1
私の好きな人は、書店の店主をしている。
普通の書店ではない。
魔術書を扱う専門書店。
分厚い魔術書に囲まれて、お店を一人で切り盛りする、口数は少ないけれど優しくて穏やかな笑顔の人。
出会ったのは偶然だった。
パン屋で働いている私は、納品している近くのレストランまでパンを届ける途中で雨に降られて、雨宿りをするために立ち並ぶお店の軒先へ逃げ込んだ。
雨はなかなか降りやまず、このままではパンを届けるのが遅れてしまうと心配が募った。
そのとき、扉の開く音が聞こえて人の気配がした。
お店の邪魔をして怒られるだろうかと思ったとき、中から出てきた男性は穏やかに微笑んで、私の方へと傘を差し出してくれた。
使いますか、と穏やかな声音で。
その一瞬で、私はこのときの魔術書店の店主――バートさんに恋をした。
扉を開くと、カウンターの中から穏やかに微笑む顔が振り返った。
「バートさん、パンのお届けです」
手に持っていたパンの袋を掲げながら店内へ入る。
中にお客さんの姿はなく、私とバートさんの二人だけらしい。
「いつもありがとう」
「今日の日替わりパンは、オーナー自慢の鮭のフライを挟んだサンドイッチです」
「美味しそうだね」
袋を広げて中を見せると、バートさんはさらに笑顔を浮かべた。
この笑顔を見るとこちらまで幸せな気分になってくる。
「お茶をいれるから、少し休んでいかないかい?」
「ありがとうございます」
バートさんは立ち上がると奥の部屋へ行き、お茶を手にして戻ってきた。
カウンターの中からイスを出してくれたので、私はそこに腰を下ろす。
奥にある窓を開けたらしく、少し冷たい風が換気のために入ってきた。
「寒くない?」
「大丈夫です」
お茶は温かいのでそこまで寒くならない。
出して貰ったお茶を飲みながら、パンを食べるバートさんをこっそりと見つめた。
これはいつもの流れ。
私は働いているパン屋からこの魔術書店へと毎日のようにパンを届けている。
本当は、レストランなど以外には配達はしていない。
でも、ここへ持ってくるのは仕事ではなくて、私が休憩時間に個人的にやっていること。
あの雨の後、傘を返しに行くと、バートさんは私のことを覚えていてくれて、変わらないあの穏やかな笑顔を向けてくれた。
それまで、近所に魔術書店があることは知っていたけれど、入ったことはなかった。
この国には魔力を持った人と魔力を持っていない人の二種類がいて、私は後者。
魔力のない人に魔術や魔術書といったものは縁のないものだった。
だからこんなに若い店主だということも知らなかった。
私より七歳年上の二十五歳らしい。
傘を返しながら少し話をした中で、一人で店を切り盛りしているためお昼を買い逃すときがあると知って、私は自分からパンの配達を申し出た。
バートさんは最初は遠慮していたけれど、私が押し切って配達権を得た。
それからもう二ヵ月近く、こうしてパンの配達を続けている。
ちなみに、バートさんは本当はエセルバートさんという長く立派な名前なのだけど、呼び辛いだろうからと言って、バートさんと呼ぶことを提案して貰った。
それが特別な感じがして嬉しかった。
パンを届けるこのわずかな時間を一緒に過ごすだけで、私は毎日がとても楽しかった。
「あ。私、そろそろ戻らないと……っ」
「ああ、もうそんな時間だね。いつもありがとう。オーナーにも、美味しかったと伝えておいて」
「はい。明日も楽しみにしていてくださいね」
私がお茶を飲んでいる間にバートさんはパンを食べ終わり、私の休憩時間も残りわずかとなってしまう。
いつもこの時間はすごく短く感じられる。
本当はもっといたい。
そんな思いを隠しながら、戻る準備をする。
「では、また明日来ます」
「気をつけて帰るんだよ」
帰るときは、バートさんはいつもお店の外まで見送ってくれる。
カウンターの中で座っていることが多いので気づきにくいけれど、バートさんは背が高いので、扉を開けて見送ってくれるときはとても見上げることになる。
顔を上げると、穏やかな微笑みを向けてくれた。
ぎりぎりまでバートさんといられることが嬉しい。
でも、帰り際の言葉はまるで子どものお使いを心配する声かけな気もする。
