寡黙な彼女と鈍感な僕
彼女と出会ったのは小学五年生の春先のことだ。
出会った、と表現するのには語弊があるかもしれない。何せ彼女とは四年間も同じ学校に通っていたわけだし、同じクラスになったこともある。覚えていないだけで、話をしたことがあったかもしれない。でも、明確に彼女という人物を意識したのはその時が初めてだった。
僕の学校では五年生から委員会に入らなくてはならない。僕と彼女は清掃委員会に入った。清掃委員会とは、その名の通り掃除をする委員会だ。普段使っている教室や廊下はクラスごとに当番を決めて掃除しているので、清掃委員会はたまに使う特別教室の掃除を担当する。僕と彼女は理科室に割り当てられた。他にも四人ほど理科室の当番はいたのだが、何せ面倒な作業だ。理科室自体あまり使われる教室でもなく、掃除は週に一回だけでよかったのだが、面倒なことに変わりはない。他の四人はほとんど来なかった。いわゆるサボりだ。先生に言いつければ注意されて渋々やって来たのかもしれないが、僕はそれで恨みをかわれるのが嫌だった。理科室の掃除も時間はかかるがさして大変なわけではない。彼女も同じ考えだったのか、特に文句を言わずに真面目に掃除をしていた。
彼女は寡黙だった。そこのチリトリ取って、みたいな事務的な会話はするけれど、それ以外は終始無言だ。教室で友達と一緒にいる時も自分から喋るようなことはあまりなく、誰かの話に相づちをうっていることばかりだし、彼女はそういう人なのだろう。僕も特に気にするわけでもなく、黙々と掃除をしていた。
そんな感じで週に一度の会合を繰り返していたある日、彼女のランドセルからポロッと人形が落ちた。
「あっ、イヌゲソさんじゃん!」
それは犬とイカを足して二で割ったような、珍妙な見た目をしていた。名をイヌゲソさんという。僕の好きな漫画のキャラクターだ。
イヌゲソさんの出てくる漫画はあまりメジャーではない。知名度も低く、僕の友達にも知ってる奴はいなかった。かくいう僕も、古本屋で隅の方にあるのをたまたま見つけただけだ。
僕は同志が身近にいたことが嬉しくて、ついつい彼女を質問攻めにした。
「お、お兄ちゃんが漫画好きで、私も借りて読んでて……」
「お兄ちゃんから誕生日プレゼントに貰ったの。イヌゲソさん、可愛いし……き、キモくないもんっ!」
「その漫画知ってるよ。こ、怖いから、あんまり読んでないけど……」
その日は掃除が終わった後も、一緒に帰りながら話をした。この時判明したのだが、彼女は僕の近所に住んでいたらしい。
それから、僕と彼女は漫画の貸し借りをするような仲になった。掃除の最中にもあの漫画は面白かったとか、あの漫画は悲しかったとか、そんな他愛のない会話をするようになった。掃除の後は一緒に帰った。掃除のない日でも、一緒に帰ることもあった。休みの日にはたまに僕が彼女の家へ遊びに行ったり、彼女が僕の家へ遊びに来たりした。
彼女と話すようになってからわかったのだが、彼女は僕が思っていたほど寡黙ではなかった。好きな漫画の話になると息もつかずに早口で喋る。面白いことがあると口に手を当ててふひひと声を漏らしながら笑うし、怒るとこっちが萎縮するくらいに怒鳴る。ただ、学校で他の人がいると無口になる。人見知りというか内弁慶というか、慣れるとそんな感じだ。
漫画の話をした。漫画以外の話もした。たまに喧嘩をして、お互いわんわん泣きながら謝った。
僕はかなりのインドア派で、学校以外で友達と遊ぶ、みたいなことはあまりしない。一人で漫画を読んだり、ゲームしたりする方が好きだ。彼女も僕に負けず劣らずのインドア派で、僕らが一緒に遊ぶとしたら、対戦あるいは協力型のゲームをするくらいだ。後は同じ部屋にいても別々のことをしてる場合が多い。でも、それが妙に落ち着く。面白い漫画を読んだらすぐに感想を伝えたり、ふと思いついたバカなことを言ったりして笑わせるのが楽しかった。
