Scene03 賢くておしゃれな猫ウィネバの体験
おれはウィネバ。猫のウィネバ。
シルバーブルーの毛皮はコットンのような手触りで、エメラルドの瞳は鏡や水に映して一日中眺めていても飽きない。
キリリとした目鼻に、疾風になれる手足。それに、控えめで耳障りの良い声。おれはともかく格好が良い猫なのだ。
その辺のデブ猫と違って毎日運動をしているし、毛づくろいのし過ぎにも気を付けている。爪もきちんと研ぐし、水で身体を洗うのだって我慢する。おれはおしゃれなのだ。
飼い主のエマ婆さんはよくおれのことを「聞き分けの良い猫ちゃん」って呼んだ。
ここらの飼い猫は本当にネズミを捕らない。「役立たずのデブ」という不名誉なあだ名の猫は多すぎて見分けがつかないくらいだ。
いっぽうおれはエマ婆さんといっしょで、ネズミが大嫌いときているから、息が切れても陽が沈んでもずっと連中を追いかけていられる。
忙しなく鼻や腹をひくつかせているのは見ているだけでイライラするし、チュウチュウうるさいネズミ語は毛皮を逆撫でられるようだ。
ええい、連中のことを思い出しただけで走り回りたくなってきたぞ!
……。
ハアハア……エマ婆さんは町の人間たちの間じゃちょっとしたご意見番で、誰も彼もが彼女の言うことを無視することはできないくらい偉い。人間語はエマ婆さんの言葉以外はイマイチ分からないが、路地裏を牛耳っている野良猫とその子分の態度を見たことがあるから、エマ婆さんの偉さも押して測れるってもんだ。
死んだ旦那さんが街の英雄になったのは、エマ婆さんが毎日旦那の尻を叩いていたからだという話だ。おれの目がまだブルーだった頃に母親に聞いた。
そんな立派なエマ婆さんでも、部屋の隅から這い出て来る虫だとか、あのにっくきネズミどもはどうしても苦手なようで、足元を横切ろうものなら尻尾を踏まれた猫そっくりな声をあげておれに助けを求めるんだ。
そこで風のように駆けつけてやって、通り過ぎたときにはもう悪虫どもは地獄行きで、おれは澄まして頭をエマ婆さんの枯れ木のような手に向かって伸ばしてるってわけだな。
そう、おれはエマ婆さんにとっての英雄だった。
……だったんだ。
毎日食事をくれて、賑やかに悲鳴をあげて、おれを撫でてくれたエマ婆さん。
いつもは漁師くらい早起きで、おれは彼女とよく早起き競争をしたものだった。
「おや、ウィネバ。今日はまだ寝坊助かい。ネズミが出てくるまでゆっくりお眠り」
エマ婆さんは優しかった。もっとも、ネズミはおれたちの次に早起きだったから、ふたつと数えないうちに叩き起こされるのだけれど。
「ウィネバ、見上げたもんだ。あたしより遅く寝て、早く起きるなんて。良い嫁になれるはずなんだがねえ? 美人なのに、どうして外の雄猫連中は放っておくんだろうね?」
婆さん、それはおれが雄猫だからだよ。
そんな彼女が、いつまで経っても起きて来ない朝があった。
ネズミどもが図々しい足音を立てても悲鳴を上げなかったし、ずれたシーツもそのままで、ベッドからは何やら嫌な臭いをさせていた。
おれが試しに枕元に飛び乗ると、いつもは「毛が落ちる」と言って怒るはずの婆さんは、ぜえぜえ息をするばかりだった。
おれは、それがどういうことか知っていた。母親が死んだときと同じだったからだ。
猫には、猫流のやり方がある。
犬の場合はそんな飼い主を見つけたら直ぐに家を飛び出して、広場でギャンギャン吠えて医者なり牧師なりの袖に噛みついて家まで引っ張って行っただろう。
おれは母親にやったのと同じように、婆さんの鷲鼻におれの黒い鼻先をちょんとくっつけて、そのまま永遠に家を出たんだ。
さて、晴れてこのウィネバは野良猫となったわけだが、始めは何の心配もしていなかった。
港中探してもおれよりも素早く動ける猫は居ない自信があったし、連中はのろまでもあれだけブヨブヨしていられるのだから、生きるために食事を見つけて来るのに苦労なんてしないだろうと思っていた。
頭だって切れるつもりだった、エマ婆さんには賢い猫だって言われていたからな。
だが、猫には猫、犬には犬のやり方があるように、飼いには飼い、野良には野良のやり方があるようだった。
おれが暮らしていたのはエマ婆さんの家の中で、他の場所はただの散歩でしか歩いていない。家の中のことは思い描けば壁のシミまで思い出せるけれども、街のことについてはあまり細かいことが分からない。
路地に入れば太った猫が居て気分が悪いし、婆さんに言われるわけでもなくネズミを追う必要もなかったからだ。
それがどうだ、食事のためにネズミを追い回すにしたって、どこに連中の巣穴があるのか分からないし、連中は右から入って左から出てくるようなくらい複雑な移動を繰り返しているから、素早いだけじゃどうにもならなかった。
まったく! 済んでのところで暗がりに消える尻尾! 腹が立つ!
