うわさが言うには
設定も話もふわふわです。
花が枯れてしまった。
庭いじりは貴族らしくないのだと言われても、フィオリーナはこの趣味を愛している。
だから、手ずから育てていた花の盛りを見られずに枯れてしまったことを申し訳なく思って、フィオリーナは丁寧に枯れた花を摘み取った。近頃は婚約の準備で忙しく、庭を隅々まで見回ることができなかったのだ。
貴族の娘の花盛りは十五歳から十八歳。十九歳になると嫁ぎ遅れで、二十歳を過ぎるとオールドミスと呼ばれる。
フィオリーナは明日、十九歳になる。花の盛りを過ぎようとしていた。
「お嬢様」
庭の端からフィオリーナを呼んだのは、いつも父のそばで仕事をしているはずの執事だ。
「旦那様がお呼びです」
常なら昼日中に娘のフィオリーナが呼び出されることはないが、今日に限っては心当たりがあった。
「ただいま参ります」
フィオリーナは摘み取ったばかりの枯れた花をそっと庭の脇に埋めた。
「婚約は破談になった」
書斎にフィオリーナがやって来るなり、父はそう切り出した。
「リドウィン家から正式な申し入れがあったよ」
フィオリーナの顔をようやく見た父だったが、すぐに額に組んだ手をいただくようにして項垂れる。
「すまない……」
「お父様……」
「私の力が及ばないばかりに…本当にすまない」
方々手を尽くしてくれたのであろう父の姿がひどく憔悴して見えて、フィオリーナは言葉をなくした。
この優しい父をこれほど苦しめる結果になってしまったのは、ひとえに自分のせいなのだ。
「おまえの幸せをと願っていたが、こんな仕打ちに遭わせてしまうとは…」
ザカリーニ家は代々の領地を持つ伯爵家だ。父は貴族院の議員をつとめている。
兄は宮廷で文官を奉じ、姉はすでに他家へ嫁いでいる。母は父と共にときどき社交へ顔を出すものの、一年のほとんどを領地でレースを編んで過ごしている。
この終始穏やかなザカリーニ家に嵐が訪れたのは半年前のこと。
末娘のフィオリーナにようやく婚約者が決まったころのことだ。
婚約者のシリウスはリドウィン伯爵家の次男坊だ。自身は宮廷で花形の近衛騎士をつとめている。彼の華やかな経歴と女性に人気だという整った甘い容姿にフィオリーナはひるんだものの、実家の家格が同じということと、兄のように宮廷で働いていることが婿の条件に良いとお見合いで婚約が決まった。
次男坊は家を継ぐことはできないし、ザカリーニの家も兄が継ぐ。でも、もしも騎士を辞しても男手の足りないザカリーニの領地で経営を手伝ってくれと兄もこのお見合いを了承してくれた。両家の親族ともに認める良い縁談だと話が進み、結婚も来年かというところで問題が起こった。
フィオリーナにあらぬ噂が広がったのだ。
ザカリーニの末娘はとんでもない悪女で、領地では散々男をたらしこみ、正体を隠して社交に出ては既婚者とも火遊びに興じている。女に恨まれれば、あやしい魔術で呪ってやると吐き捨てる。
とんでもない悪評だ。
フィオリーナは生来人の多い場所が得意ではないので、シーズンでもあまり社交の場へは行かない。見知った人が参加するお茶会に顔を出すぐらいだ。男性と関係を持つどころか、話すこともない。
フィオリーナのくすんだ茶色の髪とそれを燻したような焦げ茶の瞳がとくべつ人の目を惹くとも思えなかった。
くだんの悪評を知った経緯も最悪だった。噂を真に受けた悪い男に部屋に連れ込まれそうになったのだ。
そのときは近くに居た人が助けてくれたので事なきを得たが、その日からフィオリーナの周囲は一変した。
夜会に出れば陰口が向けられ、お茶会には参加すらできなくなったのだ。
婚約者のシリウスはフィオリーナを連れ立って夜会に出ることもなくなり、次第に彼女から離れていった。
残ってくれた友人もいたが、どの人もフィオリーナの不幸をお茶のおやつに噂好きと情報交換をしていると知ったので、フィオリーナの方から離れた。
そもそもの噂を兄が調べてくれ、ようやくフィオリーナがこの悪評を知るところとなったが、そのときは既に何もかもが遅かった。
噂が本当ではないと知っているはずの相手方のリドウィン家も、これほど広まった悪評を回収することも収束させることもできないと、シリウスとの婚約を考えさせてほしいと申し入れてきたのだ。
両親と兄がリドウィン家と何度も話し合いを重ねたが、噂がいつまでも消えない以上うまくは進まない。
家族にまで何かあってはいけないとフィオリーナもシリウスに何とか悪評を消すことはできないかと相談したが、彼も困った顔をするだけだった。
「一度広がった噂を打ち消すのは容易なことじゃない。体面が重要とされる、特に宮廷や社交界では噂も重要視されるんだ」
だから、フィオリーナの噂は致命的な汚点となってしまった。
近衛騎士をつとめるシリウスの言は、宮廷を知らないフィオリーナには重すぎる言葉だった。
シリウスは常に誠実に接してくれたが、フィオリーナの噂のせいできっと肩身の狭い思いをしているはずだ。
自分と関わるすべての人に迷惑と負担をかけているのだと思うと、もうこれ以上シリウスを頼むこともできないと思った。
婚約が破談したと聞いて少しだけ肩の荷が下りたのも確かだ。
けれど、何ヶ月にも及んで家族や親類に心労をかけたのだ。
書斎机でうなだれる父に向かってフィオリーナに絞り出せたのはわずかな言葉だけだった。
「……申し訳ありませんでした。お父様」
フィオリーナは末娘ということもあって、甘やかされてきた自覚はあるし、少しぼんやりしていると言われることもある。
けれど、いくら努めて善良に暮らしていても、誰かの悪意を買ってしまうことも、ささいなことで悪意を向けられることもある。
「今回はそれに当たってしまったのね。誰かを恨んでも仕方のないことだわ」
母はそう話しながら、フィオリーナにお茶を勧めた。
父の書斎からの帰り際、今度は母に呼ばれたのだ。
母も父と同じく方々を説得して回ってくれていたのに、そんな素振りも見せなかった。
「……申し訳ありませんでした。お母様」
謝るフィオリーナにも母はおっとりと微笑むだけだった。
「みんなのことを心配してくれたのね、フィオ」
フィオとは子供の頃によく呼ばれた愛称だ。懐かしくて少し心が温かくなる。
「お兄さまもお姉さまも、お父さまやわたくしだって大丈夫よ。あなたよりも長く生きているんですもの」
こんなこともあるわよ、と言う母の声が優しく強かった。
こんな風に自分も強くなれるのだろうか。
誰かに甘えてばかりの自分が。
うつむいて自分の手ばかりしか見られなくて、心配そうな母の顔をフィオリーナはついにまともに見られなかった。