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Scene07 追われた猫たちの遁走

「おいおいおいおいおいおいおいおい! 何でおれが追っかけられなくっちゃならないんだ!?」

 町中まで草原の匂いのする田舎町に居た時のことだ。

 いつものように、退屈しのぎにネズミの曲芸を眺めていたら、急に人間がおれに向かってホウキを振りかざしてきた。

 頭を叩かれて「ぶにゃん!」と情けない声をあげたおれは、兎にも角にも一目散に逃げだしていた。

 野良として生活している以上、人間に嫌がられることがあるってのは理解している。

 でもそれは、盗みを働いたり人間の仕事を邪魔したりした場合であって、路地裏で座っているだけで下される罰にしてはちょいと重過ぎるもんだった。

 おれは港町を出てから黒猫のニィを追っかけて町を渡り歩いていた。

 別にニィにネズミを食べるのを止められたのを恨みに思ってのことではない。

 あの町に居座っていると、エマ婆さんのことが思い出されてどうしても野良として半端になりそうだったし、野良になったからか町の連中の扱いも悪くなったしで居辛くなったということもあった。

 よその町に行けば完全に野良猫だ。それに、嫌われネズミの連中といっしょに居れば巻き添えを食うことだってある。でもそれはネズミのついでであって、猫に対しては脅かしのひとつで充分なはずだった。

 普通の野良猫ならば警戒心があるからな。一度脅かすだけでしばらくそこには寄り付かないもんだ。

 だが、今回は違った。脅かすなんてもんじゃない。

 ネズミには目もくれず、ぎゃあぎゃあ喚きたてながらおれを何度もホウキで殴ったんだ。

 路地を出て広い場所に逃げたのだが、そうするともっと悪いことに、他の人間までその暴挙に加わって来たのだ!


***


「あの猫を殺してしまえ!」

 僕は確かにそう聞いた。ホウキを持って現れた男の心からは、赤黒くて焼けるような意志が明確に感じ取れた。

 ヒステリーを起こした人間が「ネズミを殺せ」と躍起になるところは何度か見たことがある。ネズミ以外では虫とかにも言う。でも、猫になんて言うものかな?

 あー……魚屋が言ってるのは聞いたことがあるけど。

 まあ、とにかくあの男の口から出るなんて意外な言葉だった。

 動物から見れば、飼われ者における飼い主以外の人間なんて、どれも同じようなものだ。

 性別や、動きで乱暴かどうかくらいは判断するけれど、服装までは気にしないもんだ。

 でも僕には細かい事情も分かるもんだから、人間も猫と同じようにきちんと区別がつく。

 普段、ああいう「黒い服を着てる男」っていうのは、ずっと頭の中で「父」とか「子」とか「罪」とかそういうことばかりを考えて、ときおり説教のようなものを繰り返しているのが常だからだ。たまにそうじゃない人もいるけれど。

 違いまでは分からないけれど、牧師とか神父とかいう種類の人間だ。神様とか、キリスト様に仕えている人間。

 キリスト様については、僕たち猫やネズミですら知っている。野良犬がそういうありがたいものを知っているかどうかは分からないけれど。

 神様については人間同様、誰もが知っているけど、誰もが知らない存在だ。分かるのは何だか分からないけれど、何だか分からないことがあったときにお祈りをする相手だってことくらいかな。自分で言っててこんがらがってきた。

 ともかく、黒服の男は普段、そういう敵意で心が覆われることが滅多にないはずで、乱暴とは対極にあることが多い種類の人間のはずだった。

 それが急に、ただ座っていただけのウィネバに向かってホウキを振り回すなんて、考えられもしないことだ。

 ウィネバは元飼い猫だけれど、普通の野良猫だ。だから、人間相手に盗みをやらかすこともある。そういう次第で怒りを買うことはあっても、この町に来てからの彼は何一つ人間にとって悪いことをしていないはずだった。

 殴られた彼も仰天していたみたいだ。

 僕はウィネバのことがそれほど好きじゃなかったけれど、あのままでは本当に殺されかねないと思って、彼の後を追いかけたんだ。


 すると恐ろしいことに、通りのほうはもっとドロドロでトゲトゲとした感情が、濁流のように渦巻いていたんだ!


