序章ー8
早く寝たいです。
明日もがんばります
「生物的脅威度」——
アルキミス王国を含む、大陸全土での共通の指標。
それは「脅威度」という言葉通り、「生命をどの程度脅かす存在か」を表している。
これは大陸の各所に設置されている「冒険者ギルド」の支店から集められた情報を元に、ギルド本部の「裁定委員会」によって制定、及び逐次更新されている。
名前
特徴
討伐方法
採取可能な素材etc...
魔物退治や未開拓探索を生業とする冒険者にとって非常に有益な事が網羅されており、これを頭にいれていない冒険者は「死に急ぎ」だと嘲笑の的にされる。
そしてそれらの情報は「脅威度指定目録」と呼ばれる一冊の蔵書に編纂され、各国のギルドの支店へと再び渡る。
今昔の冒険者達が、手土産として——または生命の対価として——持ち帰った値千金の情報。
「血塗られた辞書」と揶揄される事も少なくない。
「生物的脅威度」はその性質上、記載のある生物の強さを表していると思われがちだが、実際のところは少し異なる。
その生物の活動による、予想される被害の規模
これが、委員会が意図する「脅威度」の定義。
フローラ領の村——アドニタスの近隣の森に突如として出現した巨熊という生物。
これの脅威度は「A+」
単体で一集落を壊滅させる可能性があると判断された存在だ。
□ ◾️ □ ◾️ □ ◾️
「——っ、ネロ!お前さんは逃げろ!」
ドンさんがそう叫ぶのと、目の前の大熊がその大きな爪を振り下ろしたのは、ほぼ同時だった。
その凶爪は、ほんのついさっきまで彼がいた空間を切り裂き、怖気が走るような風圧を生み出す。
突如として現れた的の存在に、俺の頭は全く追いついていなかった。
確かに、俺は魔物との接敵を望んでいた。
「過保護」な居候先に嫌気が差し、渋るドンさんを唆してわざと森の奥へと向かうよう頼んだ。
この1ヶ月特訓し、仕様をある程度把握した「スキル」で、魔物を蹴散らす。
——はずだった。
「こんな——」
小山ほどもある巨体を目の前に、俺は完全に縮み上がっていた。
「こんなはずじゃ——」
「っ、ネロ!」
呆けた俺を、ドンさんが横から突き飛ばす。ふたりして地面に転がったすぐ脇を、大岩のような巨体が猛然と通りすぎる。
「しっかりしろ!現実と向き合わんと助かるものも助からんぞ!」
ぬかるんだ地面の冷たい感覚。
ドンさんの叱咤で、俺はようやく意識を取り戻した。
「ドンさん、あれは一体……?」
「ギガント・グリズリーっちゅう、かなりやばいイキモンだ。
だがどうして……この辺りにはいない筈だが……」
「グオォォォォォォ!!」
現れた生物は、俺らに訝しむ暇すら与えてくれなかった。
聞いただけで身も竦むような咆哮。
その大きな身体を遺憾なく見せつけ、逃げようとする意思すら喰らおうとしているように見える。
「ドンさん、俺、俺——」
「説教なら後だ!とにかく撒くぞ!」
まだ心ここにあらずという風体の俺を怒鳴りつけ、ドンさんは巨熊を手斧で牽制しながら後退する。
鬱蒼と生い茂る木々を必死で掻き分けながら、俺達は無我夢中で森の入り口へと引き返していく。
しかし、そんな抵抗も虚しく、この捕食者は低い唸り声を上げながらジリジリと距離を詰めてきた。
木工職人が振るえば簡単に巨木を伐り倒せるような斧でも、この熊にとっては爪楊枝も同然だ。
鬱陶しそうに爪を振るうと、斧はドンさんの手から小枝のように飛んでいってた。
「ぐっ……」
「ドンさん!」
「武器を持っている」というのは、実際に有効打になる獲物かどうかはさておき、少なからず心の支えにもなる。
それを失ったとあれば、いよいよ万事休すといったところだ。
「グルルルル……」
暗闇の中で、奴の血走った目が獰猛に光る。
よだれ垂れすぎだろ。どうやら相当な飢餓状態にあるようだ。
「……ネロ。ここはオレがアイツの注意を引く。
その間にお前さんは村に戻ってすぐ応援を呼んで来てくれ」
目の前の脅威に声を震わせながらも、ドンさんは俺に言った。
「そんな!ダメだ!元はと言えば俺が——」
「オレぁもう年寄りだ。このまま撒いて逃げ帰るまで体力がもたねぇよ。
それに、若いもん残して、老い先短いオレが逃げるなんざ、ジナのやつにどやされちまうよ」
それが虚勢だということくらい、思慮にかける馬鹿な俺でもわかった。
そして、こんなやつが相手では、俺が助けを連れて戻ったところで——
ドンさんは、この予期せぬ邂逅の結末を、長年の経験から察したのだろう。
「短い付き合いだけどな、
オレとジナはな、お前さんを本当の孫みたいに思ってる。ホントだぜ?
