彼女の家の壁にカルト宗教のポスターが貼られていた件
宗教に対して、あまり良いイメージを持っていなかった。
小さい頃、熱を出して学校を休んだ日、両親がいない中、家のチャイムが鳴り響いたことがあった。熱で浮かされる頭、ふらつく足で扉を開けると、そこにいたのは見たこともない笑顔を張り付けた老婆だった。
「こんにちは、坊や」
頭が痛いせいも相まってか、その老婆の浮かべる笑顔はどこか不気味に見えた。丁度その頃、凝り性の母に読み聞かせられていたシンデレラに登場する魔女の老婆に姿が重なって見えた。
「坊や、お母さんやお父さんは?」
「いない」
「そう。……じゃあ、家の中で待たせてもらえない?」
「いや」
不気味な老婆からの突然の申し出を断るのは、最早当然だった。
「悪い話じゃないの。坊や、〇〇教って知っている?」
「知らない」
「じゃあ、是非知った方がいい。だから、家に入れて?」
「いや」
「悪い話じゃないから。入れて。入れなさい」
熱で朦朧とする意識の中、中々引きさがろうとしない老婆がただ不気味だった。このまま、この老婆に食われるのではないか。
そんな恐怖が俺を襲った。
老婆の言葉に返事もせず、扉を思い切り閉めた。そして、鍵もかけた。
老婆は扉を数度叩き、それから扉越しに優しい声色で俺を諭すように言葉を紡いだ。
入れて。
開けて。
悪い話じゃないの。
そんな言葉を、ずっと続けていた。恐怖で足がすくんで、その場から立ち去ることが出来なかった。
耳を塞ぎ、老婆の言葉が止むことを待つことしか出来なかった。
どれくらいそうしていたのか、扉の向こうから母と老婆の口論が聞こえた頃、俺は熱により玄関先で倒れた。
そこからの記憶は酷く曖昧だった。
気付けば俺は、病院のベッドで数夜を過ごすことになって、それからしばらくはあの老婆に植え付けられたトラウマに怯える日々を送った。
突然、老婆が俺の目の前に現れて、毒リンゴでも無理やり食べさせるのではないか。
そんな恐怖におびえ続けたのだ。
幸い、それから老婆に会うことはなかったから、今ではそんなトラウマも克服することが出来たが……それでも、宗教に対する悪印象だけは明確に胸に刻まれたのだった。
高校生に上がると、好きな人が出来た。
昔から引っ込み思案な性格をしていた俺だったが、その人への好意はどうにも抑えることが出来ず、一念発起し伝え、両想いだと知り成就されたのは、実に今から一月前の話だった。
彼女のことが好きだった。
どれくらい好きかと言えば、それはもう形容しがたいくらいに。
それくらい好きだった。
彼女は少し流されやすい性格をしている人だった。
デートに行きたいと誘えば、わかったと二つ返事をくれる。
パスタを食べたいと言えば、それに応えてくれる。
ノートを見せてと言えば、しょうがないなと呆れて拝ませてくれる。
状況に流されやすく、それを本人も少しナイーブに感じているようだった。
だけど、そういうところも彼女のチャーミングな一面に俺には映っていた。
そういうところひっくるめて、俺は彼女が好きだった。
その日は、一日中雨のどんよりとした天気だった。
折角体育があり体を動かせる予定だったのに、それさえ潰れてしまい、行き場のなくなった悶々とした気持ちだけが俺の胸中で渦巻いていた。
「もうっ。たかだか体育が潰れたくらいで、そんなに落ち込んで」
呆れたように彼女が言った。
「本当、慎吾君は面倒臭い性格をしているね」
「そんなことない。世の高校生男子となれば、体育が出来るかどうかは死活問題だよ。それが潰えた今、落ち込み、荒むのは必然だ」
「はいはい。早く機嫌直して、帰ろうよ」
自分で言うのもなんだか俺は中々面倒臭い性格をしている人間だった。
そんな俺のことを煙たく思う人も少なくない。だけど彼女は、そんな俺に対して文句を言う気はあまりないようで、呆れこそするものの、どこか楽しそうに俺を慰めてくれた。
「体育くらい、今週末もあるでしょ。金曜日は晴れの予報だし。今はそれでいいじゃない」
「よくない。金曜日まであと三日もある。待てない」
「アハハ。慎吾君、子供みたい」
高校生は果たして子供ではないのだろうか?
