006
「じゃあ、お世話になりましたー。ありがとうでしたー。」
玄関先で見送る二人にちょこりと浅くだが頭を下げる。
家が隣なのにわざわざ見送りをする二人には甚だ疑問を感じるが、口には出すまい。
来るもの拒まず去るもの追わずという言葉がある。
誰が言ったのか、どこから広まったのかなんてことはわからないけれど、日本人ならば小学生までには少なくとも、必ず最低で一回は聞く言葉だ。
主に対人関係においてこのことわざは用いられる。
よって、この精神にのっとって彼女らの見送りを「来るもの」と考え、「拒まず」なので拒否しない。
僕は親切心なのだと受けとる。
有名な言葉だけあって良いことわざだ。
来るもの拒まず、去るもの追わず精神は社会をうまく渡り歩いていく上でそこそこに重要なものだと僕は考えているし、僕が対人関係の基本としてリスペクトしていることわざであることも事実。
僕は誰かに諭されてこの精神を重宝しているわけではない。
自分で選択した考え方、精神であり、まぁ自由。
しかしながら、相手との関係が親密になればなるほど、「去るもの追わず」なんてことは難しくなってくるわけで。
「来るもの拒まず」なんて簡単だ。
どんなことでも拒まず甘んじて受け入れよう、この僕のマグマ顔負けの心の温かさと宇宙のように無限に広がる器の大きさで。
「去るもの追わず」なんて聞こえは良いかもしれないが、置いていかれる方の気持ちなんてたまったもんじゃない。
負の感情しかなくなるに決まっている。
去るものを全速力で追いかけたくなる。
もし、去るものが突咲やおばさんだったら、なんて。
…………そういうことを考えるとこのことわざは、離れていても心が繋がっているから大丈夫、思いっきり行ってきなさい、と言い合える友をつくれということになるのだろうか。
だとしたらまだ僕と彼女たちとは浅い関係なのだろうか。
頭を下げ礼を言う僕におばさんは告げる。
「まぁ、別に矛利なら特に迷惑じゃないし、こっちも気を遣わねぇし、むしろ突咲の相手になってくれてこっちの立場としちゃあ楽だからまた来い。そういえば、最近は方流なかなか家に来てくれなくなったな。やっぱあれかな、自分の弟の友達とおばさんと遊ぶのはもう嫌なんだろうな。オトシゴロって言うの?そのくせ、大学受験だっていうのに、バイトに精を出しちゃって。最近の高校生の考えることは、おばさんにはもうわからないね。」
おばさんは僕に気を遣っていないと言ったが、僕に関わらずおばさんが誰かに気を遣っている場面を見たことがない。
たまたま僕がその場に居合わせていないのかもしれないが、僕が思うに、おばさんは相手を問わず人に気を遣わない。
それがおばさんのいいところであり、個性であり、僕が好きな部分だ。
だから、そんな気を遣わないおばさんなのだから、今の言葉も本心なのだろう。
僕は全然多凪家の迷惑じゃないらしい。
「本当に、受験シーズンにバイトって何考えてるのかわかんねぇよな。でもあの人、難関で有名の私立大学、ずっと判定がAらしいぜ。どうせ受かるんだろう。あと、多凪家に来なくなったのは、単純に忙しいだけだと思われるぜ。逆に、最近はおばさんのご飯食べたがってるよ。一昨日ぐらいに寝言で言ってたし。おばさんの飯が~。って。放っておけばそのうち涎垂らして多凪家のインターホン連打とかしてくるだろ。その時は飯の中に劇薬でも入れてやってくれていいぜ。ほら、あの食器棚の一番上の奥に入ってるクスリ。知ってんだぜ、あれやばいクスリだろう?」
「あぁ、あのクスリな。いつから知ってた、矛利。あの存在を知られちゃあ、最初の標的は方流じゃなくてあんただよ。」
「おいおい、思春期の男子高校生の体格を侮っちゃあいけないぜ。返り討ちにしてやんよ。いやでもおばさん、ここは協力して方流を天界に召させよう。共犯だ。どうよ、悪い話じゃねぇぜ。」
「残念だがその話にはノれないな。お前は賢いから共同で方流を潰しても罪を全部押し付けてあたしだけが警察に捕まるのがオチになるんだろう?お見通しだよ、馬鹿野郎。お前は頭の回転が速く賢いが、あたしは人生経験がお前より豊富で賢明な判断が出来るんだよ。」
「心外だなぁ、おばさん。僕はそんなに薄情な人間じゃないぜ?今までの恩を感じてるんだ、反対に、僕が全ての罪を着てもいいんだよ。それとね、人生経験が豊富だからといって賢明な判断が出来るわけじゃあ、ないんだぜ。確かに年上は敬うべきだろうが、失礼ならおばさん、ここで手を組まないという選択は、判断力に欠けるものだ。僕を賢いと思うのならば、ノった方がそれこそ賢明だぜ。」
「おい、あたしを流そうってか?相手を誰だと思ってる?大体ね、年上を敬うべきだと考えているのなら、お前一人で方流をこの世から消しちまえよ。それが年上を敬った行為、年上孝行だ。年上に手を汚させていいもんじゃないよ。」
