謎のはじまり
梅雨も終わりに近づき、いよいよ本格的に夏が訪れようとしていた7月頭のある日。
秋沢楓は、1人の名探偵と出会った。
それは、本格的に夏の暑さが本格的なものになってきた日の事であった、楓は早足でバイト先の喫茶マーブルへと向かっていた。
月日が経つのは早いもので、楓が高校に入学してからもう三ヶ月、バイトを始めてからも二ヶ月が経つ。最初はバスで学校へ通ってその上バイトまで、などと思っていたのだが、案外人間というのは新しい環境への適応が速い生き物ならしい。
ふわりと生温い風が吹き、肩の辺りで切りそろえられた楓の髪を揺らす。校則の緩い高校に入ったのをいい事に茶色く染めた髪も今ではすっかり馴染み、楓の高校生活への適応具合を象徴しているようだった。
東京都の所謂下町と呼ばれるような、そんな街の何でもない道路に佇む小さなバス停から10分程歩いたところに喫茶マーブルはある。小さな店舗に手書きの看板、少し古びた焦げ茶の扉。どこかアンティークな雰囲気の漂う店の外観を楓は密かに気に入っていた。店内も期待を裏切らずアンティーク調のインテリアで固めてある喫茶マーブルは、その落ち着いた雰囲気とコーヒーの味が話題となり、地元の人々から根強い人気を誇っている。
いつものように扉の前に立った楓は、まさか今日、これからの生活を大きく左右する人物に出会うだなんて露ほども思ってはいなかった。
扉を潜るとエアコンから吐き出される冷気がそっと頬を撫でる。ちょうどお茶時のこの時間、店内はそれなりに混み合っていた。はやく準備してヘルプに入らないと。楓は急ぎ足でカウンターに近付いた。
「こんにちは。」
「あら秋沢さん、こんにちは。」
カウンターの奥にいる人影に声をかけると優しい声で挨拶が返ってきた。美しい黒髪を揺らして振り向いた女性の名は黒崎千恵子。この店のベテラン店員だ。年齢は30余りといったところだろう。
彼女はこの店のすぐ近くで夫と2人暮らしをしている。いつも笑顔を絶やさない美人で、仕事振りも丁寧だと、客からの評判もいい喫茶マーブルの名物店員だった。
「今日も学校?毎日大変ね。無理して体を壊さないようにね。」
「はい、ありがとうございます。気を付けます。」
ぺこりと礼をして楓はカウンターのさらに奥にある従業員の準備用スペースへと歩いていった。
さぁ、早く喫茶店の制服に着替えないと。
初めてまだ2ヶ月程ではあるものの、楓のバイトは実に順調そのものだった。そして、今日も何事も無く与えられた仕事をこなし、さてそろそろシフトも終わるだろうかといった夕暮れ時に事件は起こった。
「おい、店長を呼べ!!」
静かな店内に急に響き渡った誰かの怒声。慌てた様子でそちらへ駆けていった店主につられて楓も思わずカウンターから飛び出すと、声の主は窓際のテーブル席に座っていた60代くらいの男性客だった。楓はその客に見覚えがあった。当たり前だろう。つい先程料理とコーヒーを運んだ客なのだから。あの時温和そうな表情で小さく礼を言った姿は見る影もなく、深い怒りが彼の顔を覆っていた。
ざわり、と嫌な予感が胸に落ちる。
「いったいなんなんだこの店は!
さっき頼んだホットサンドイッチにこんなものが入っていたぞ!!
こんなものを飲み込んでしまったらどうなるか……想像しただけで恐ろしい、訴えてやる!!」
キラリ、男性の指に摘まれた何かが鈍く光る。店主が頭を下げた姿を見て、ようやく何が起きたのかを理解した楓は、全身の血の気が引いていくのを感じた。
光ったそれは、直径5cmほどの金属球だったのだ。
穏やかだった夕暮れのカフェで突然起きた異物混入事件。
この非現実的な空間の中心にいるのは他でもない、秋沢楓本人だった。
「では、このサンドイッチは君が作って、君が運んだ。君以外の人が触れる余地はなかった。
そういうことかな?」
店主の静かな声が店内に響く。
平日の、あと1時間程で閉店となる店の中は閑散としていた。
喫茶マーブルの店主、店員の黒崎と楓、この騒動の発端となった男性客、事件と無関係な客が2組。店内にいる人間はそれで全てだ。そして、確実にその中にこの事件の犯人はいるだろう。
こうなるとそのホットサンドイッチを作り、そして、運んだ楓が真っ先に容疑の目を向けられるのは明らかだった。
「待って下さい、マスター。確かにあたしは黒崎さんが焼いたトーストを受け取り、それに具材を挟んでお客様の所へ運びました。
ですが、あたしはそんなもの入れてません。大体、あたしにそんなことして何のメリットがあるんですか!!」
「そんなこといくらでも考えられるだろう。
お前はここの店主を恨んでいたのかもしれないじゃないか!
それで店を潰す為に私の頼んだものに金属を入れた。
そうなんだろう、この犯罪者が!」
必死に弁明をすると、男性が声を荒げて反論する。
その形相に一瞬言葉が詰まるが、ここで折れる程楓の精神は軟弱ではなかった。元々勝気な質なのだ。身に覚えのない犯人扱いをされて黙っていられるはずがない。
「そんなことありません!マスターも黒崎さんもすごくよくしてくれて……あたしはここの職場が大好きです!
あなたの自作自演なんじゃないですか!?」
「何故そうなるんだ!私の自作自演…?ふん、馬鹿馬鹿しい。
大体私はこの店に来たのも初めてで、この店の者とも一切面識がない。
動機ならお前よりよっぽど薄いんだ!」
男性が勝ち誇ったように言い放つ。
店主が何も言わないところを見るに、彼の言っていることは本当らしい。
それなら、あの金属球を入れたのは誰?困り果ててしまった楓は縋るように店主を見上げる。
「ねえマスター!信じて下さい!!あたし、あんなことしていません!黒崎さんも!!」
1歩離れたところで様子を見守る黒崎は青ざめた顔で口元を手で覆っている。店主はいつもの無表情だ。
「ねえ、お願いです!あたし達、一緒に働いていたじゃないですか!信じて下さい!!あたし、あんなことしないです!」
死にものぐるいで叫ぶと、しん、と店内に沈黙が降りた。
「私だって、君がそんなことやる人だとは思いたくない。けれど……」
その先をぼやかしたのはマスターの優しさか。そんな優しさ、要らない。
じわりと滲みかけた視界を振り払うように楓は小さく首を振った。
このままだと、あたしが犯人ということになってしまう。これが学校に知られたら?親にも信じてもらえなかったら?
この先どうなってしまうんだろう。
その時だった。
「すみませんが、その話、詳しく聞かせて頂いても?」
よく通る声が沈黙を突き破った。