僕と彼女は六年生へと進級した。クラスも一緒で、僕らはまた清掃委員会に入った。理由は特にない。去年もしてたし、まぁ、なんとなく。僕が清掃委員会に立候補すると、彼女も間髪入れずに手を上げた。清掃委員会なんて面倒な委員会は競争率も低く、そのまま希望が通った。
今年は美術室の担当になった。今年は比較的真面目なメンバーが揃い、僕と彼女含め誰もサボらずに掃除に来る。美術室は使用頻度こそ大したことはないが、一回使われるだけでかなり汚れる。去年みたく二人で、というのは些か厳しいので、それについてはとても助かった。彼女は持ち前の人見知りを発揮して掃除の最中は無口だったが、終わったら一緒に帰りながら早口で喋る彼女の姿を見ることができる。休日はお互いの家を行き来して一緒に遊んだ。僕はこんな生活が続くんだろうなぁ、なんて漠然と思っていた。そんなはずはないということに気づくのはもう少し後のことだ。
僕らは小学校を卒業し、中学生になった。僕らの小学校の生徒は、中学受験をする一部を除き皆同じ中学校へ進学する。僕と彼女の場合、勉強はそこそこにいつも遊んでばかりいたので、当然受験はしていない。近場の同じ中学校へ進学した。近場と言っても小学校よりは遠く、自転車通学することになった。彼女は少しいい自転車を買って貰ったようで、自慢してきた。正直興味がなかったのでぽけーっとしていたら、彼女は怒ってポコポコ叩いてきた。彼女は力がないので全然痛くない。
中学生になると、男女間の隔たりが大きくなった。男子は男子同士、女子は女子同士で連んで固まり、男女間で話すことは滅多にない。敏感な年頃だ。お互いを意識していたのだろう。僕と彼女もその空気に影響されてか、あまり喋らなくなってしまった。
そんなある日、彼女が唐突に話しかけてきた。
「……部活、どこ入るか決めた?」
「僕? そうだなぁ、僕はバスケ部かな」
僕はあまり運動好きではないのだけれど、親に中学の内はなんでもいいから運動部に入っておきなさい、と言われていたので、文化部は選ばないようにしていた。その時仲のいい友達にミニバス経験者がいて、一緒にバスケをやろうと誘われていたので、バスケ部を選んだという流れだ。バスケ部だとモテるかも、なんて不純な下心も少しあったりして。
「ふーん、そうなんだ」
とだけ言われ、久々な彼女との会話は終わった。
部活初日、女子バスケットボール部の新入部員の中に彼女の姿があった。彼女も運動は好きではないはずなので、僕は少し驚いた。しかしまぁ、僕も人のことは言えない。男子バスケットボール部と女子バスケットボール部はランニングやストレッチなどの前準備は合同で行うが、ボールを使った練習は別々だ。練習中は私語厳禁だし、休憩中もわざわざ男子の所へ行ったり女子の所へ行ったりはしない。運動不足気味な僕にとって練習はキツく、部活の間は彼女のことなど気にしている余裕はなかった。
部活の後片付けが終わり、僕は自転車に乗って帰路についた。途中、彼女を見かけた。バスケットボール部は男女同じ時間に終了するので、帰宅時刻が似通うのは当然といえば当然だ。
やぁ、と僕は彼女に声をかけた。すると彼女は、うん、と控え目に頷いた。二人きりなのに無口な人見知りモードなのは久々で、寂しいような悲しいような、微妙な気持ちになる。いたたまれなくなって先に行こうとすると、不意に彼女が話しかけてきた。
「ねぇ、あの漫画の新刊読んだ?」
「え? ……あー、まだ読んでないや」
「なんで!? 今回すっごく面白いんだよ! 早く読みなよ!」
すると、彼女は以前のように早口であの漫画が面白いだの、あの漫画は期待はずれだっただのと喋り出した。僕はその姿にホッとして、彼女と笑い合った。
彼女のことはそれなりの頻度で帰りに見かけるようになり、お互い気づくとやぁ、うん、と声をかけて話すようになった。学校にいる時は相変わらずだけど、疎遠になることもなく、そこそこの関係でいた。