「おばさん、何て冷たいこと言うんだ。それに、僕みたいな若者一人じゃあ人を殺めた上に僕が犯人だと気付かせないような完全犯罪なんてできないんだ。そこで年上の富んだ人生経験が必要になるんだよ。おばさんは人生経験が賢明な判断が出来る理由になると言ったけれど、僕はそうは思わないな。おばさんにはキツイ話かもしれないが、おばさんより突咲の方が立派な判断力を持ってるぜ。おばさんは年下の、しかも娘相手に負けているんだよ。」
「おいおい矛利、やっぱり年上に対する態度じゃないねぇ。それと、突咲を随分と過大評価してくれるじゃないの。自分の娘を低く見るわけじゃ、いや、低く見たいわけじゃあないけどね、突咲があたしより判断力に長けているとは到底思えないかなぁ。」
「いやいや、もっと自分の娘を誇りに思ってもいいんだよ。突咲の判断力は素晴らしいから。おばさんだって気づいているし、知っているはずだ。おばさん、見たことあるだろう?突咲の返ってきたテストの答案。あれは芸術と言っても過言ではないよ。」
「その話を持ってこられては、確かにって同意する他に言葉が見当たらないわ。矛利、あんた賢いというよりずる賢いね。腹が真っ黒。全く、急に頭が痛い話に路線変更しやがって。まだ楽しい茶番が続いても良かったのによぉ。」
「悪かったね、あたしのテストの答案が芸術で。でもあれかな、あたしの穴ぼこテスト答案が矛利の語彙力にかかると判断力が長けていることの証明になるのかな。嫌みなんだろうけどちょっと嬉しいわ。なんだろう、喜ばしい皮肉言われたの初めて。」
僕とおばさんの茶番を完全に遮断したのは突咲だった。
言葉とは対称的に、なんとも不機嫌そうな顔である。
今の突咲の言葉こそ皮肉を言っているものだ。
突咲のテスト答案は穴だらけだ。
なにかしら埋めている解より、問題と戦った形跡のない空白のスペースの方が多くの割合を獲得している。
原因は、突咲が問題を読んだ瞬間に点が取れる問題か捨てる問題かを判断し、テストとはいえ問題を選り好みしていくスタイルにある。
いらない判断力の独擅場だ。
突咲は、別にそれでいい、赤点いかなければ特に支障はないと言うが、支障ありありだ。
大学への進学のことを全く考えていないのだろう。
もうすぐ高校2年生になってしまうにも関わらず、だ。
まぁ、僕がああしろこうしろ言うつもりはないが、おばさんとしてはせめて問題の解を考えるぐらいはしてくれというのが本音らしく、怒りまではしないが突咲の弱みとして握っている。
おばさんがその話を持ち出したとき、突咲は涼しい顔をしていて真面目に聞いているのかなんてことは僕はわかったことではないけれど。
僕の、突咲を過大評価していないというのはあながち嘘ではなくて、突咲はその気になれば好成績を叩きだすだろう。
本気になったらこわいタイプだ。
「というよりも寒いんですけど。」
突咲は一回りも二回りも大きい、次期僕の物になるジャージの余った袖を弧を描くように振り回しながら不満を言う。
「いつまで玄関先で話し込むつもりだったのさ、1月のこの寒い夜に。しかもあたしをまるでこの場にいない存在のように扱っちゃってさ。それに食器棚のヤバいクスリってあたしの頭痛薬のことを言ってるのかな?頭痛薬なんかじゃ手は汚れもしないどころか逆に衛生が保たれるからね、馬鹿お二人様。」
「突咲、頭痛薬だって薬は薬なんだから、副作用ぐらいあると思うぞ。だからそうだな、衛生が保たれるというよりも、爪が少し伸びるくらいっていう例えの方が正解に近いと僕は思うな。」
「例えが凄くわかりにくい!どうしよう、これあたしの想像力、知識力、理解力が足りないだけなのかな、いやでもこんな例えの意味がもしわかったとしても何も嬉しくないんだろうなぁー。ああもう、これなんて返答をするべきなのか、正解がわからないんだが?でもそうだな、あたし真っ当に生きる人間だから邪道を行く矛利の言うことなんか理解できない、とでも言おうか。」
「突咲よ、僕を邪道に連れ込んだのは誰だと思っているんだ。僕は真っ当な道を歩んでいたはずなのに中学の頃、妙な病に侵されたお前が横から僕に手を出してきて邪道に連れ込んだんじゃないか。無理矢理の邪道スタートをおくる羽目になったんだぞ。」
「妙な病ってもしかしなくても厨二病のこと言ってんの!?嘔吐物を口から吐き出すぐらい思い出したくない過去なんだけど!?しかも邪道スタートなんて言葉初めて聞いた!矛利さ、『今日から使える!おもしろ言葉の引きだし!』なんて本を出版でもしたら?」
「いやぁ、本に書けるほどの量の言葉の引きだしなんか僕にはないからなぁ。いやぁ、あはは。」
