Scene10 魔法猫ニィの驚愕と希望
僕は驚いた。
人間たちは見知らぬ猫の放った一撃で全員がひっくり返り、罠に掛かったネズミみたいにピクピクと身体を痙攣させていた。
そして稲妻が走った時、確かにその猫には影がなかったのを見つけた。
僕らに対して恩知らずなことを考えているウィネバも気付いたようだった。
しかし、大丈夫だろうか? 雷だなんて。いくら人間でも死んでしまうんじゃないだろうか?
「大丈夫じゃ。殺してはおらん」
僕たちに背を向けていた猫が振り返った。心を読んだ!?
白と黒の毛皮。ちょっと太っていて、顔にはふたつのハチ割れ。お決まりのおデコのハチ割れは人間の眉毛のようで、鼻の下もこれまた人間のヒゲのようになっていた。
「ニィじゃない猫が喋ったぞ!」「それに光を撃った!」「人間をやっつけてくれた!」
ネズミたちの間でどよめきと歓声が上がった。彼らにも言葉が通じるんだ。
「ワシはスクーターという猫じゃ。どうじゃ、イカす名前じゃろう? ちなみに今年で百三十六歳」
スクーターと名乗るハチ割れ猫は挨拶をした。……が百三十六歳の猫だって!?
「爺さん、すげえな。雷を出す魔法に、ニィと同じ言葉の魔法も使えるなんてよ」
ウィネバはこちらを見てニヤついている。
「それだけじゃないぞい」
スクーターはそう言うと、これも魔法だろうか、辺りを急に夜のように暗くした。
そして、顔の横に炎を起こして照らして見せた。
ウィネバの目を丸くしている顔が闇に浮かび上がる。
「暗くなった!」「火も起こせるの?」「お爺ちゃんカッコイイ!」
ネズミたちの称賛の嵐。
「じゃろう? ワシはイカすのじゃ。ワシは千の魔法を操る魔法猫。大賢者スクーターじゃ」
スクーターは顔を擦り、片目を閉じたまま肉球をペロリと舐めた。火は消え、辺りは昼に戻った。
「……助けていただいてありがとうございます」
僕は礼を言った。
「礼は結構。ワシは上からサーカスをタダ観させてもらっとったからの」
老猫が笑う。
「千の魔法って、本当かよ爺さん!」
ウィネバが訊ねた。
「比喩じゃよ、比喩。本当に千もあるのかは数えとらんから分からんよ」
「何か他にやってみせてよ!」
仔ネズミがせがんだ。彼はさっき死んだまぬけネズミの子供だ。
「うーむ。それじゃあ……ホイ!」
スクーターが右前足の爪の先を人間に踏まれてぺっちゃんこになったネズミに向けると、トマトみたいに膨らんで、なんと鼻をひくひくと動かし始めたかと思うと、頭を振って起き上がったんだ!
「い、生き返った!?」
僕らはそろってたまげてしまった。
「でも、まぬけを生き返らせてもしょうがないよ?」
仔ネズミが言った。
「それもそうじゃのう。えいっ!」
ふたたび爪で指すとまぬけ二十五代目はぺっちゃんこに戻った。
仔ネズミは「すごいね」と言って笑った。
「お爺さんは本当になんでもできるんですね……」
ウィネバはやたらと丁寧になった。何やら厭らしいことを考えてるみたいだ。
「じゃがの、他人に魔法を教えたり分け与えたりすることは無理じゃ」
スクーターがそう言うと、ウィネバは頭をガックリと落とした。
「それに、魔法が使えることが、必ずしも良いこととは限らんからの」
「何か変な魔法でも持ってるのかよ?」
「あるにはあるが、そんなこと教えてもしょうがないじゃろ。ワシのキンタマの裏からイワシの臭いがする魔法や、ワシの糞が美味しいローストビーフに変わる魔法なんての?」
「おえーっ!」
ウィネバは舌を出した。
「お主は、よく分かっとるようじゃの」
老猫は僕を見て言った。
僕は心の中で「そうです。僕は魔法なんて、持ってなければ良かったって思っています」と答えた。
口に出して言えばサーカス団を否定することになるし、ウィネバだって怒っただろう。
「ふむ……」
スクーターは目を閉じた。
すると、僕の頭に直接彼の声が響きだした。
『お互い心の読める魔法猫なのだから、このほうが楽じゃろ?』
『そうですね。スクーター。僕は自分の、この他者の心が読めてしまう魔法が要りません。余計なんです』
『確かにの。それひとつで他の者とは違う世界に生きることになるじゃろう。ワシは面白いから気に入っとるんじゃが、誰しもがそうとは限らんじゃろうな』
『どうにかなりませんか? 例えば、あなたの魔法で、僕の魔法を消してしまうとか。あるいは、つまらない魔法と取り換えてもらうとかでもいいんです!』
『すまんが、それはできんよ』
「おい、お前たち。互いに心を読んで会話をしてるだろう。ズルいぞ!」
ウィネバが声をあげた。他の団員たちは首を傾げて僕らを見守っているだけだ。
『僕はウィネバを、彼を傷つけてしまいました。友人になれそうだったのに。心を覗いたばっかりに』
『まあ、彼は雄じゃからのう。雌猫の考えを盗み見るのなら楽しいんじゃがの』
スクーターはそう思考を送ってまるで人間のような笑顔を作った。
