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あれからすぐに、バートさんの名前が国中に知れ渡ることとなった。
詳しいことまでは分からないけれど、古い難解な魔術書を読み解いたらしい。
国王陛下から呼ばれるくらいだったから、それはとても凄いことなのだろう。
バートさんは十日ほどお城にいたあと、ようやく一昨日帰ってきたらしい。
らしいというのは、私はまだバートさんに会っていないから。
それを考えると、無意識にため息が零れた。
「辛気臭い顔をしているな、ソニア」
「あっ……。すみません、オーナー」
今は仕事中だった。
ちょうど混雑時間が過ぎて店内には誰もいなかったけれど、仕事に私情を持ち込んでしまった。
「パンを持って行かないのか?」
私が働くパン屋のオーナーは、まるで傭兵みたいな恰幅の良い男性だけど、その大きな手からは大人から子どもまでみんなが美味しいと言うパンを作り出す。
特に、日替わりの総菜パンは大人気で、私はオーナーに頼んでいつも一つ取り置きして貰っていた。
バートさんへ配達するために。
けれど、それもずっと行けていない。
「……すごい人だかりで入れないんです」
「一気に有名になっちまったからなぁ……」
バートさんがお城から帰ってきたと聞いた日、私はすぐに魔術書店へ向かった。
だけど、以前とは比べ物にならないくらい、書店の中も外までも大勢の人だかりができていた。
私はそれに驚いて、近づくこともできずに帰るしかなかった。
仕事が終わってから見に行っても、その様子は変わらなかった。
バートさんがお城に行って難解な魔術書を読み解いたという功績を知った人々が、ひっきりなしに押し寄せているらしい。
それまで若いバートさんが魔術書店の店主をしていることを、少なからず馬鹿にしていた人たちも見る目を変えた。
何て都合がいいのだろう。
そんな嫌味が口を出そうになったけれど、同時に誇らしかった。
バートさんは素晴らしい人なのだ。
それをみんなが分かってくれた。
そのことがすごく嬉しかった。
なのに。
私の心に募るのは、醜い思いばかり。
バートさんの凄さをみんなが知って喜ばしいことのはずなのに、急にみんなの態度が変わって、私以外にもバートさんの素晴らしいところを知っている人がいることを寂しいと思った。
これまでお店の奥にこもっていて、あまり人付き合いに興味のなかったバートさんだけど、今や魔術書店に様々な人たちが押し寄せている。
中には街の有力者や、偉い人もいた。
魔術師のローブを着た人も。
それに。
女性も多くいた。
以前までは書店の店主には興味を示さなかったのに、たくさんの女性がバートさんを見に来ていた。
その中には大人っぽくて綺麗な女性もいた。
あんな綺麗な女性に勝てる自信なんてなかった。
平凡で、ただパンを持ってくるだけの私なんて、すぐに忘れられてしまうかもしれない……。
西の空に陽が傾きかけた頃。
いつものようにパンは完売し、それと同時に営業時間が終了となった。
私は店内の掃除をして、お店を閉める準備をした。
オーナーはきっと明日もたくさんのパンを焼くはずなので、台の上も綺麗に拭いて明日の用意をしておく。
今日のパンは全て売り切れたけれど、一つだけ私の鞄の側にあった。
それは、バートさんに届けたかった日替わりのパン。
今日も休憩時間に魔術書店まで行ってみたけれど、案の定お店の外まで人だかりがすごくて結局バートさんには会えなかった。
書店に集まっていた人たちの中には、差し入れらしき食べ物を持っている人も多かったので、バートさんが食べ損ねていることはないはず。
持っていったパンは持ち帰るほかなくて、多分今日の私の夕食になる。
それを鞄の中に仕舞っていると、店頭の看板を片づけていたはずのオーナーが大声で私を呼ぶ声が聞こえた。
「おい! ソニア、ソニア!」
「オーナー? どうしたんですか、そんな大声で……」
オーナーはいつも声が大きい方だけど、さらに大きい。
近所迷惑だとまた隣から怒られてしまう。
お店の外に出て顔を上げた瞬間、オーナーの側にいるその姿を見て私は息が止まりそうになった。
「ソニア。久しぶり」
「バートさん……」
そこにいたのは、何も変わらないバートさんだった。
私の記憶のまま。
でも、少しだけ疲れた顔な気がする。
「おい、ソニア。もう片づけは良いから今日は帰れ」
「え? ですが……」
「ほらほら、さっさと行きな!」
「ありがとうございます」