小学生の時みたいに、彼女とお互いの部屋へ行き来することはなくなった。とは言っても、彼女の家にはよく行く。それというのも、その時僕は彼女のお兄さんと仲よくなっていたからだ。彼女の趣味の大本はお兄さんであり、必然僕とお兄さんは趣味が合った。お兄さんの部屋で駄弁っていたりゲームしていたりすると、たまに彼女がフラッと現れて混ざってくる。そんな生活もまあまあ楽しくて、部活の練習はキツいけど、結構充実していた日々だったと思う。
中学三年の夏。部活を引退し、そろそろ本格的に受験勉強をしなければならない時期。お兄さんと彼女の三人でゲームをしていると、彼女は不意に聞いてきた。
「志望校ってもう決まった?」
僕は、近場にある偏差値はそこそこだけど、ここら辺では一番レベルの高い高校の名を口にした。
「ふーん、そうなんだ」
そこはお兄さんの通っていた高校でもあり、お兄さんは入学してすぐは校歌を覚えさせられて大変だったとか、校則は緩いから意外に自由だとか、OBとして高校について色々と語り始めた。
彼女は早々に推薦入試に合格し、受験勉強から解放された。彼女の合格先は僕の志望校だった。彼女は頭がいい。都会の方にあるもっとレベルの高い高校だって十分に狙えたはずだ。それでもこの高校を選んだ理由は、まぁ、近いからだろう。遠い学校は通学に時間がかかるし面倒くさい。実際に僕の友達にも、通学の時間を勉強に当てた方がいい、なんて言ってこの高校を選んだ奴もいる。仲のいい友達もそれなりにいるだろうし、それも理由の一つだろう。今は人のことを気にしている時期ではない。僕も一応合格水準くらいの学力はあるが、油断して落ちたら情けない。無理しない程度に頑張ろう。
そしてその春。僕は無事、志望校に合格した。
高校生ともなると、異性と関わることへの抵抗も大分薄れ、男女で会話する姿も珍しくなくなった。
ここまで来てようやくと言うか、やっとと言うか、彼女と学校で普通に喋ることができるようになった。これは高校での雰囲気もあるだろうが、彼女の変化が大きな要因だろう。この頃になると、彼女の人見知りは鳴りを潜め、誰とでも分け隔てなく接する社交性を身につけ始めた。
おそらく、部活動がいい方に影響したのだろう。控えめに言って運動嫌いだった彼女は高校でもバスケットボール部に入部し、一年ながらベンチ入りを果たしたそうだ。それに対し、僕は緩そうな文化部へ入部した。三年間バスケットボールを続けて実感したのだが、僕はどうやら運動音痴らしい。バスケットボールを続ける気力もなく、激しい運動とは無縁な高校生活を送ることに決めた。
休み時間になると、たまに彼女がふらっと現れては他愛のない話をした。お昼を一緒に食べることもままあった。彼女は僕の男友達とも仲良くなり、僕も彼女の女友達とそこそこ喋るくらいには仲良くなった。
そんなある日のことだ。入学してすぐ仲良くなった友人が言った。
「お前らが幼馴染みって本当?」
お前ら、とは僕と彼女のことだろう。
うーん、どうなんだろう。彼女とは小学五年生からの仲だ。幼馴染みというには知り合うのがちょっと遅い気がする。でも、その前から学校自体は同じなわけだし。そもそも幼馴染みの定義って……。
「そんなことはどうでもいいんだよ。ようするに、前から仲良かったんだろ? 実はさ……」
友人は、彼女のことが気になっているらしい。それで、普段彼女と仲のいい僕に取り持って欲しいとのことだ。
僕は恋愛の経験などなく、そういったことを上手くやれる自信はないと告げた。
「それでもいい! お前だけが頼りなんだ!」
あれこれ理由をつけて断ろうとしたものの、結局押しの強さに負けて引き受けてしまった。