そんな疑問を思い浮かべながら、なんだか馬鹿にされたみたいで眉をひそめた。
「あーあ、余計機嫌損なわれたー。これは収まらないー」
まあ、子供ならば子供でいいか。
ただ、少し彼女を困らせたくなった。
「えー。……どうすれば収まるのさ」
「君の家に行きたい」
「……え」
彼女の顔が、ほのかに紅くなった。
「駄目?」
「……駄目だよ。汚いし」
「そんなの気にしないよ。それに、この前今日はご両親がいなくて一人寂しいって言ってたじゃないか」
「……うん」
彼女は、状況に流されやすい。
ここまで言えば、彼女が俺の願いに応じないことはないとわかっていた。
彼女のナイーブな部分を利用するのは少しだけ良心が痛んだが、背に腹は代えられないと思った。
「……駄目、かな」
「……わかったわかった。もう。慎吾君は強引だなあ」
そういう彼女は、言葉とは裏腹に楽しそうに見えた。
俺は、なんとも言えない笑みを浮かべていた。
彼女の家は、学校を出て電車に乗って、そこから少し歩いたところにあった。
「ここだよ」
閑静な住宅街の一角。
そんな立派な土地に、彼女の家はあった。
目を疑った。
彼女の家の壁に、見覚えのあるポスターが貼られていた。
ただそのポスターは、好意的な理由から見覚えがあったわけではなかった。嫌いだった。そのポスターに映る人も、その男を教祖と崇めるその会の名前も。
いつか、悪夢を見せた老婆がいた。
俺の家に押しかけてきて、両親がいないと知れば家で待たせろと行ってきて、諦め悪く中々帰ろうとせず、俺にトラウマを植え付けたそんな老婆だ。
その老婆が勧めてきた宗教団体こそ、今彼女の家の壁に貼られたポスターの団体だったのだ。
嫌いだからこそ目に付くこともある。
目の仇にしたいからこそ、苛立ちを覚えて、脳裏から離れないこともある。
だから、このポスターのことは見るだけで嫌悪感がするし、そのポスターを貼るような人種も好きになれるはずがないと思っていた。
……まさか。
まさか、そんな。
嫌いになる人筆頭要素であるあのポスターを、心から好いた彼女が家に貼っているだなんて。
崖から突き落とされたような絶望感が俺を襲った。
好いた彼女が、人でなしだと思っていた連中の片割れだっただなんて。
そんなこと信じたくなかった。
彼女が振舞ってくれた夕飯は味がわからなかった。
当然だ。
ショッキングな記憶を思い出して、嫌いな団体に好いた彼女が所属していると知って、そんなものわかるはずがないじゃないか。
彼女に勧められて入った一番風呂は、どうしてかかなり興奮した。
当然だ。
そんなこと、当然じゃないか……。
「お待たせ」
「ちょっ」
一人、彼女の自室で彼女を待っていた。
彼女はバスタオル一枚という出で立ちで部屋まで来た。赤面する顔が、異様に熱かった。
「な、なんて恰好してきているんだ!」
「……嫌だった?」
照れた笑みを浮かべて、彼女は聞いてきた。
「いやまったくそんなことない(そりゃあ、ちょっと驚くじゃないか……)」
ん?
「そう。嬉しい」
「俺もだよ」
彼女のシングルベッドは、少し甘い香りがした。
それが、一緒に寝そべった彼女から漂う香りなのか。
はたまた彼女が日々寝る時に使用するこのベッドから漂っているのか。
もう俺には、それを区別するだけの余裕なんてありはしなかった。
ただわかったことは。
同じ齢の彼女の体は、俺と比べて随分と柔らかいな、ということだけだった。
朝、眠たい目を擦りながら、ベッドから体を起こした。
彼女は既に、部屋にいなかった。
昨晩脱ぎ捨てた彼女の父親の寝間着を着つつ、一階のリビングに行った。
彼女が手慣れた手つきで朝ごはんを準備していた。
「おはよう、慎吾君」
「……うん。おはよう」
なんだか幸福を感じていた。
どうしてこんなにもそんな気持ちが頭の中を占めているのかはわからない。だけど、ただ朝起きて、これから学校に行くだけなのに、どうしてこうもにやけそうになることを止めることが出来ないのだろう。
「……昨日は、優しくしてくれてありがとう」
「そ、そんなこと。滅相もございません」
頭を下げると、彼女がクスクスと笑っていた。
「ねえ、今日学校サボらない?」
「え?」
「是非、慎吾君と会わせたい人がいるの」
「……えっと」
ふと、思い出していた。
そういえば彼女、俺が忌み嫌った宗教団体に加入していたんだったな。もしやこれは、勧誘なのかもしれない。
あの時恐怖を覚えた、勧誘なのかもしれない。
さて、どう断ったものか。
「今日も、お母さんもお父さんもいないんだけどさ。……その人と会った後は、今晩も家に泊まらない?」
「学校なんてサボってしまおう」
そうして俺は、かつて忌み嫌った宗教団体への加入を決意した。
まあ正直、加入した今もこの宗教団体が崇める教祖のことも神のことも信じてはいない。
だって、神なんてもの必要としなくても、俺は彼女と一緒にいるだけで幸せなのだから。
結局人は、性欲には勝てない。
つまり、そういうことなのだろう。
もっと美談っぽく書きたかった。