『スクーター! そんな話じゃありません!』
『ほっほ、冗談じゃよ! 確かに、心を読まれたのを知るということは、相手次第では、殺されるよりも酷いことかもしれんのう』
『ウィネバの心は怒りに満ちています。僕への怒りと、それと落胆に』
『お主はのう、ちょいと真面目過ぎんか。猫なんぞこの世に何万匹も居るというのに。その中の一匹に嫌われたところで、どうだというのじゃ』
『彼は傷ついています』
『それがなんだというのじゃ? お主は、他者に良い顔をしたいだけではないのか?』
『否定はしません。でも、彼が傷ついたままなのが嫌だということも嘘ではありません』
『嘘をついているなんて言っておらんよ。お互いに魔法猫だし、それに心の中での対話じゃからの。嘘なんてつけん。お前は他者の心を読みすぎて、ちょいと自分が曖昧になっているようじゃのう』
スクーターはため息をついた。
『曖昧になってなどいません。僕は黒猫のニィで、彼は灰色猫のウィネバ。あなたは百三十六歳の魔法猫、そして大賢者だ。お願いします。僕に何か教えを。彼を助けるためのヒントをください!』
僕は叫び出しそうになった。
『……それが間違いなんじゃが。彼を傷つけたのは確かにお主の問題じゃが、傷そのものは彼の問題じゃ』
『同じことです』
『違う。……分からぬのならまあよい。具体的なヒントを授けてやることはできないが、お主の問題、魔法や影についてなら少し面白い噂を聞いたことがある』
『噂?』
「そうじゃ。つい最近の話なんじゃがな、ここから遠く離れた町、野山を超えた先にある町では不思議なことが起っとるんじゃ」
『不思議なこと』
「その国は影がないらしい」
『影が? どういうことでしょうか? ずっと夜? それとも……国自体が魔法を持っているとか、そういうことですか!?』
『知らんなあ』
スクーターはぷいとそっぽを向いた。意地悪っぽい仕草だが、彼は魔法猫だ。
『……分かりました。確かめに行きます。そこでなら、僕も自分が魔法猫であることを疑われずに暮らすことができるってことでしょう?』
『さあ、どうかの。行ったことはないからのう』
『僕、行ってみます。……独りで行きます。サーカスのみんなと別れて。そのほうが良いに決まっているから』
「そうかの?」
そう言うと、スクーターは一同を見回した。
僕を、ウィネバを、団長始めネズミたちを。
今や落ち着きを取り戻したケンピと、その上にまたがるボーヤンを。
「まあ、好きにするがよい。……では、ワシはそろそろ夕食を考えなければならんから、帰るとするかの。縁があればまた見えようぞ。『シルク・ドゥ・スクィーク』の諸君!」
老猫はヒゲと眉毛の模様を笑わせたかと思うと、辺りを強い光でパッと照らした。いっしゅん、すべての影が消えるほどに強い光。
僕は眩しくって目を閉じた。
ようやく目が慣れたと思ったら、もうスクーターの姿はなかった。
「ありがとう、大賢者スクーター……」
僕は決めた。彼の助言に従い、サーカスを離れ、影のない国を目指すのだ。
「ふうむ。ニィ、影がない国ってどんなところだろうねえ」
団長が言った。
「お化粧が楽そうだわ」美ネズミ。
「影と鬼ごっこできないのはつまらなさそうだわ……」
それから犬のケンピと、
「明るいのかな? リンゴを盗むのに苦労しそうだなあ」
猿のボーヤン。
「みんな、聞いてたの?」
僕は声をあげる。
「しばらく黙っていたかと思ったら、影のない国の話をしたじゃないですか?」
団長ネズミが首を傾げた。どうやら、知らないうちに普通に会話をしていたらしい。
「……僕は魔法猫だ。キミたちの言葉が分かる特別な。それが人間たちにばれると、今回や前回の騒ぎ以上に、団に迷惑を掛けてしまうと思う。みんな死んじゃうかも。だから、僕は出て行くことにしたよ」
「出て行く!? なんと!? それは初耳!」
団長はヒゲをピンと伸ばして耳をピクピクさせた。
……あれっ。どうなってるんだ?
僕はみんなの心を失敬して、状況を掴もうとした。
どうやら、途中から声に出して話していたのはスクーターだけらしい。
みんなの関心事は、早くも賢者猫から、一匹の団員の退団を何とかして引き留めることに移ったようだ。
僕を憎んでいるウィネバでさえ、僕の退団が気に入らないようだった。
「まあ、抜けるのは自由ですがね。猫も我々も自由な生き物ですから」
団長は胸を張り、言った。
それから「我々が同じく影のない国を目指すのまた自由」と付け加えて。
こうして、僕たちはふたたび一緒に旅を続けることになった。
「影のない国」を目指して。
いったいそこでは、何が待ち受けているのだろう。
僕は、僕たちはそこで、安寧と幸せを手に入れることができるのだろうか?
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