まぁ、大したことではない。ようは、彼女と話す機会をそれとなく増やしてやればいいだけだ。その後どうなるかは友人次第だが、そこは頑張っていただこう。
そうだな、とりあえず彼女や彼女の友達も誘ってどこかへ遊びにでも行こう。そこでさりげなく友人と二人きりにしてやるのだ。難しいことは何もない。早速計画をたてようじゃないか。
それから三日後、僕の計画は彼女にあっけなくばれた。僕的にはさりげなさを装ったつもりだったのだが、彼女の目には不自然に見えたらしい。
彼女はそれはもうお冠だった。こんなに怒っている彼女を見たのはいつ以来だろうか。というか、ちょ、やめてください。痛い、痛いです。あなた運動部でしょうが。貧弱な僕とは腕力が違うんだから。
それから一ヶ月の間、彼女の怒りは収まらず、散々な目にあった。因みに、友人は普通に振られたらしい。
時は流れ三年の春。彼女は女子バスケットボール部を率いるキャプテンに昇進していた。かくいう僕は今や立派な幽霊部員。どこで差がついたのか。根性とかかな?
それはともかく、ある休日の昼下がり、僕は自室で彼女に問い詰められていた。
「ねぇ、佐藤さんと付き合ってるって本当?」
佐藤さん。僕と彼女のクラスメイト。そして、僕の彼女。ガールフレンドだ。
先週、僕は佐藤さんに告白された。
佐藤さんとは元々それなりに話すし、比較的仲はいい方だ。告白されたことに対しては驚きもあったが、僕自身佐藤さんのことは嫌いではなかったし、オーケーと返事をした。しかしまぁ、佐藤さんへの好意というより、付き合うということに対しては興味があったというのが一番の理由かもしれない。
彼女の問いに肯定すると、うつむいて動かなくなったかと思いきや、急に後ろを向いてこう言った。
「帰る」
「え? まだ来たばっかりじゃ……」
「佐藤さんに、悪いし」
彼女は少し震えた声でそう言い放ち、そのまま本当に帰ってしまった。
次の日、教室で会った彼女はいつものように挨拶してきた。しかし、普段とは何か違う気がする。表面上は変わりないのだけど、何かこう、壁のようなものを感じた。
違和感が続けばやがて日常の一部に溶け込み、いつも通りの風景になる。彼女とは喧嘩したわけではない。前みたいに挨拶もすれば、冗談だって言い合う。あの時感じた壁のようなものは、今や僕と彼女の普段の距離となって定着していた。
そんなある日の夜、自室で勉強をしていると、彼女のお兄さんから電話がかかってきた。
「よう、久しぶりだな」
最近はお兄さんとも遊んでいない。三年生は部活を引退し(幽霊部員の僕にはあまり関係のないことだが)、受験勉強に集中する時期がやってきたのだ。
「やぶから棒で悪いんだけどさ、志望校はもう決まったのか?」
唐突な質問に少々困惑しつつも、僕は隣県の国立大学を目指していると伝えた。
「あー、あそこか。国立としては難しい方じゃないが、大丈夫なのか?」
確かに、今の僕の成績ではやや背伸びした目標ではある。だが、努力次第では手が届かないというほどではない。僕もそれなりに頑張っているのだ。
「そうか。まぁ、応援してるよ」
その後、互いに沈黙する。もう用件は終わったのだろうか。それならと電話を切ろうとした所で、お兄さんが躊躇いがちに聞いてきた。
「……お前、彼女ができたらしいな」
彼女、というのは佐藤さんのことだろう。
佐藤さんとはあれから変わらず付き合っている。今は受験勉強で忙しく学外で会うことは減ったが、学校では一緒にお昼を食べたり、SNSで軽く会話をしたりしている。関係は順調と言えるだろう。
「彼女がいるんなら、もっとキッパリとした態度を取ってやらないとあいつが……いや、違うな」
と、急にお兄さんの声色が変わった。
「すまん、忘れてくれ。態度を改めるべきなのはお前じゃないわな。勉強の邪魔して悪かった」
そう早口にまくし立てると、そのままお兄さんは電話を切ってしまった。
結局、何が言いたかったのだろうか?
