〈番外編〉そのご主人の遺憾
目の前に、死にそうな子供がいた。だから助けた。
それだけで、セナは俺を神か何かのような目で見る。
俺は…何を間違えた?
物心つく前から、家族の中心は爺様だった。金の亡者で、両親の結婚もそうした打算からの政略だった。
お袋はいつも泣いているだけの女だった。
親父は爺様に従う事しかできない男だった。
数年に一度会うか会わないかの爺様と、数える程しかない暖かな記憶すら忌まわしい、糞みたいな両親。
まともな人格形成が成されたら、それこそ異常だと思える環境の中、一度だけ、両親に強請った事がある。少しだけでいい、夕食を共にするだけでいい、年に一度だけいい、家族としての時間が欲しい。「絵に描いたような幸せ」が欲しいと。
「貴方も私を苦しめるの?この家の人間は揃いも揃って私を苦しめる」
それがお袋の答えだった。
「人間一人も養った事ないガキが利いた風な口をきくな!」
それが親父の答えだった。
そして俺は全ての期待を捨てた。
こんな筈じゃなかったと、幸せになりたかったと、この世を呪いながらお袋は死んだ。
己を哀れむだけで、女に逃げ、女に溺れ、そしてその女に親父は殺された。
お袋が死んだ時も、親父が殺された時も、爺様は商売に勤しみ、手紙一つで事を済ませた。最後の義務として葬儀の喪主は俺が務めた。
財産の相続と爵位の世襲はいつの間にか爺様が済ませていた。反発も抵抗もせず職を継ぎ、煩わしいと思いつつも宮廷内の仕来り通りに立振舞い続ける内、有能と称されるようになった。爺様と親父が築き上げた財を、地位を、権力を、名声すらすべて壊してやるつもりでいたが、気付けば朱に染まっていた。糞みたいな両親を持った俺もやっぱり糞だった。
名実ともに三代目・ジェスタ卿と呼ばれるようになった頃に、子供を助けた。
街道の側溝。腐ったパンを握りしめたまま行き倒れていた。馬車に轢かれた跡があった。
微かに息があり、放っておいて死なれても寝覚めの悪いと、抱き上げた小さな身体は驚くほど軽い。
悪友の伝手で腕がいいと評判の薬師に子供を預けた。
生き延びる見込みは低いと見立てられた。怪我より何よりひどい栄養失調で、水すらも碌に飲めない状態だった。暖かな場所で最期を迎えさせてやれるのが、せめてもの手向けだろうと思った。
だが子供は生き延びた。
引き取ろうと思ったのは、その子供の眼差しだ。
直向きで幼気で…助けた俺を、まるで神でも見るような目で見ていた。
恩義に感じる必要はないと、助けたのはたまたまだと伝えても、その眼差しは揺らがなかった。
駒になる。
単純にそう思った。
生き延びたなら、恩義に感じているのなら、俺の役に立てと。
だがいずれ、俺という人間が如何に矮小で取るに足らない存在であるかを知り、裏切られる事になるだろうとも。
そして俺は命をひとつ手に入れた。
その重さに気付きもせずに。
子供をセナと呼んだ。
拾った当時着ていた襤褸切れのような服の背に書いてあったから、それがこの子供の名前だと疑わなかった。名前がなかったと知ったのは随分と後になってからだ。ただ覚えていないだけなのか、盗んだ服を着ていたのか、そもそも服の背に書かれた文字が果たして名前だったのか…今となっては確かめようもない。
隠居の身となった爺様は暇を持て余していたのか、子供の世話をするようになった。好々爺然とした振る舞いは、以前の金の亡者の面影はない。実の孫よりも、何処の誰とも知れぬ子を可愛がる姿に釈然としなかったが、それが俺に対しての贖罪だと気付いた。今更と思ったが、子供には教育が必要で、一代で財を築き、爵位を授与された爺様は適任だった。
字を教え、計算を教え、生きる術を教えた。賢い子で、砂が水を吸収するかのように様々な知識を身につけていく。一人の優秀な人間を見出した充足感は、その才能の開花を見届けたい欲求に繋がった。
本当の年齢はわからなかったが、子供にとって学ぶには早すぎる専門的な知識も教えた。
周りの諌める声や気遣う声は、雑音として処理した。
そんな俺を見ていた所為だろう、子供も俺以外の声は雑音として捉えるようになった。
過ごす時間の長い爺様より、俺に懐いたのははっきり言って痛快だった。そんな子供と寝食を共にすれば、それなりの情も湧く。何に怯えるのか時折、頼る縁は俺だけだとばかりに泣き縋る。昏い喜びを感じた。そんな自身を心の底から嫌悪した。せめてこの子供の信頼足るべき人間であれば良かったが、積年の習慣は一朝一夕で変わる筈なく、変えられる筈もなく、欲に塗れた手は拭いようもない程穢れていた。
いつかこの子供は、俺が蒔き散らした罪の種を、残酷なまでの純真さで断罪するだろう。
いつかこの子供に、侮蔑の目の色で見られ、蛇蝎のごとく嫌われるだろう。
子供を助けた当初からあった諦念は、恐怖に変わった。
いっその事、子供の性根が腐ってしまえばいいとさえ思った。
そうすれば駒として、一生飼う事もできる。悪事に慣れ、罪を罪とも思わぬ程堕ちればいい。
だが、助けられた恩義を感じているのか、物事の道理を、倫理観を、社会通念を学んで尚、子供にとって、俺は絶対的な存在であり続けた。
覚えたての典礼の挨拶を得意気に披露する様。
こまっしゃくれた態度の後、顔色を窺う仕草。
気まぐれで買い与えたぬいぐるみを、宝物だと抱いて眠る姿。
俺を求めて伸ばされる小さな手。
簡単に振りほどける程の、抱きつく腕の力のなさ。
碌な考えもなしに名付けたような名前を呼ぶ度に見せる、ひどく嬉しそうな笑顔。
そして俺は、願ってしまった。
忌まわしい記憶の中、親父が、お袋が、願ったのと同じように。
子供の…セナの幸福を。
死んだように眠るセナが、本当に死んでいるのではないかと、何度が呼吸を確認する。
弱しい呼気に、この小さな身体には辛い筈の熱が籠っている。擦過傷、打撲、切り傷は身体の至る所にあった。折れた肋骨が肺に刺さっていなかったのは奇跡だ。苦しげに息を吸い込む時に必ずうっすらと目を開け、キョトと辺りを見回す。ベッドサイドにいる俺を見つけると暫くジッと見つめ、安心したように再び眠りに落ちる。何の意図もなく、朦朧とした中での無意識の行動に、胸が締め付けられ、後悔と呼ぶには苛烈過ぎる激情が沸き上がる。
残務処理で、爺様と共に宮殿に出仕し、全ての雑事を終え戻った時、セナはいなかった。
あらゆる伝手を使い、数刻後に見つけた時、セナは虫の息だった。
何処で間違えた?何を間違えた?
