Scene17 黒い猫と灰色の猫と白い猫の関係
ああ、白猫。白猫のディア。キミは何て美しいんだ。
綿毛の……天使の……ミルクの……チーズに付いた結晶のような……。
ああもう駄目だ。全然良い言葉が思い浮かばない。こんなことなら、港でいつも寝ている詩人猫に詩を習っておけば良かったな。
港といえば、あそこで暮らしていた時はあまり気にしてなかったけれど、波止場から眺める夕陽はとても綺麗だった。今は簡単に戻ることはできないけれど、機会があればディアと一緒に眺めたりなんかしちゃったりして……。
ああもう! 今の彼女と会って何を話せばいいんだ。僕は嫌われているかもしれないっていうのに。
心が分からないのが辛い。いや、本当は嫌われていても嫌われていないかもしれないと思えるだけ幸せなのかも?
言葉だって魔法無しで通じる相手なのに、どうしてこうも苦労するのだろうか?
はあ……。
言葉が駄目なら、何か素敵な贈り物でも仕度しようか。
といっても、この町は人間から掠め放題ではあるけれど、果物も野菜もしなびているし、パンもチーズも発酵なのかカビなのか分かりゃしないし、魚なんて港と比べたら犬の糞の上に落としたようなものなんだものな。
ここに暮らす連中は気にしてないか慣れたみたいだけれど、人間たちに元気がないせいで実際のところ僕たちの暮らしの質は落ちている気がする。
人間たちだって広場でお喋りをしたり、ベンチに座って愛をささやき合ったり、花壇で花を育てたりするもののはずなのに、すっかり疲れてそれらを放棄してるんだから。
ああいう連中の心が読めたら、彼女に接する為のヒントになったに違いないのに。
まったく、無意味な人間たち!
はあ……。
僕が人間なら、彼女を絵に描くだろう。真っ白なカンバスに、真っ白な彼女を。
僕が人間なら、彼女の為に何か楽器を奏でるだろう。あの桃色の耳を優しく撫でるように。
僕が人間なら、彼女のとなりで釣り竿を垂らすだろう。心とろかすような大きな魚を……。
「いつまでもうじうじやってないで、さっさと行け!」
お尻に強烈な痛み。
「痛ったあい! また蹴ったな、ウィネバ!」
「痛いじゃない! 会いたいんだろう? サーカス入りを拒否されたくらいでへこたれてるんじゃない!」
「でも、ディアの家は誰か他の人間が使ってるみたいなんだ。だから、彼女が今どこに居るのかさっぱり分からなくって」
「探せ。動物の気配のない場所か、逆に騒ぎがある場所かのどっちかだろ。時計台は見たのか?」
「まだ見てない」
「やっぱり阿呆かお前は! ディアがどこか行ってから何日経ったと思ってるんだ? ずっと会ってないのかよ!」
そうなのだ。僕はディアの棲み処が外から来た人間に乗っ取られて帰れなくなったと聞いて、彼女の居場所を作るために団長に相談に行ったんだ。
だけれど、団員たちは猫慣れしてしてきたとはいえ、あの魔法の力が厄介過ぎて否の返事を突き付けたのだ。
相談している間にディアはどこかへ行ってしまったらしく、僕はそれ以来、彼女の顔を見ていない。
理由? そりゃあもちろん……嫌われるのが怖いし、何より、会うのが照れくさくって。
「照れくさくて会いに行ってないのかよ?」
「ウィネバも魔法猫になったの!?」
僕はたまげた。
「顔に書いてあんだよ馬鹿垂れ。まったくお前は自分のことばっかり考えて」
「そんな。みんなのことも考えてるよ。さっきは久々に公演を手伝ったし」
「……今は大変な時なんだぞ。あの悪党どもが暴れ回るし、町の人間だってネズミを追い回し始めた。これまで仲の良かった飼い猫連中も、しぶしぶついこの間まで曲芸の見せ合いをしていた相手の命を取らなきゃならないんだ」
「大変というか、それが普通でしょ。人間たちにだって都合があるんだし」
「そりゃそうだが、冷たい奴だな。おれたち野良にとって人間のことは二の次だぞ。ケンピの恋人なんて、外から来た人間に蹴飛ばされて大怪我をしちまったんだぞ。ボーヤンは飼われてた時の記憶が蘇って、頭がおかしくなっちまった。人間の格好をして小さな人形を木の棒で叩いては笑っていやがる」
「知らなかった……」
「公演に参加してたのに気付かなかったのかよ。噂話とかもあったろうに、情報通のお前らしくないな」
「知ってれば見舞いのひとつもしたんだけれど」
「しなかったろ。ずっと自分のことばっかりでさ」
「また言った! 僕のどこが自分のことばかりなんだ。ディアのことだって……」
……考えているよ。僕がそう言おうとしたら、ウィネバは口を閉じ、突然頭の中を真っ白にした。
「ご、ごめん」
僕はとっさに謝った。彼を怒らせただろうか。
「そういうところだぞ」
ウィネバは何も考えないで言った。怒りの色は一瞬も見えなかった。
「だから、ごめんよ」
「何で謝るんだ。おれは別に怒ってないぞ」
「嫌われたかと思ったんだよ」
「それもまた自分のことだ。そういうところが駄目だって言ってるんだ」
僕は図星を突かれてまた謝りそうになった。謝る代わりに額に両前脚を当てて伏せた。