やっぱり、バートさんから見たら七歳も年下の私は子どもなのだろうか。
それは少し寂しかった。
けれどこの時間を過ごせるだけでも十分だという気持ちもあった。
優しく穏やかな笑顔を見られるだけでとても幸せな気分になりながら、私は再びパン屋へと戻った。
けれど、世の中では魔術師の方が知名度も地位も高いという認識がある。
魔術書を読むにも魔術の知識が必要なので、バートさんも魔力があるらしいけれど、現役を退いた老魔術師というわけでもなく、若くして魔術書店の店主を務めていることを馬鹿にする人もいた。
その上、バートさんはいつも笑顔で少しのんびりしているから、そんなところも魔力なんて本当はないのではと噂されたりもした。
そんなある日のことだった。
「こんにちはー……」
いつものようにパンの袋を持って魔術書店へ訪れると、店内には数名のお客さんがいた。
ローブを着た若い人たちなので、魔術師学校の学生かもしれない。
これまでもパンを届けに来たときにお客さんがいたことは何度かある。
そういうときは邪魔をしないように、パンを渡したらお茶は飲まないで帰る。
なので、奥にいるバートさんにパンを渡そうと思って、お客さんがいる場所とは別の書棚の列を通ろうとした。
そのとき、私の耳にその言葉は届いた。
「――書店の店主だなんて、魔術師になれなかった落ちこぼれだな」
静かな店内では小声でもよく聞こえた。
むしろ、わざと聞こえるように言っているようだった。
一人が呟いたその言葉に、同調するように一緒にいた人たちが笑う。
それを聞いた瞬間、私は踏み出した足を後戻りさせていた。
「バートさんを馬鹿にしないで!!」
気がつけば、その人たちの前に立ちはだかって、大声で怒鳴りつけていた。
今まで、人に怒鳴ったりしたことなんてなかった。
大声を出せるような度胸のある性格ではなかった。
けれど、バートさんが馬鹿にされることは我慢できなかった。
バートさんは難しい魔術書を大事に扱っていて、お客さんの問い合わせにも丁寧に答え、優しくて親切な素晴らしい人だ。
バートさんが大切にしている魔術書店を馬鹿にされることも、バートさんを落ちこぼれなんていうことも我慢できない。
バートさんを知らないでそんなことを言って欲しくなかった。
「バートさんは素晴らしい人なんだから……! あなたたちにそんなこと言われたくなんかないわ!!」
「な、なんだよこいつ……っ」
私が詰め寄って怒鳴ると、その人たちは勢いに押されたように後ずさっていった。
何か言い返そうとしていたけれど、その前に私が怒鳴り続けたものだから、顔を見合わせて舌打ちをされた。
店内はそれほど広くはないので声が響き渡り、当然、奥にいたバートさんもこの騒動に気づく。
カウンターの中から出てくる音がして、バートさんを馬鹿にしていた人たちも気まずさを感じたのか、急ぎ足で店を出て行った。
騒々しさから一転して静まり返った店内には、私とバートさんの二人だけが残る。
「ソニア」
バートさんが私の名前を呼んだけれど、振り返ることなんてできなかった。
「すみません……」
「どうして君が謝るんだい?」
「バートさんのお店で、お客さんに怒鳴ったりして……」
「それは、むしろぼくがお礼をしなければならないことだよ。ぼくのために怒ってくれてありがとう」
人ひとりが通るのがやっとくらいので書棚の間で、バートさんが私の前に立つのが分かった。
恐る恐る顔を上げれば、いつもと変わらない笑顔がそこにはあった。
その穏やかな笑顔を見た瞬間、私の思いは溢れ出してしまった。
「私、バートさんが好きです……」
きっかけは傘を貸して貰ったこと。
それからいつも穏やかな笑顔に惹かれた。
こんな難しい魔術書に囲まれているのに、バートさんの周りだけではいつだって穏やかな雰囲気に包まれていて、優しいところが大好きになった。
そんな思いがもう隠せなくて溢れていった。
「ありがとう」
上から降ってきた聞き慣れた声に、私は反射的に顔を上げた。
そこには、初めて見る――少し目を細めて困ったように笑うバートさんの顔があって、それから私の手の甲に口づけをしてくれたことを、きっと私は一生忘れられないと思う。
3/12一部分表現を変更しました。