疑問を残しながらも、僕は勉強を再開した。
次の春。僕の努力は実り、見事志望校へ合格した。
これから僕が通うことになる大学は隣県にある。実家から通えなくもないが、通学に大変時間がかかるため、この度アパートで一人暮らしを始めることになった。
荷物はさして多くない。ゲームや漫画といった趣味のものと数えるほどの衣服くらいだ。家具はアパート探しの時に勧められた新生活応援セットなるものを注文してまとめて買ったし、他の生活必需品は追々買っていけばいいだろう。
荷解き(主に本棚へ漫画を収納する行為)を終え、一息ついていると、遠慮なく玄関のドアが開かれた。
「どう、終わった-?」
「今ある荷物は大方片付いたかな。まぁ、買い足さないといけないものがいくつかあるんだけど」
「もういい時間だし、それは明日にしようよ。それより、ご飯食べに行かない? 近くに美味しい定食屋さんがあるんだ」
一足先に引っ越しを終え、近所を見て回っていたらしい彼女は、ご機嫌にそう言った。
意外なことに、彼女も僕と同じ大学へ入学していた。彼女の学力ならばもっと上の大学を受験していたと思っていたのだが、予想は外れたらしい。詳しい理由は聞いてないが、おそらくセンター試験で失敗して大学のレベルを下げたとか、そんなところだろう。
「ここのね、親子丼が美味しいんだー」
彼女に勧められるまま親子丼を注文する。彼女は焼き魚定食を注文した。
「親子丼は……?」
「昨日食べたし」
「あ、昨日も来たんだ」
そんな他愛のない話をして注文を待つ。注文が届いてからは会話を一旦止め、黙々と料理を食べ始めた。
思えば、彼女とは小中高校に続き大学まで同じになる。随分と長い付き合いになったものだ。
小学生の頃は、彼女と過ごす日々がただ楽しくて、それが延々と続いていくものだと、疑いもせずそう思っていた。
中学生になると、そんな日々は終わり、彼女のいない日常を過ごすようになる。幸い疎遠とまではいかず、お兄さんや部活を通してたまに交流はあった。だけど、きっと少しずつ離れていくんだろうなと、寂しいようないたたまれないような、微妙な気持ちを経験した。
高校生の間は、表面上は彼女と一番如才なく付き合えていたと思う。でも、あの内気だった彼女が皆の中心で笑っていて、僕は彼女がまた遠くへ行ってしまったような、なんとも言えない寂しさを感じた。前へ進む彼女に負けじと僕も恋人をつくってリア充の真似事なんてしてみたものの、彼女との距離は離れる一方だった。
大学生の僕らはどうなるのだろうか。彼女は今、僕の目の前で魚の骨を取るのに悪戦苦闘している。今彼女の側にいるのは僕だ。でも、時間が過ぎればどうなるのだろうか。彼女はそこそこモテる。これまでは何故だか浮いた話は一度も出てこなかったけど、大学でいい人が見つかって、彼氏をつくるかもしれない。そうなったら、ここにいるのは僕ではない他の誰かになるのだろうか。
そうなったら、僕は……。
「どうしたの? 箸、全然進んでないけど」
「いや、ご飯が熱くて。少し冷めるのを待ってるんだ」
「ふーん?」
定食屋からの帰り、彼女はコンビニによってお酒を買ってきた。
「一度飲んでみたかったんだよね。大学生記念ってことで」
不良め。
お酒は苦い。
大学生になって初めて飲んでみたお酒の感想は、随分と子供じみたものだった。
ビールは正直飲めたものではない。アルコール度数の低いフルーツ系チューハイがギリギリ飲めるという程度だ。そちらも正直、好んで飲みたいとは思えない。
僕が渋い顔でチビチビとチューハイを飲んでいる傍らでは、彼女が豪快にビールを煽っていた。
「私、こういうの嫌いじゃないかも」