 道は下り坂。その先には広場。危険な流れは広場のほうへ近づくほどに濃くなるようだった。広場では何人かの人間が木製の十字架に(はりつけ)にされていた。ちょうどキリスト様のように!

 通りでは様々な言葉や考えが聞こえてきたけれど、うるさ過ぎて一つ一つは聞いちゃいられなかった。何やらややこしい事情があるようだ。

 それでも、「魔女」だとか「悪魔」だとかいった言葉と、沢山の怒り。

 その中に混じってずいぶんと愉快そうにしている心の声もかなり混じっていることは嫌でも感じられた。

 ウィネバと黒服の男の鬼ごっこにはそういった悪意の連中も加わって、ウィネバが足を止めさえすれば、すぐに皮をはぎ取られそうな勢いにまで発達していて、彼らの憤怒は土の地面を震駭させていた。


「ウィネバ! そっちに逃げちゃいけない!」

 僕は声をあげた。彼が向かう先には赤黒い感情で塔ができていたからだ。普通は遠くの心の声なんて聞こえないし見えないんだけど。

 燃やされる前からまるで炎が上がっているように見えた。人間たちが火のついた松明を掲げて呪詛の言葉を唱和して、その声が黒い風となって酸素を送っていたんだ。

 人間が「悪魔」って呼ぶものの正体があるとしたら、きっとあれのことだ。


***


 おれは死に物狂いで逃げていた。狂った野良犬に追われた時以来だ。ニィの奴の声が聞こえたから何とか方向転換を試みようとしたが、ダメだった。

 そもそも人間の足の森を出鱈目に走っているのだから、「そっち」がどっちかも「どっち」に逃げればいいのかもさっぱり分からなかった。

 そうこうしているうちに奴がおれの横に並び、一緒に人間たちに追われ始めた。

「おい、ニィ。何でお前まで一緒に! 走りづらいぞ! そもそも何でおれは追われているんだ!?」

 大した答えは期待しちゃいなかった。不満をぶつける先が無かっただけのことだ。

「みんな怒ってる。悪魔だとか魔女だとか言っている」

「怒っているのは見りゃ分かるが、魔女ってのはどういうことだ」

「広場で人間が磔にされているのを見た。何をしたのかまでは分からないけれど、火あぶりにして殺してしまうつもりだ」

 人間が殺される(・・・・・・・)だって!?

「いったい誰に!?」

 ふつう逆だ。人間ってのは他の動物を殺すもんだ。

「そりゃ、人間さ。とにかく、あっちのほうは人が少なそうだから僕に付いて来て」

 ニィはおれの前に出た。黒い尻尾を追いかけるのは癪に触ったが、めちゃめちゃに走って逃げたおれには、それを拒むだけの元気は残されていなかった。

 それでもその癪に障る尻尾にいつぞやの野良犬のように食らいつこうとしなければ、おれは犬よりも恐ろしいものに呑み込まれていただろう。


 奴の言う通り、次第に行く手の人間の数は減って行った。それと同時に村からも離れているようだった。諦めたのだろうか。村のはずれのほうに来たころには最初におれを追いかけてきた黒い奴と、もうひとりしか居なかった。

 野良猫としてはニィのほうに分がある。それにしたって上手いこと逃げおおせたとは思うが。

 だってそうだろう? 身体はネズミを追って鍛えることができるかもしれないが、危険察知に関しては、港町暮らしじゃ、大して磨きようがないはずなのだから。

 それとも奴は、路地裏で狂犬相手にずっと特訓でもしていたというのだろうか?

 それじゃ、命がいくつあっても足りない。

 それに、こんな光景はこれまでどこでだって見たことが無かった。

 人間どもがまとめてまるっきり騒ぎ立てて、しかも他の人間を焼き殺そうとするなんて。

 殺し合いっていうのは、普通は違う種類の動物同士で行われるものだ。それも基本的には食べるためだ。戦いそのものは縄張り争いでも起こるが、それで死んじまうのはただの結果であって、運が悪かったということなのだ。

 そんなことはおれだって、飼い猫だった時分からこの世の常識として知っている。

 ともかく、おれたちは追手の目を盗んで、村の外れに積みっぱなしにされた干し草の中に飛び込んだ。それでようやく静かになった。


***


 こんなに走ったのは初めてだ。

 僕はウィネバがきちんと付いて来られるように、加減をして走ったつもりだったけれど、彼は疲れていてしかも人間に何発かお見舞いされていたはずなのに、僕のお尻を突っつくように走った。

