番外編 リンゴ丸呑み事件
赤ん坊──それは神秘。それは未知。それは意外性。
彼らの義務と権利──それは健やかに成長すること。すなわち、よく食べ、よく寝て、よく遊ぶ。そうして世界の一員に成っていくのだから。
名もなき赤子は、いずれ竜達の長、世界を見守り導く運命を宿してこの世に生を受けた。
しかし卵から出てきたばかりの彼にとっては、世界どころか自身すらも未だ知らぬ存在。
真白き無垢は可能性の権化であり、別の表現をすると――とんでもないアホをやらかすフラグに満ちている。
何もかも初めて尽くしの彼だが、生物の本能に漏れず、自分が栄養を摂取して育つことは理解していた。
大人達が次々に持ってくる魔石を、誰に教えられずともせっせせっせと食す。腹が満ちればよく眠り、目を覚ませば腹が減るまで目につくものにじゃれかかって過ごす。
……それだけ続けていれば、特に問題はなかったのだが。
閉ざされた竜の谷で育つ赤子に、大人達はあらゆるものを持ってきて接触させる。
そうして安全な場所で徐々に知識と経験を蓄えていくのが、竜の育ち方なのである。
さてある時、赤子の前に赤くて丸い物体が持ち込まれた。
香りもよく、かじりついてみれば甘い。早速赤子はこの果物、リンゴに夢中になった。
ところが彼はふと視線を上げた折、年上の若い竜――と言っても竜世界での相対比較話なので実年齢は普通に数百才である――が、その赤い果物を、かぱっと大口を開けて丸呑みにしている光景を目にした。
大人の竜からすればリンゴなど人間にとっての飴玉程度の感覚なのだろう。
とはいえ飴とて飲み込むのにそれなりの大きさ硬さであるし、何よりも味やら香りやらを楽しむものであるからして、普通は口の中に転がしてから飲み込むのだが、その大人の竜はとかく丸呑みをしたい気分だったらしく、次から次へと赤子の前で果物を吸い込んでいった。
さてそれをまん丸の目で見守った赤ん坊は何を思ったのか。
そうか、あれは囓るのではなく飲み込むものだったのか!
未知で無知な彼は、自分の身体の大きさと果物の大きさの相対比較までは考えが及ばない。
その上何しろ奇跡の頂点に存在するとも称される生き物竜であるからして――常識で考えれば不可能な飲み込む所までは、なんとできてしまった。
だが問題は、吸引力の弱さであった。大人の竜が備える理不尽なバキューム力が、彼にはまだなかった。
――そうして中途半端に喉に果物を引っかけた彼は大泣きを始めたが、ちょっと目を離した隙に大惨事を起こされた親竜はその様子をなんとものんびりした目で見つめている。
(なんと情けない……これが未来の我が夫か)
(そなたも子竜の頃は、毒虫だの棘だの怪しげなものばかり飲み込んでは喉に引っかけて泣いておったがな)
(記憶にない)
半眼で子竜を見ていた若竜が荒く鼻息を吐き出せば、巨竜はのんびりと思い出を語る。すると若い竜は更に不機嫌そうな顔になった。
喉奥で笑い声を鳴らし、巨竜は落ち着いた様子で続ける。
(さて、ま、放っておけばどうにかなろうし、我が治してやってもよいのだが……これは導きというものなのだろうな)
(というと?)
(ちょうど良い機会、客人殿とご縁をいただけとの思し召しだろう)
天の意思をこの世の何よりも深く理解しているとされる巨竜の口調は物知りげだが、若竜にはピンときていないらしい。
(つまり、あの手に触れさせるために、今これはリンゴを喉に引っかけたと?)
(あるいはそうとも言える)
(天の考えはいつもわからぬ。グリンダにはただバカがバカなだけに見える)
(何、いずれはそなたもこれという感覚を得るだろうよ。それにバカは若者に与えられし力ぞよ? 年寄りの間違いは取り返しがきかぬゆえなあ)
若竜は胡乱な態度を隠しもしなかったが、最長寿な竜の言うことであれば否とは考えない。
もう一度ふんっ、と大きく鼻を鳴らした後、その大きな口にすぽっと泣きわめく赤ん坊をくわえこみ――そして彼女の元へと飛び立ったのであった。
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