腹が立つといえば、埃だらけのところを走り回るもんだから、毛並みが少し悪くなったことだ。それでもデブ猫どもと比べる必要もないくらいに器量良しだ。何といっても港の潮風は毛や目に悪いからだ。
あっ! ネズミどもめ、また出たか!
……。
ハアハア……それに、人間から食事をくすねて来るにしても、連中の生活パターンというものが分からないし、一度盗みに入ったものの見つかってしまい、そのときに魚屋の女将が旦那のしりっぺたを叩いておれを追わせたのだけれど、魚屋がホウキを振りかざしながらエマ婆さんの名前を口にしたのをおれの耳が聴きつけたせいで、命からがら手に入れた獲物は何の味もしなくなってしまった。
恩知らずな人間ども! エマ婆さんの世話になってきたはずなんだから、その飼い猫で英雄だったおれには、もっと気前良くするべきだろう?
それと、嫁探しも考えたけれど、この界隈の雌猫どもは、どう見たってブサイクばかりで、それならまだ水面に映った顔を眺めるほうが遥かにマシってもんだ!
ともかく! おれは空腹と失敗でとてもイライラしていた!
「知識がないだけで、知恵も力も勇気も美しさもあるっていうのに、どうしてこんな惨めな目に遭わなければいけないんだ」ってな。
そんな折に、デブ猫がおれのことを嗤ったんだ! だから、おれは奴の潰れた鼻に爪を立ててやった。すると、ネズミを見つけたエマ婆さんを束にしたくらい情けない声をあげて路地裏に逃げて行った。良い気味!
それから、そいつが座っていた場所に代わりに陣取って、ネズミでも来やしないかと待っていたら、別のデブ猫がやって来たんだ。もちろん返り討ちだ。
それからも何匹か退けてやったけど、猫はやっつけても食べる訳にはいかないから、腹が減るばかりだ。勝つのは訳なかったが、そろそろ疲れてきた。
そう思った時だ。
かなりの巨漢で、顔に傷の入った猫がおれの前にやって来た。奴は前に見かけたことがあった。あの、街の広場でのエマ婆さんそっくりな態度をとる路地裏のボス猫だ。
でも、ボス猫はおれに戦いを挑まないで、ただ「出て行ってくれ」とだけ言ったんだ。
どうしてだか分からないが、おれは黙って従うことに決めた。
今思えば、あの時のおれは腹ペコだったし、爪も傷んで心配だったから、戦っていたら五分と五分か、悪くしたら負けていたかもしれなかった。野生の知恵がついてきたということだろうな。
それから場所を変えたが、婆さんと暮らしていた頃よりもひもじい生活が続いた。
ネズミも何匹か捕まえたが、味が好みじゃなかった。それならまだゴミ箱をひっくり返して中身を拝借したほうが良かった。
路地裏のデブ猫どもは身体だけじゃなくって、頭も鈍いようで、俺が美味い飯にありついているのを涎を垂らしてみているばかりだ。
そのうえ、ゴミ箱をひっくり返した罪を連中に擦り付けてやったから、人間どもにホウキの柄で叩かれていた。あれは愉快だったな!