 だからそれに合わせるとなると、僕までもハアハア言わなくちゃならなかった。


 干し草の中でしばらく息を潜めていると、僕たちを追ってきた何人かの人間が通り過ぎるのが気配と思考の両方で分かった。

 ウィネバは「縄張り争いでもないのに、何でだ?」と人間の磔を疑問に思っていたようだったけど、やはりこれは縄張り争いに事の発端としたものらしかった。

 先ほどウィネバを追いかけていた聖職者は、キリストの使徒同士の縄張り争いで突っつかれて、保身のために宗旨替えを迫られ屈服、その証立てのために「魔女の使いたる猫」を殺さなければいけなかったらしい。

 最初はウィネバが追われていたは間違いないのだけれど、途中からは多分、追われていたのは僕のほうだ。「黒猫が居るぞ!」って聞こえてきたしね。

 港町でも何度か言われたり、思われたりしたことがあるのだけれど、黒猫というのはどうも人間にとって不吉なイメージのある動物らしく、うかつに横切ると不快感を与えてしまうようだった。

 理不尽な気もしたけれど、僕はそれが申し訳なく思えた。自身が黒猫であること、それは人間にさえ親切にしていた理由のひとつだった。


 ところで聖職者は僕たちを追う振りをして、そのまま村を出ようと企んでいるらしかった。それがベストだと思う。

 彼の保身のために僕たちのどちらか、あるいは両方の皮が剥がれるのは御免だし、いくら人間とはいえ、こちらが逃げたせいで磔にされて足からじっくり焼かれるなんてのは気分が良いものじゃない。

 それに、この鬼ごっこそのものがナンセンスで気に入らなかった。

 だって、広場の狂った連中は猫が捕まろうが捕まらなかろうが、結局はあの聖職者を縛り付けて焼いてしまうつもりだったんだぜ!?

 あれだけ執念(しゅうね)く同じ種族を虐めるなんてさ!

 これまで通ってきた町じゃ、こんなことは一度も無かったのに。無論、港町でも!

 僕は退屈しのぎで旅に出たけれど、これはちょっと刺激が強すぎる。

 陽が暮れたらさっさと路地に戻って、ネズミたちと一緒におさらばしなくっちゃ。


「おい、ニィ」

 ウィネバが声を潜めて言った。

「魔女がどうとかって言っていたが、ありゃ、どういうことだ?」

「僕も詳しいことは知らない。噂で聞いただけなんだけれど、人間には魔法を使う魔女って種類が居て、そういうのは正体がばれると殺されてしまうらしい」

「普通、逆だろう? 猫の間じゃ、魔法を使えるだけじゃ殺されやしないぜ。酔っぱらっていても笑われるくらいだし、火を点けて回っても追い出されるくらいだ。どっちかっていうと、魔法が魔法の持ち主を殺すもんだ」

 ウィネバは飼い猫出身だが、魔法猫については知っているようだった。彼はこの話をする前に、母猫のことを思い出していた。

「……人間の間では、魔法は全部悪いことなんだ。僕たちは、普通の猫ができないような不思議なことをする猫を魔法猫って呼んでるけど、人間の場合は聖職者であるかどうかが大事で、教えに従った不思議を“奇跡”って呼んで、それ以外を悪いものとして“魔法”って呼ぶらしい」

「ふうん。人間の事情にいやに詳しいな」

 乾草の向こうから聞こえてくる疑念の声。

「そうだね」

 僕はなるべく澄まして言った。魔法猫の特性上、この質問に嘘の答えはできないんだ。

「けっ、気取った野郎だ」

 少しヒヤリとした。今まで必死に逃げていたものだから、自分が魔法猫で影が無いことも忘れていたからだ。今の僕は流れ者だし、ウィネバとも一生の付き合いをするとは限らないから、バレたってそこまで不自由するはずはないのに。

 だが、大丈夫だ。彼の思考を読む限り、ちょっと腹を立てただけで僕が魔法猫だという答えにはまだ辿り着いていない。

 彼の真ん前を走っていたけど、影のことまでは気が回らなかったようだ。

 さっきの鬼ごっこで、体力差についてはよく分かっている。もしも彼が敵になるようなことがあったり、『シルク・ドゥ・スクィーク』に牙を剥くことがあれば、僕の力じゃどうにもできっこないだろう。

「とにかく、陽が沈んだら路地裏に戻ろう。それで、こんな町とはさっさとおさらばだ」

 僕は考えを伝える。

「そうだな」

 ウィネバは不機嫌な返事をしたが、心の内でも賛成。


 ところがどっこい! 次なる危険が僕たちを襲ったのだ!