オーナーに急かされていると、バートさんが先にお礼を言ったので、私は急いで鞄を取って帰ることとなってしまった。
そのまま、バートさんに誘導されて向かった先は魔術書店――ではなくて、その建物の裏口の扉。
「バートさん?」
「うん? ああ、二階は初めてだっけ? 書店の上が自宅だよ」
裏口の扉を開けると、入ってすぐに二階へ上がる階段があった。
中を見て、私は口が閉まらないくらい驚いた。
バートさんの自宅が書店の二階にあると知って驚いたわけではない。
階段からずっと、二階の部屋に至るまで、たくさんの本が積み重なっていたからだ。
「ごめんね、散らかっていて。ずっと留守にしていたから少し埃っぽいし」
「い、いいえ……」
部屋の中は散らかっているというよりも、本の数がすごく多かった。
天井に届くほどの書棚にぎっしり詰まっているのはもちろん、床に何冊も積み上げられていて、他にも不思議な道具もたくさんあって部屋を占領していた。
バートさんは本当に魔術が好きなんだということが伝わってくる。
まるで一階の書店と同じだけど、壁にかけられた服と、出窓のところに置かれた鉢植えの緑がどうにか生活感を出している。
「何か飲みもの……あ、そうだった。切らしたまま買ってないんだった」
「え? あの、バートさん、お城から帰ってきてからちゃんと食べてましたか?」
本に占領されている部屋とは対照的に、何もなさすぎる台所を見て嫌な予感を感じながらバートさんに尋ねた。
「城に行っている間に、買い置きしていた食料品がダメになってしまってね。確か店の方に茶葉が残っていたと思うから、取ってくるよ」
「バートさん! そんなことより、食事していなかったんですか!?」
「城にいた間は一応食べていたよ」
何でもない風に笑う姿を見て、私は気が遠のきそうになった。
パン屋へやってきたバートさんを見て、疲れた顔な気がすると思ったのは、食事をしていないせいでやつれていたと言うことだったみたい。
「でも、書店に来ていた人たちの中には、差し入れを持って来た人も多かったんじゃないんですか?」
「全部断ったよ。魔術を学んだ者は呪詛を警戒して、知らない相手から何かを貰ったり食べることはしないよ」
バートさんが当然のようにそう言った。
それは初耳だった。
私がバートさんにパンの差し入れをしたときは、そんなことはなかった。
近所のパン屋のものだと分かっていたからだろうか。
そう思って、鞄の中に持って帰る予定だったパンが入っているのを思い出し、慌ててそれを取り出した。
「これ、食べてください」
「ああ。何だか懐かしいね。ありがとう。ソニアのパンはとても美味しいよね」
「作っているのはオーナーですから」
オーナーの腕は確かなので美味しいのは間違いない。
バートさんは袋から取り出して食べると、まるで生き返ったような顔をした。
「ソニアが持ってきてくれたから、もっと美味しくなったんだよ」
バートさんがいつもの穏やかな笑顔でそう言って、その言葉一つで私は嬉しくなった。
「ぼくは魔術書を読み始めると時間も忘れてしまうから、ソニアが毎日パンを持ってきてくれて助かった。いつも楽しみにしていたんだ」
私が毎日パンを配達していたのは、少しでも役に立っていたと分かって良かった。
ただのパンの配達屋にならずにすんだみたい。
バートさんは帰ってきてから本当に何も食べていなかったようで、いつもより早くパンを完食した。
袋を片づけながら、私の方へ視線が向けられた。
「その髪留め、使ってくれているんだね。ありがとう」
「あ、はい。バートさんから貰ったものなので……」
後ろでまとめている髪には、お祭りの日にバートさんから貰った葉っぱの形の髪留めをしている。
あれから毎日つけていた。
でも、バートさんはお祭りの後にお城へ行ってしまったから、知らなかったんだ。
やっとお城から帰ってきたけれど、これからどうするのだろう。
私は気になっていたことを尋ねてみた。
「バートさん、お城の魔術団に入るんですか?」
「入らないよ? どこから聞いたの?」
「みんなが言ってるので……」
難解な魔術書を解読できたくらいだから、お城の魔術団はきっとバートさんを必要としている。
街なかの小さな書店の店主なんかではなくもっと高名な魔術師に――そうみんなが言っているのを聞いて、どんどん遠い存在になっていくのを感じた。
「ぼくは変わらずこの書店を続けるよ。魔術書を読むのは好きだし、静かな生活の方が性に合っているしね」
バートさんがはっきりとそう言った。
変わらない穏やかな笑顔で。