それでもまだクセが抜けずにネズミを追いかけてはいたが、食べる訳でもなく、それはほとんど暇つぶしになっていた。
ゴミを漁る生活なら鼻持ちならないデブどもと話さなくても済むし、ネズミの巣穴を覚える必要だってない。近所に住む人間がどういう奴か考える必要だって。
おれが野良生活に慣れてきたころ、珍しい猫を見つけた。黒猫だ。
デブじゃなかったんだ。といってもチビのチエリみたいに痩せっぽっちで哀れっぽくもない。おれほどじゃないが運動神経も良いようだったし、何より頭が切れるようだった。
そいつはいつも、コソコソすることなく人間の家に忍び込み、怒鳴り散らされることもなく食事をせしめてくるのだ。
しかも、多く獲れた食べ物を欲しがる奴に分け与えていたし、面倒な気狂いの野良犬に追われたこともないようだったし、路地裏猫で泥棒猫のクセに人間とも仲が良いようだった。
どうやって上手くやっているのかが気になった。何度かつけ回してみたがサッパリだ。
ただ、あいつはもの静かで、騒ぎを起こすことなく仕事をこなし、誰かが助けを乞う前に助ける奴だった。
そして夜にばかり仕事をし、いつも闇から闇へ優雅に尾を立てて歩くのだ。
おれの追跡に気付いてか気付かずか、ときおりおれは奴を見失った。
おれはその黒猫が気に入らなかった。雌だったら自分のものにしただろうが。
つい最近のことだ、おれは肉屋のゴミ箱を漁っていた。
肉よりも魚やチーズが好きだから、肉屋のゴミ箱の世話になることはあまりなかったのだが、その日はたまたま不漁で、血や脂に汚れたバケツをひっくり返さなければならなかった。
何とか腹を満たすことができたが、そのあとが悪かった。
あまり来ない場所だ。「この辺りを誰が縄張りにしているか」って大事な情報が抜け落ちていた。ゴミ箱を漁れる猫なんて他には居ないから、普段からそれを気に掛けていなかったこともある。
何かが近づいて来るのに、気が付かなかった。鼻にくっ付いた血の臭いと、妙に濃い霧のせいでアンテナが働かなかったんだと思う。
その何かはゴミ箱に用があるようだった。おれ以外でゴミ箱をひっくり返せる奴。それは犬だ。
ここいらじゃ珍しい、年寄りの人間みたいな顔をしたブラッドハウンドだった。
何を食ったのか知らないが、すでに奴は鼻先を新しい血で濡らしていた。それからだらしなく開きっぱなしの口から炎のような舌と、血の混じった涎を覗かせていた。
おれは豚の脂で汚れた毛皮の掃除もそこそこに、その場をとっととあとにすることにした。ひっくり返ったゴミ箱にはまた食べるものが沢山ある。
肉屋裏の収穫が意外とおれの口にも合うようになっていたことが分かったから少々惜しかったが、いくらおれでも猫が犬とやり合って勝てる道理はない。
ブラッドハウンドはおれの食べ残しの臭いを嗅いだあと、低く唸ると、身を翻しておれの尾っぽに食らいついていた。
おれは悲鳴を上げなかった。それはスマートじゃないからだ。
自分の悲鳴の代わりに聞いたのは尾の先が砕けて千切れる音だ。構わず走った。
ただの野良犬ならまだ分があったかもしれない。だが相手はブラッドハウンドだ。母親に聞いたことがある。連中は犬の中でも特にハンターとしての資質に秀でてるって話を。
「おれと奴は似てる」とついこの間前思っていた。何故なら、おれもハンターだったからだ。だがそれは、大きな間違いだった。
逃げているうちにおれは悔しくなった。
おれには死ぬときに鼻先をくっつけてくれる奴なんて居なかったからだ。
通りへ飛び出したときも、ただ悔しさを地面に蹴るばかりで、霧のせいで馬の引いた車にぶつかるかもしれないとか、別の生き物と鉢合わせるかもしれないなんて考える余裕はなかった。
おれの尾の先はまだ敵意で削られ続けていた。それでもまだ奴の腹に納まっていないということは、おれは自分で思ってる以上に素晴らしい足をしているのか、奴の足が悪いのかのどちらかだろう。
さいわい、馬車の代わりに死のミルクに浮かび上がったのは、おれよりもスマートな黒い影だった。
おれもあいつのように頭が良ければ、こんな轍を踏むことはなかったろうに。半ば夢心地で黒猫を見た。霧のせいか、奴の影は見当たらなかったが、身体全部が影のように揺らめいていた。
少しだけ、美しいと思った。
もっとも、これから巻き込まれるのだから、おまえもおれと同じく相当に運が悪いようだが。
近づいて姿がハッキリしたとき、おれはやっぱり夢を見てるんじゃないかと思った。
だって笑っちまうだろ! 黒猫のそばにネズミの群れが居てさ、でっかいチーズに群がっているんだ。おれなら連中を一網打尽だ。本当に妙な奴!
