかけいたしました。お父様、お母様」
助けられてここに居る。フィオリーナはたしかに自分の足でようやく立てたように思えた。
フィオリーナを支えてくれた人が大勢いる。
その中でいちばんに手をとって引いてくれた人を振り返る。
その人はエントランスの淡い光に葡萄色の髪を透かして、菫色の瞳が眼鏡の奥で微笑んだ。
夕方には兄夫婦も別宅にやってきて、晩餐は家族団らんで過ごすことになった。
家族の食卓に入ることをネーヴェは遠慮したけれど、父が勧めて晩餐の席につくことになった。
ネーヴェは一応持ってきたという濃紺の三つ揃いに着替えてきた。髪はとりあえず結い直したらしいが、眼鏡はかけたままだ。
「さすがにジャケットも着ずに参加できませんから」
そう苦笑して、晩餐用に着替えたフィオリーナを見下ろす。
「普段のあなたはこういう感じなんですね」
晩餐の衣装は別宅で用意されていた、フィオリーナが元々持っていたドレスだ。白と淡いピンクのレースが混じったドレスで、仕立てたのは二年前になる。今のフィオリーナが着ると少し幼く見えるデザインだったかもしれない。
そう心配になって自分のドレスを見返すフィオリーナにネーヴェは苦笑した。
「いつもは侯爵の趣味だったので見慣れないだけですよ──可愛らしくてお似合いです」
まるで幼い少女に言い聞かせるような口調だ。
「……ネーヴェさんは悪女のわたくしがお好きでしたものね」
子ども扱いが少し悔しくて口をとがらせると、ネーヴェは「ええ」と目を細めた。
「いつも悪女に振り回されていますから。たまには私に可愛いと言わせてください」
ネーヴェはときどき歯の浮くようなことを平然と言うから、本当にずるい人なのだ。
悔しさも交じって真っ赤になったフィオリーナは、迎えにやってきた母に訳知り顔に笑われてますます頬を膨らませた。