遠い存在になったと思っていたバートさんが戻ってきたような気になる。
けれど。
昼間に見た、書店の前の大勢の人だかりが頭から離れない。
「……でも、バートさんとても人気ですよ。きっとみんな放っとかないです」
「うん、自分でも驚いているよ。でも、流行みたいなものですぐに飽きられるよ」
「そんなことないです……。大人も子供も……女性もバートさんに夢中です」
「女性? ぼくみたいな本ばかり読んでいる男を好む女性はいないよ」
そんなことない。
私は魔術書を真剣に読むバートさんが好きなのだから。
同じように思う、大人の女性があの中にいるかもしれない。
「そんなことないです……。きっとバートさんの好みの女性が、バートさんを好きになるかも……」
「うーん……。ぼくの好みはね、優しくて、自分の意見を言える強さがあって、一生懸命でお人好しな子だよ」
「そんな女性もすぐに現れます……」
「ぼくにはソニアがいるのに、どうして他の女性が出てくるんだい?」
「……バートさんは優しいから、無理に私と付き合ってくれたんじゃないですか……?」
私が思いを告げたとき、バートさんは少し困ったように笑っていた。
きっとあれは、断り辛かったからかもしれない。
バートさんは優しいから。
一緒に出かけたお祭りのときも、私が頼んだから手を繋いでくれた。
バートさんは、本当はどう思っていたのだろう。
無理に私に合わせていたのかもしれない。
そんな不安がどこからともなく出てきて、私の頭から離れなかった。
「ソニア」
俯いていると、急に温もりに包まれた。
「ぼくは話すのが得意ではないから、ちゃんと言わなかったせいで不安にさせてごめん。でも、無理に付き合うなんて、そう思ったことは一度もないよ」
気がつけば、私はバートさんの腕の中にいた。
強い力で抱きしめられて、耳元で声がした。
「魔術師の道よりも魔術書を読む人生を選んだときから、その選択を後悔したことはない。だから、何を言われても気にならなかった。けれど、あのとき君はぼくのために怒ってくれた。まるで自分のことのように」
「バートさん……」
「女性はぼくのような魔術に没頭する男は好まないのに、君は食事の心配までしてくれて、こんな魔術書だらけの部屋を見ても何も言わない。そんな態度がとても嬉しかったんだ。今回の噂でいきなり押し寄せてきた人々より、前から側にいてくれた君以上に大切な存在なんていないよ?」
その言葉が耳の奥で優しく響く。
嬉しくて、涙が出そう。
けれど。
まだ私の心の中には気がかりがあった。
「で、でも、私が告白したとき、困った顔をしていませんでしたか……?」
バートさんの腕の中から顔を上げて尋ねると、あのときと同じような笑顔がそこにはあった。
「あれはね、困っていたんじゃなくて、嬉しくてどんな顔をして良いか分からなかったんだよ」
バートさんはそう言って、急に片手を動かした。
すると、出窓のところに置かれていた鉢植えが突然光に包まれて、その次の瞬間まだ閉じていた蕾が一気に開いてたくさんの花が咲き始めた。
その光景を驚いて見つめていると、触れてもいないのに茎の途中から切れていき、一束に集まって宙を飛んできた。
その花束がバードさんの手の中に収まる。
そんな様子を、私は茫然と見続けていた。
「これって……バートさんの魔法……?」
「約束していたからね」
その言葉に、バートさんがお城へ連れて行かれた日、魔法を見せてくれると言っていたことを思い出した。
そのことを覚えていてくれたんだ。
魔法を見ることができたのも嬉しかったけれど、約束を覚えていてくれたことがもっと嬉しかった。
それにしても、この花どうやって咲いたのだろう。
そう思いながら見つめていると、バートさんが花束を私の方に差し出した。
「一人が気楽だと思っていたけれど、君といるときはとても落ち着くんだ。離れていた間も君のことを考えないときはなかったよ」
花の優しい香りが舞う。
その向こうで、バートさんの穏やかな笑顔が見えた。
「好きだよ、ソニア。どうかこれからも一緒にいて欲しい」
バートさんはそう言って、今度は手の甲ではなくて、ゆっくりと私の唇に触れた。
魔術書店の店主は、すごい魔法を使えるのかもしれない。
私は触れられただけで、しばらく声も出せずに固まってしまったのだから――。
小さな魔術書店の店主だけど実はすごい実力の持ち主という、昼行灯に見せかけて優秀というのが好きです。
けどバートは穏やかな暮らしを望んでいるので、ちやほやしないソニア一筋です。
本編はここまでですが、あと少しおまけに繋がります。