「ディアがどういう飼い猫だったのかは知らんが、飼い主が消えてからもずっとそこに住んでいて、今は追い出されちまってる。そこら中酷い有り様だし、ディア自身はやっかいな魔法持ちだ。お前、自分がそんな状況に陥ったらどんな気持ちになる?」
「……心細いかな」
「だろうよ。おれだってそうなるかもしれないし、そうだと思う」
「だから早く会いに行けって? 自分のことばかりって言ったくせに?」
僕が口を尖らすと、ウィネバは長ーいため息をついた。
「影のない国まで来れたのも、ディアに逢えたのだって、みんなとの関係があってのことなんだぞ。お前がそんな調子だと団長も困るし、おれだってもやもやする。そんな気持ちのまま仲間の見舞いをするのも失礼だ。その辺は分かれ」
「つまり?」
「面倒臭え奴だな! お前がディアのことを考えてうじうじして嫌われるのを怖がるのはお前の為にしかならんが、お前がちゃんと会いに行くのはお前の為だけじゃなくて、みんなの為になるかもしれねえってことだ」
「なるほど……。キミの言う通りだ」
僕は立ち上がった。
「ようやく行く気になったか」
「うん。とにかく、会って来るよ」
「おう、行ってこい。つーか、普段会って何してるんだ?」
「……ちょっとお喋りをするくらいかな」
「ああ、スマン。今のはおれがデリカシー不足だった。とにかく、行ってこい」
実を言うと、ほとんど何もしていない。
ただ彼女に声を掛けて、魔法の効かないちょうどいい距離に座り、同じ場所に居るだけだ。
近づけばぶたれる羽目になるのは、二度目に会った時に学習していたからね。もっとも、ちょっとした拍子に痛い目に遭わされることはあったけど。
彼女は僕が居てもそこから去ろうとしなかったし、出て行けとも言わなかった。
僕は彼女を見つめて、彼女は決まって窓の外を見つめていた。
ずっとそうして居ると、ときおり彼女が質問を投げかけるからそれに答えた。
「サーカスはどうなの?」「人間って変な生き物ね?」「お魚が泳いでいるって、どんな風なの?」
彼女は自分のことも、僕のこともほとんど話さなかった。
それがようやく、外から来た人間のことで「私は帰られなくなったの」と自身のことを話してくれたのだ。
「早く行けっての!」
また蹴飛ばされた。
僕はつんのめり、二、三歩前に進んだ。
顔をあげると、路地の入口に宙に浮くようにしている青いリボンを見つけた。
「ありゃ。ディアじゃねえか? おい、ニィ先越されちまったな」
ウィネバが意地悪く言った。
僕はばつが悪くなるよりも心配になった。彼女がリスクを冒してまでここに来た理由って何だろう。まさか時計台まで人間に?
「遅い」
青いリボンをした白い影が言った。
「ごめん」
僕はとりあえず謝った。横で灰色猫が『またそれかよ』って思考を飛ばして来たけれど、しょうがないじゃないか。
ディアは路地を見回しながらゆっくり歩いてこちらへ向かって来た。彼女は一件の家の門前に出してある中身が枯れてしまった植木鉢の前で止まった。
魔法の届かない距離だ。
「ここの家は昔、たくさんの鉢植えにお花が咲いていたのよ。うちを飛び出した時に見たことがあるわ」
今は花は全部枯れて、植木鉢は食べ終わったお皿を積み重ねるように片されている。
ディアは口調からして少し怒っているようだった。相変わらず心は読めないけれど、多分、そうだと思う。珍しく尻尾をふらふらさせているし。
僕はいつも通りのやり方で、彼女の言葉を待った。
だけどいつもと違って、彼女は窓の外を見ずに僕の目をまっすぐに見ていた。外だから窓なんてないんだけれど。
『何もたもたやってんだ。おれが以前に言ったこと忘れたのかよ。分からなきゃ、訊けってんだ』
ウィネバが心の中で喧しく騒ぎ立てている。
「どうしてここに来たの?」
僕は訊ねた。
『お前、それじゃあここに来たら駄目みたいじゃないか』
いちいちうるさいなあ。
「寂しかったから」
ディアは短く答えた。
『可愛いじゃねえか、魔法猫だから素直に答えるしかないんだな』
そんなこと分かってる。だから、僕はあまり聞けなかったんだ。訊かれたら困ることや知られたくないことだってあるだろうから。
「素直な返事だな。それじゃ、おれはお邪魔虫だろうからあっちに行ってるぜ」
ウィネバはあくびをしながら僕らに背を向けた。
「私、どうしてだか嘘をつくのが苦手なの。灰色猫さん、私はあなたが居ても別に構わないわよ」
「そりゃ光栄だね。だけど、こっちはそういう訳にはいかないんだ」
振り返らずに言うウィネバ。
「どうして?」
「どうしてって、そりゃあ、こいつがやきもち妬くからだろ」
灰色の尻尾の先がこちらに向けられる。
「ふうん」
ディアは僕とウィネバを見比べると、ちょっと目を細めた。
「じゃ、後はよろしくやりな」
ウィネバは僕のほうを見てにやりと笑うと、今度こそ立ち去ろうと、ちょっと歩を速めた。
ところがいつの間にやらディアが回り込んで来て、ウィネバのすぐ傍まで寄ってしまった!