何も望まないセナに、幸福すら望んでいなかったセナに、幸福を願ったのが間違いだったのか?
俺のような人間が、誰かの幸福を願った事が間違いだったのか?
幸せになりたいと…願ったのが間違いだったのか?
そうだ。幸せになりたかった。
俺だって幸せになりたかったんだ。
俺にだって幸せになる権利がある。
親父のようにはなりたくない。
お袋のようにはなりたくない。
爺様のようにはなりたくない。
ただ…幸せになりたかった。
だがそこに見返したかった気持ちはなかったか?
人間一人を真面に育てる事もできなかった親父を、この世を呪いながら死んだお袋を、今更の贖罪をする爺様を、見返したいと思う気持ちはなかったか?
全ての期待を捨てて手にしたのは、幸せに対する醜悪な執着ではなかったか?
セナを幸福にしたいという思いすら、自己憐憫ではなかったか?
その中で、セナが繰り返した言葉の意味に気付いた時、歓喜に震えなかったか?
俺に、たまたま助けただけの、たったそれだけの事で俺に、セナは簡単に命を差し出す。
幼い頃に渇望した「絵に描いたような幸せ」ではないが、それは甘美な夢のようだと思わなかったか?
そして今、セナは傷付き、瀕死の状態にある。
それは甘美な夢どころか、ただの悪夢だった。
セナを失う事は、恐怖以外の何物でもなかった。
嫌われ、憎まれ、いつか俺から離れてしまうかもしれないという、抱き続けて来た恐怖を遥かに凌駕する、暗澹たる明確な恐怖。
セナの命が助かるなら、悪魔に魂を売り渡しても構わないと思った。
だからもういい。
嫌われていい。
憎まれていい。
生きてさえいてくれれば、他は何も望まない。
復讐のような感情を持っていた頃とは違う。
セナ、君と出会ってから、糞みたいな俺の人生は鮮やかに色づいた。
もうそれで充分だ。
何も望まないセナの初めての願いは「一緒にいたい」という、俺にとって都合のいいだけの願いだった。セナの意思を尊重する振りでその手を取る。温かく柔らかで、余りに小さな掌は、泣きたくなる程の哀しさがあった。
傷付けないよう、間違えないよう、手探りの中始まった南に移り住んでからの生活は、ただただ穏やかだった。
学府に通うようになってから、セナは少しずつではあるが我侭を言うようになった。望む全てを叶えるつもりでいた俺にとって、拍子抜けするほど子供らしい、たわいもないものばかりで、学府に馴染んで来た証でもあった。飛び級を勧められたが、セナが望まぬ限りは普通学級のままでいいと思える程、同級の子供達はいい意味でも悪い意味でもどこまでも子供だった。
まるで世紀の大発見とばかりにその日の出来事を話す姿は、宮殿で大人びた振る舞いをしていた子供とは思えないほど生き生きとしていて…気付けば、決して叶える事のできない憧憬だと諦めていた「絵に描いたような幸せ」の中にいた。
それでも人は、何処までも欲深い。
何も望まないと思った事すら忘れて、この微温湯のような日々が永遠に続けばいいと望んでしまう。
だが、いつかセナは俺の庇護という狭い世界から、雛鳥が巣立つが如く広い大空へと飛び立つだろう。
必ず訪れる別離を、祝福と幸福を願う気持ちで迎えられるように、例え身を切る程の喪失があろうとも、黙って送り出してやれるように、今日を、明日を、一日一日を心に刻み付けよう。
この、奇跡のような僥倖を。
テラスから、セナが帰ってくるのが見えた。
何を急いでいるのか、転びそうになりながら、はち切れんばかりの笑顔を浮かべて。
今日の君は、何の話をしてくれる?
「俺と結婚してください!」
………俺は何処で間違えた?
サブタイを「遺憾」と「慚愧」で最後まで悩みました…
遺憾…期待したようにならず、心残りであること。残念に思うこと。また、そのさま。
慚愧…自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること。
『コトバンク「デジタル大辞泉」』より