***


 おれはこの黒猫はちょいと妙だと思い始めていた。変わった奴だとは思っていたが、性格や好みの上の話だけじゃない。

 とはいえ、問題はそんなことではなく、おれは「何故、奴に対して無性に腹が立つか」という疑問のほうに執心していた。

 だからといって、旅を邪魔をしてやる気も起きなかったし、かといって仲間入りをする気にもなれなかった。

 奴をつけ回しているこのしばらくの間は、そのモヤモヤのせいでずっと苛ついていた。


 ……ところで、おれの気のせいかもしれないが、おれの立派な鼻が、干し草の落ち着く香りに混じって、何やら“危険な臭い”が混じっているのを嗅ぎ取った。

「なあ、ニィ」

 おれはニィに声を掛けた。

「お前、おれの考えていること、分かるか?」

 テレパシーって意味じゃないぞ。野生の勘って奴だ。

「逃げたほうが……良さそうだ!」

 ニィが叫んだ。

「尻尾が熱いっ! せっかく傷が塞がったってのに!」

 おれは尻尾の先に言葉通り火を燈されたような痛みを感じた。


――どうやらこの干し草の山は燃えているらしい!!


 おれとニィは外の索敵をする余裕もなく、乾いていてよく燃えそうな葉っぱを蹴散らして飛び出した。

 身体が燃えている訳じゃなかったろうが、運良く近くにあった小川にふたり揃ってダイブだ。

「……生まれて初めてだよ。自分から水に飛び込もうなんて思ったのは」

 おれはぼやいた。

 いっぽう、先ほどまで隠れ家に使っていた干し草の山は小火(ぼや)どころか、家ひとつをパン焼き窯にしたみたいに踊り狂っていた。

「僕は昔、飛び込んだことあるかな……。どうやらこの火は人間の仕業らしい」

 こっちの変わり者の猫もぼやいていたが、こいつは初めから真っ黒焦げだ。……なんてな。

「おれたちを追っていた人間は火の付いた棒を持っていたな。猫を焼いて食うつもりだったのかね?」

 その割には辺りに人間が見当たらなかった。あれだけの念を込めて殺そうとしたのだから、死を見届けないなんて法はないだろうに。おれがネズミを追えば、必ず最期は見届けるぞ。

「捨てたのが燃え移ったんじゃない?」

 ニィは適当に呑気に水に身体を沈めながら答えた。おれは心の中で同意して、不快な水から上がり、炎に近づいた。

「危ないよ」ニィが言った。

「身体を乾かすんだ。濡れてるのは好きじゃない」

 飼い猫だった頃を思い出す。雨に濡れたとき、エマ婆さんのパン焼き窯でよくこうやって身体を乾かしたものだ。

「お前も来いよ。火傷しないよう、おれが加減を教えてやるから」

 これは助けてもらった礼のつもりだった。わざわざそうは言わなかったが。

 しかし、ニィの奴は応答せず、ただ炎を見ているだけだった。野良だし、火が怖いのだろうか。

 炎から逃げるのは野生生物の本能だ。おれは無理強いするのも悪いと思い、それ以上は何も言わず、自分だけ濡れた身体を乾かすことにした。

 ヒゲが焦げないように距離を変えたり、魚をまんべんなく焼くように向きを変えたりしているうちに、妙なことに気が付いた。


 火焔に照らされて、おれの影は長く伸び、その揺らめきに合わせて別の生き物のように踊っている。

 ……だが、ニィの身体には、それが無かったのだ。


 母親が言っていたのを覚えている。

「魔法を使える猫は、光を受けても影が落ちない」のだと。


「ニィお前、魔法猫……なのか?」

 おれは訊ねた。そして、ニィは口で答えるよりも早く、水中で身を縮めた。

「……うん」

「そうか。珍しいな! 何が使えるんだ? ……いや、ちょっと待て。おれが当ててやるぞ!」

 おれは魔法猫じゃないがこの国では珍しい猫だ。寒い国の品種で、灰銀の毛皮とエメラルドの瞳を持つ血統だ。この容姿は母親譲りで、自慢だ。

 だから、“珍しい”ってところでシンパシーを感じて、気分を良くした。

 奴が使えそうな魔法……。そういえば、嫌に勘がよかったり、人間の事情に詳しい気がする。それに、他のサーカスの生き物とも上手くやっているのを予てから不思議に思っていた。