「照れるな照れるな褒めたかったわけじゃない!よくまわる口だと嫌みをまぜて言ったんだ!」
「純粋に『矛利様の語学力には舌を巻くものがありますわ』ぐらい言ってみろよ。」
「マミー助けて、矛利に変なスイッチが入ってる。何モードなんだこれ。あたし将来精神科医になって矛利の生まれながらにして厨二病のような性格を治すことに努めたほうが良いのかもしれない。それが神があたしに与えた試練なのかもしれない。なんて重い試練なんでしょう。きっとあたしは前世で重罪を犯したのね。今世でこんな不幸な役回りを任されるなんて。いっそ、矛利を殺めてあたしも死んでしまおうか。いや、心中でもしてしまう?どうよ、矛利。」
「その考えに到ってしまう時点でお前も僕と同じくらいイカれてるぜ。突咲、お前はもっと自分が頭のおかしい人間だと自覚したほうがいい。」
「あんたにだけは言われたくねぇよ!!」
突咲のマジツッコミだった。
久しぶりの突咲のマジツッコミを聞けたことに感動していると、おばさんが再び口を開いた。
「あたしも矛利も突咲も皆頭おかしいよ。今まで気づかなかったのか?お前ら二人は自分自身を常人だと思っているようだがな、どっちもどっち、五分五分で頭イってるよ。あたしは自分の頭のおかしさを自覚している分はお前らよりマシだがな。」
「マミー開き直るなよ。」
「事実だろ。それよりあたしは寒い。君ら若者とは違ってあたしみたいなおばさんは体が軟弱なの。矛利、もう9時25分になる。方流はもうバイトから帰ってきてんだろ。そろそろ帰れー。」
おばさんが腕時計に目を落としながら告げる。
9時5分ちょっと過ぎぐらいに外に出たから15分以上は話し込んでいたようだ。
「僕が敬うべき対象としている年上に言われちゃあ反抗できないな。僕は潔く帰ることにするよ。じゃあ改めて、ありがとうでしたー。」
「あいあいさー。」
「あいあいさー。」
僕が足を進めだすと、まだ後ろで二人が家の中に入らず僕を見守ってくれている気配があった。
ありがたみとその必要性を感じながら多凪の表札を突っ切り、10秒後には宛良の表札を越えて20秒後には宛良家の玄関の前に立つ。
多少の力を入れると玄関はすんなりと開いた。
つい2時間前にはこの扉が開かないことを恨みがましく思っていたのに。
そんなこと知らないよとばかりにパカパカ開きやがって。
尻軽女の股か、僕の家の玄関は。
いや、自分の家の一部をこんな例え方をするのはなんか気持ち悪いな。
「ただいまー。」
追い出されたとはいえ、一応の挨拶をしておく。
今家にいるのは痴呆の進んだ祖母と天然で何を考えているのかわからない姉しかいないので返事を求めているわけではないけれど。
母は絶対返事を返してくれる。
しかし今は仕事中だろう、父と共に。
僕の両親は病院で働いている。
僕の父は医者、母は看護士という職業についており、決して大きくはないが病院を経営している。
普段は母だけでも速く仕事をあがらせて4時頃に帰宅し、それからは包丁で野菜や肉を切るリズミカルな音を奏でてくれるが、今日のように遅くまで父と共に仕事をしなければならない時があって、夜深くまで両親が家を不在にすることがある。
不満はない。
忙しいのは喜ばしいことだろう。
ぱたぱたとスリッパの音が未だ玄関にいる僕の耳に聞こえて来る。
姉は家の中ではスリッパなんて履かないから、祖母が移動している音だとわかるが、その音は近づいてきおり、僕のいる玄関を目的地としているようだ。
「あらおかえり、矛利。今日は遅かったね。多凪さんとこに行ってたの?」
なんとも素敵な笑顔。
今は正常なときなのだろう。
白髪が全くといっていいほど目立たない髪に光のある目は年齢を感じさせない。
しかしながら、祖母自身で僕を追い出しておきながらのこの歓迎はどういったものか。
痴呆が原因だとわかっていても笑止なこと笑止なこと。
「そうですよ。ばあちゃんは夕飯ちゃんと食べました?」
僕お得意の孫スマイルで話を繋ぐ。
「あぁ、家にカステラがあったからね。頂いたよ。もうお風呂に入りたいだろうけれど、方流が今帰ってきて先にお風呂入っちゃったから、あと40分は入れないと思うのよ。あたしはもう入っちゃったんだけれど。」
「大丈夫ですよ、まだ課題も終わっていないし。僕は部屋に戻ってますね。」
「そう。でもあまり遅くまで起きてちゃ駄目よ。あと、お風呂に入ったら湯冷めしないように早く寝なさいね。」
そのいつも聞く定型文に苦笑しながら、首を縦に振る。
「わかってますよ。」
祖母は子供に安心感を与えるおばあちゃんスマイルをし、それならいいの、と言いスリッパをぱたぱたと鳴らしながら元にいたであろう場所へと戻って行った。
そんな日常に僕は平和を感じとると、自身の自室へ行こうと足をふみだした。