何を気取って座って眺めて……。
違った。奴が見ていたのはネズミじゃなくって、こっちのほうだった。それも、逃げているおれじゃなくって、そのさらに奥だ。
おれはネズミの群れを飛び越えた。
だが、足がもつれて着地に失敗。硬い石を敷き詰めた地面に這いつくばってしまった。
終わりだ。あのブラッドハウンドが先に黒猫でもネズミでもかじってくれれば逃げ延びられるかもしれないが、奴は狂ったようにおれを追っていたからな。
死を覚悟したとき、霧を全て吹き飛ばすかのような悲鳴が響いた。
それは犬語だった。
顔を上げると、黒猫の奴がブラッドハウンドの右膝に爪を立てていた。
ほんのちょっと、挨拶をするかのように、実にスマートに爪先が喰い込んでいた。
犬の右脚は皮が大きくえぐれていて、筋肉が丸見えになっていた。やっぱり奴は足が悪かったのだ。
犬の野郎はすっかり気勢を殺がれたようで、わざとらしく右足を引きずって乳白色の霧の中へと沈んでいった。
おれは奴に助けられたのだ。だが、礼を言う代わりに、こう言った。
「良いところに鉢合わせたな。それに、運良く急所にお見舞いできたわけだ」
「本当にね」
奴はそう返した。それから最初と同じ姿勢に座り直し、ゆっくりと尻尾を置きなおした。
「おれはウィネバだ」おれは名乗った。
「僕は黒猫のニィ」
ニィなる猫は平然としていた。殺される危険があったというのに。その態度はやたらと癪に触ったが、おれがすぐに礼を言わないことにも目くじらを立てないし、怪我をしている様子もなかったから、おれは次第に安心した。
安心したら腹が減った。
横を見ると、チーズの前で茶色い連中が固まっていた。クマネズミだ。
連中はチュウチュウと耳障りな声をあげて騒いでいる。
食い意地の張った連中だ。チーズが惜しくて猫から逃げられないときている。今の騒ぎでもよく逃げなかったものだ。逆に感心する。
どれ、敬意を表して、晩飯に……。
「食べないであげて」
ニィが言った。
……クマネズミの味は好みじゃない。使い古された床板と同じ味がする。
おれは元エマ婆さんの飼い猫で、逞しくて運もある猫だ。それから連中は薄汚いネズミで、それに今は腹が減っている。
知恵者であるおれは頭の中で計算をした。
野良の作法なら“運”で片付けてしまって良かったが、おれはまだ半分飼い猫のままだった。自分に合格点をやるほどの野良ではない。そして飼い猫の作法の中には“義理”があった。
……。走り回りたい衝動に駆られたが、そんな元気もないし。
まあ、いいだろう!
おれは返事をしない代わりに、黒猫ニィと同じような姿勢で座り、チーズとネズミを眺めることにした。
黒くて静かな奴はおれを追い払わず、茶色くてうるさい連中も逃げなかった。
ま、そんなことがあったわけだ。
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