「ディアちゃ~ん。好き好き~」
猫なで声って奴だ。ウィネバは心を“好き”一色にして座り込み喉を鳴らした。それから鼻先をディアの鼻先に……。
「あーっ! こら、ウィネバ!」
僕は声をあげた。
「ね、ニィ。どんな気持ち?」
ディアが笑うように言った。
「こんな気持ちだよ!」
僕は全速力で駆け、それからジャンプ。間抜け面になってキッスをしようとする灰色猫に回転キックをお見舞いしてやった。ウィネバはごろごろ転がってほったらかしの植木鉢の山を崩した。
それから僕は慌ててディアから離れた。
「痛えな! 今のは魔法のせいだろうが! つーか、ディア。お前なんのつもりだ!」
ウィネバは小さな植木鉢を頭に被りながら苦情を言っている。
「本当にやきもちを妬くのか気になったの。やっぱり、ニィが私を好きって言うのは嘘じゃないのね。あなたは私から離れたらもう怒ってるし、私が好きじゃないのね。魔法のせいでこんがらがっちゃうのよ。本当、魔法って面倒臭いわ」
ディアはため息をついた。
「そんなことしなくたって、こいつは魔法猫だから嘘なんて……」
「ちょっと待ってウィネバ!」
僕はウィネバの言おうとしたことを察知して割り込もうとしたが、間に合わなかった。
彼も言ってから慌てて口を塞いだが、もう遅い。
『すまねえ、ニィ。魔法が使えるの、内緒だったのか』
「えっ、今なんて言ったの?」
ディアが目を丸くしてウィネバを見た。ウィネバは口を押えたまま首を振った。
「ねえ、ウィネバは何て言ったの?」
今度はこっちを見た。
「し、しししししししししらないっ!」
僕は舌を噛んだ……魔法猫が無理矢理嘘をつこうとするとこうなるんだ。
「嘘おっしゃい。ニィ、あなたも魔法が使えるの? 魔法猫って嘘がつけないの?」
『マジですまん! 余計なことを聞かれる前に、先に言葉が理解できる魔法のほうだけ教えてしまえ!』
「そ、そうだよ。僕はね、猫以外の生き物の言葉も分かって話せる魔法を持ってるんだ」
「……すごい!」
ディアは仔猫が喜ぶように言った。
僕とウィネバは揃って「他には?」って続かないことを祈った。
だけど、予想の斜め上の出来事が起こった。
ディアが瞳を太陽で煌めく海のようにした途端、これまで真っ白で何も見えなかったはずの彼女の心が、ありありと、鮮やかに、僕の心にどっと押し寄せる海の高波のように伝わってきてしまったんだ!
『どうりで私も嘘をつくのが苦手だと思った!』
『ニィは魔法じゃなくって、本当に私が好きなのね!』
『ただの物知りな猫かと思ったら、ネズミともおしゃべりができたからなのね』
『人間の言葉も分かるのかしら?』
『もし人間の言葉が分かるのなら、飼い主で私を愛してくれた人たちが、どうして私を何度もぶったりしたのかも分かったかもしれないわね』
『人間は私を愛していると言いながらぶつのよ』
『みんな、私を好きと言いながら追いまわして苦しめるの』
『新しく家にやって来た人間たちも乱暴者に違いないわ』
『あの人たちは動物を殺すわ』
『人間には腑抜けと悪魔しかいないのかしら』
『本当に人間は嫌い。嫌い。……大嫌い!』
波は次第に高くなり、最後の『大嫌い』はまるで白い町の全てがそう叫んでいるかのように反響した。
覗くつもりじゃなかった。てっきり魔法か何かで心が読めないようになってるだけだと思っていた。理由は分からないけれど、とにかく謝らなきゃ。
でも、彼女は一体、どういう目に遭わされたって……。
「デ、ディア、聞いて」
ウィネバのときと同じ轍は踏みたくなかった。あとでバレて嫌われるのも嫌だけれど、それ以上に傷つけたくないと思ったから。
もうすでに、彼女はボロボロに違いなかった。
僕は彼女を助けたいと思った。彼女の為に。
……だけれど、僕は急に全部がどうでも良くなってしまったのだ!
「あっ、ディアお前また……」
ウィネバが何か叫んだ。
だけれど、そこから先のことはよく思い出せない。
今こうやって、暖かな白猫と時計台の機械室で身体を寄せ合って、お互いに毛づくろいしているんだから。
何だか言わなきゃいけないことがあった気がするけれど……。
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