最終話
完結設定し忘れてたので再投稿です。
『ただいま、姉さん!と…誰?』
『ダヴィド。久しぶり、大きくなったわね』
ティーハの話が終わった時、高校生ぐらいの子供が入ってきた。ガイドさんの弟らしかった。
「どうも…ああ、えっと私は日本から来た記者で、そこのティーハの取材を」
「日本?、じゃあゲームの事とかいろいろ聞かせてよ」
日本から来たと知ってすぐにゲームの話を求め始めたダヴィド少年に困惑しながらも、そこそこゲームはたしなんでいたので、直ぐに仲良くなる事ができた。それどころか、最後は私の方がダヴィド君にゲームの素晴らしさを説いていた。
そして私はティーハの取材を終えると、新京へと引き返した。ダヴィド少年が別れるときに、僕もいつか日本に行ってティーハの出るゲームを作る、と言っていたのが今でも私の印象に残っている。
そのあと私は新京のホテルに戻って編集長に取材内容の変更を告げた。意外と編集長は直ぐに了承してくれた。こうして私はティーハを特集した記事を書く事になり、その記事は再来月にも掲載される…筈だった。
「起きてください、記者さん、早く」
「うん?ガイドさん…?」
「何寝ぼけてるんですか、ボクですよ」
「なんだ。オタかぁ、悪いけど自慢話は今はパス。きのう遅くまで原稿書いてて寝てなくて…」
「いや、だから、外、窓の、早く見て」
「はぁ?そとぉ?」
例の航空機オタクに起こされてから、窓の外を見た私は絶句した。
T-62やBTR-50が走り回っていたからだ。この国の兵器は数が少なく、ほとんどが大戦期か冷戦初期の旧式品だ。そんな中で比較的新しいT-62を装備しているのは…
「人民軍の首都警備師団か…?」
マンチュリア人民軍の精鋭中の精鋭にして、先日、私が取材を申し込もうとして急きょ断られた部隊だった。
数時間後、テレビ放送で、マンチュリア人民軍のクーデターの発生が告げられ、それから暫くしたのちには立法院クネセト議事堂や大統領宮殿の制圧が告げられた。
マンチュリア救国臨時委員会代表を名乗った、クーデター首謀者はマンチュリア社会主義共和国の民主化を発表した。そこから先はもう大混乱だった。
まず、航空機が飛ばなくなった。旧政権関係者の逃亡を防止するためという理由で空港が閉鎖されたからだった。
日本政府は臨時の航空便派遣してくれる、と新京の日本総領事館は言ったが、2日後には航空会社の労働組合が反対した為、駄目になったと絶望的な知らせをくれた。
仕方なしに私たちは鉄道でウラジオストクまで行き、そこから日本政府の派遣したチャーター船での帰国となった。ロシアとの国境を通過する時に、恐らく国境警備のために出動していたと思われるティーハを見かけて、国境超えるとすぐにその姿を写真に収めた。
一枚目の時には、感情の無い顔だった戦車兵も、二枚目の時にはかすかに笑ったように私には思えた。
その笑みが、マンチュリアの新たな未来を示しているようだとそう、その時は感じた。
日本に帰国してからも私とマンチュリアの縁は切れなかった。
ダヴィド君との間で私は手紙のやり取りを続けていたからだった。
私は、彼との間に確かな友情を感じていた。しかし、日本とマンチュリアの距離はそれに反比例するかのように開いていった。
民主化後のマンチュリアでは、どこの国でもあるように政界の混乱が続いていた。それだけならよくある事だったのだが、マンチュリアではその結果として、シオンの丘戦線という過激派団体が政権を獲得する。
もし日本がミッドウェー海戦で負けていたら、より防衛的な方針を取り、連合国に出血を強いる事で講和ができたのではないか、その結果として、ユダヤ人はパレスチナに入植し、中東では平和的な理想国家が生まれていたかもしれない。と言うある歴史家の意見がある。
だが、現実にはユダヤ人は極東のマンチュリアの地に押し込められていた。シオンの丘戦線は中東、パレスチナへの帰還を訴えた。中東諸国との外交の場で衝突を繰り返し、遂にはテロまで行われた。当然、中東諸国からの反発は大きく、オイルマネーに膝を屈したアメリカによってマンチュリアがテロ支援国家として認定されると、クルド共和国やヌミディア共和国などと共に諸民族の自由のための共同体を結成してこれに反発した。
クルド人によってイラン帝国北部に建国され、周辺各国から国家として承認されていないクルド共和国や、第二次世界大戦後にフランスが植民地維持に固執した結果としてアルジェリア北部に生まれるも、肝心のフランスから見捨てられたヌミディア共和国に加え、ソマリア崩壊後に生まれたソマリランドなども加わったこの共同体だったが、世界的に特に何か大きな影響を及ぼすわけでも無く、ただ孤立を深めただけだった。結果として、マンチュリアは民主化以前よりもロシアなどとの関係を深化し、新型兵器を導入、役割を失ったティーハは次々とスクラップにされていった。現存しているものは一両も無いという。
日本ではいつしかマンチュリアは危険な国という印象で語られる事が多くなった。
私にとって、初めて訪れた外国だったマンチュリアが遠い存在になりつつある事にショックを受けつつも、私はガイドさんとダヴィド君とのやり取りは続けていた。
初めて会った日から20年余りが経過した去年、私はダヴィド君が日本に来ると聞いて会いに行った。成長した彼はゲーム会社の社長となっていた。私は20年以上前になった初めて会った日を懐かしみながら、夜遅くまで談笑したのはいい思い出だ。
そして、一週間前にダヴィド君から見せたいものがある、と連絡を受けた私は東京のダヴィド君のゲーム会社へと急いでいた。
そしてオフィスに入った私は言われるがままに、奥の部屋に通された。そこではゲームのテストプレイが行われていた。写っているのは…
「ティーハです。驚いてくれましたか…あの日、あなたと初めて会った時、あなたがゲームの素晴らしさを教えてくれたからここまで来れました。本当にありがとうございました」
ダヴィド君の言葉に、私は何かを言う事ができなかった。
本物のように画面の中で動くティーハを見て、ダヴィドは確かに夢を叶えたのだな。と私は思った。
ティーハ、最後のチハは今日も画面の向こうで戦っているのだ。