お前さんはいい子だ。だから——オレだって身体張れるんだぜ」
「……やめてくれよ」
なぜ、今そんな話をするのだろうか。
どうして、このタイミングで、そんな事を言うのだろうか。
「帰ったらジナに伝えてくれ。
すま——」
ドンさんの言葉が、最後まで紡がれることは無かった。
巨熊の大鎌のような爪が振るわれ、彼の身体を深く切り裂く。
辺りに鉄の臭いが漂い、ドンさんはガクリと崩れ落ちた。
「——俺のせいだ」
これば、罰なのだろう。
正直、楽勝だと思っていた。
俺が読んでいた異世界の勇者達は、初陣でその力を遺憾無く発揮し、加速度的に成り上がっていた。
どんな奴が現れようが、相手にならないと、
本気で思っていた。
だが、この巨体を見た俺はどうだ。
チビりそうなほど怯え、身体が動かない。
俺は馬鹿で、愚かで、高慢だった。
新たな生を受け、身寄りのない俺を実の家族のように迎え入れてくれたのに、
その忠告を無視し、あまつさえその身を案じる気持ちすら「過保護」と思ってしまった、
俺への罰だ。
「グオォォォォォォ」
ドンさんを手にかけた凶器は、今度は俺に向けて振るわれるのだろう。
この熊は、俺を罰するために誰かが遣わした死神だ。
こんな親不孝者を生き返らせて、神様はさぞがっかりしとことだろう。
あぁ、今度こそ天国に——
『まだです』
この世界に来て、最初に聞いた声。
無機質で、抑揚が無く、感情を感じさせない声。
今まで、俺が聞いた事にしか反応を示さなかった声が
初めて、自ら俺に向けて話している。
『彼はまだ存命です。重体で余談を許さない状況ですが、まだ助かります』
「シリィ……お前……
でも、ドンさんは……」
『90秒、時間を稼いでください。それで、事態は解決に向かいます。
90秒、ギガント・グリズリーから生き延びてください』
巨熊は、次はお前だと言いたげに、俺に牙を剥き出しにしている。
凶悪な笑みのような表情に、生きた心地がしない。
「……無理だ。
俺にはもう……」
『できます。あなたにはそれだけの力が備わっています』
相変わらずの無機質な言葉。
だがそれには、ほんの僅かにコイツの感情が乗せられているような気がした。
初めての、会話らしい会話。
恥ずかしい話だが、その抑揚の一切ない言葉に、俺は少し勇気付けられた。
「なぁ、勝てると思うか?」
『打倒するのはほぼ不可能です。
ですが、生き延びる事を勝利条件とした場合であれば、勝てます』
「……わかった」
倒すのは無理だと正直に言う所もコイツらしい。
だが、それで逆に気が幾分か楽になった。
「この世界の初戦闘が生存戦とはな……
地べた這いつくばってでも生き延びてやらぁ!」
消えかけていた心の灯を、虚勢で鼓舞して無理矢理大きくする。
こうして、俺とギガント・グリズリーの戦いの火蓋が切って落とされた。