そう言いつつ四本目の缶を空にする。それでもまだ満足してないのか、僕が一口飲んでギブアップしたビールの缶をかっさらっていった。
「いらないならちょーだい」
返事も待たずに口をつけ、そのまま流し込むように飲み干す。なんと一気飲みである。
ぷはー、と一息ついて、そのまま彼女は寝転がった。
「ちょっと、大丈夫?」
「あははー! なんかこういうの、いいねー」
僕の心配をよそに、彼女は大層ご機嫌だった。
そのまま横になってくつろぐのかと思いきや、急にガバッと起き上がり、テーブルに体を預ける。
「ねーねー、佐藤さんとは最近どうなのさー?」
なんというかこう、いつにも増して遠慮がないというか、馴れ馴れしい感じがする。彼女は絡み酒するタイプなのかもしれない。
「佐藤さんとは別れたよ」
「……え?」
佐藤さんとは別れた。とは言っても、別に喧嘩したとかそういうわけではない。
大学が離れ、遠距離って大変だよなーって話をして、なんとなく別れた。特別なことは何もない。遠距離恋愛を続ける自信がなくて、お互い自由の身になった。それだけだ。
そんな話を、彼女は真顔で聞いていた。
「……ねぇ、ここに座って」
ベットをポンポン叩きながら言う。
え、なんで?
「いいから!」
困惑しつつも、彼女の言うことに従う。ベットの上に座ると、急に彼女が覆いかぶさってきて、こう、押し倒された形になった。
「え、ちょ、なに?」
「好きなの」
え?
「あなたのことが好きなの。小学生の時から。ずっと好きで、彼女ができたって聞いた時は凄いショックだった。何度も後悔した。どうしても諦められなくて、大学にまでついてきた」
彼女は好きな漫画を語る時のように、息もつかずに早口で喋る。
「このままじゃダメだって、ずっと思ってた。ただの友達として仲良くしていこうって、やっと、やっと決心がつきそうだったのに。なのに!」
彼女は僕を押さえつける力を強める。非力な僕の腕力では脱出できそうにない。
「なのに、なんとなく別れたってどういうこと!? そんな簡単に別れられるものなの!? 悩んでた私がバカみたいじゃん!!」
と、彼女はこちらが萎縮するくらいに怒鳴った。
突然のことで理解が追いつかない。というか、怖い。僕、涙目である。
「付き合って」
え?
「私と! 付き合って!!」
えっと、その。
「何? 嫌なの?」
嫌ってわけではないけど……。
「じゃあ付き合おう! はい付き合った! 今から私たち恋人ね!」
つい先程までとは打って変わり、彼女はご機嫌に、ふひひと声を漏らしながら笑う。
「ちょっと待って、少し落ち着こう? 顔真っ赤だし、酔っ払って……っ!?」
彼女をなだめようとしていると、彼女は僕の唇を自身のそれでふさいできた。
「…………っ!」
「……ぷはっ! 折角恋人になったんだし、ね? ね?」
そうして、彼女は僕の服に手をかけ……。
えっ、ちょ、まっ。
汚されてしまった……。
気がつくと夜が明けていたらしく、窓から朝日が差し込んでくる。
辺りを見渡すと、部屋の隅で小さくなっている彼女を発見した。
「私はなんて……なんてことを……」
どうやら酔いが覚めて、昨夜のこと思い出しているらしい。
とりあえず、彼女の飲酒は禁止にした方がよさそうだ。
「あの」
「あっ! 昨日はごめんなさい! 私酔ってて……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「大丈夫だから、落ち着いて」
彼女とは、なんだかとんでもないことになってしまった。
でも、この先も彼女と一緒にいられるのならそれでいいかとも思う。
僕はひとまず錯乱しているのをなだめるため、彼女の……恋人の手を握った。