 つまり……。

「お前は、他の動物の言葉が分かるんだな?」

「……うん、正解」

「へえ! そいつは凄えな! だからネズミなんかとつるめる訳だ」

「そう。退屈だったからね。野良でも人間と上手くやれれば、暮らしに困らないから」

「ちぇっ! そういうことか。いやさ、おれは野良になりたての頃、野良で上手くやってるお前が羨ましくて、後をつけたことがあったんだ。するとどうだ、人間の家に入ったかと思えば、追い出されることもなく食事を頂戴して来やがる。そうかそうか。そういうことだったんだな。おれには真似ができないはずだ」

 妬ましさもあったが、おれが無能だったって訳じゃないのが分かったし、ニィはその便利な魔法があっても怠けてあのデブ猫連中みたいになっていないところが特別に気に入った!


 おれは決めた! こいつとは親友になる! ネズミを追いかけるのも控えてやる!


「お前、影が無いのを気にして、火の前に出られなかったんだろ?」

 おれがそういうと、ニィは何も言わずに水から上がった。濡れた黒毛は、炎に照らされて美しくさえ見えた。

「僕も、濡れているのは好きじゃないんだ。仔猫のころに海に落ちたことがあるけど、あれは死ぬかと思った」

「見かけによらず、どんくさいんだな。海に落ちてよく助かったな?」

 おれは笑って訊ねた。誰だって失敗はある。

「人間に助けてもらったんだよ」

「そいつは運が良かったな。飼い猫にはならなかったのか?」

「助けるだけ助けて、どっか行っちゃったからね」

「そうか、そいつは残念だったな。ま、人間も気まぐれな生き物だからな」

「そうだね。僕たち猫には負けるけど」

 ニィが笑った。それはお澄ましや、(すか)した笑みじゃなかった。

「それにしたって、あの街の騒ぎは異常だよなあ?」

 おれは逃げて来た街のほうを見て言った。三本の煙が立ち上っている。

「うん。どうやらあれも一種の縄張り争いらしい。聖職者に都合の悪い魔女を殺してるんだ」

「なるほどねえ。おれも母親から聞いたことがあるよ。『猫は魔女の使いだ』って言われることがあるってな。こんな町に来ちまうなんて、運が悪かったな。厄日って奴だ」

 たぶん、あの三本の煙の下に居る奴らも、運が悪かったのだろう。おれはそう思った。

「暗くなったら、ネズミたちのところに戻りたい」

「そうだな。おれにもネズミ語が分かればいいんだけどなあ。お前は運が良いな。魔法猫で、それも不便の無い魔法を引き当てたんだからさ」


「……」

 ニィが黙った。

 おれは辺りを警戒する。他の生き物の声は聞こえない。気配も。

 沈黙の理由は敵ではないらしい。


「なんだ。他の動物の言葉が分かって、何か不便があるのかよ?」

「……」

「そうか、分かったぞ。何か他にも格好悪い魔法持ってるんだろ? 気にすんなよ。おれは半分飼い猫の気性が抜けてないんだ。助けられた恩もあるし、嗤ったりしないぜ」

 こいつがあの有名なラリッた猫みたいでも、くしゃみが止まらない哀れな仔猫みたいでも構いやしない。


「教えろよ、他にはどんな魔法が使えるんだ?」

 おれは軽はずみに訊いた。

 それが単に言うのが恥ずかしいからだって、早とちっちまったからだ。


 するとニィは少し寂しそうな顔をして、沈黙を破った。


 そしておれは、この今日という一日の間で、生きてきた中でいちばんの恐怖と、友情と、それから侮蔑の念を覚えたのだった。


*** *** ***

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