【DROP KICK】
グラララ。グラララ。
窓からは朝日が入り込み、その眩しさに当てられて国中の人々が動き出す。
かつての日本での鶏のモーニングコールのように城下町の人々に朝を告げるのは、その愛らしさと利便性からこの国の民に愛着を持たれている地竜の鳴き声。
重く響いてくるその鳴き声を地震と間違え、寝台から転げ起きる国民も少なくないらしい。
実を言うと、この物語の主人公――多田野 仁もその例外では無かった。
突如聞こえてきた、まるで聞き覚えの無い地響きのような地竜の唸り声。胸の中にまで響き渡り、最悪の寝起きを演出する(人による)その目覚まし時計に叩き起こされ、ヒトシは寝台から転げ落ちた挙げ句地面への頭からの着地による大地への接吻。
踏んだり蹴ったりである。
しかし、最悪の寝起きを演出するにおいて、最もその大きな要因となっていたのは全く別のものであった。
「……全っ然、眠れなかった」
眠気眼を擦りながらカーテンを開き、意識の覚醒を促す。
そうして光の入った部屋の中を眺めて、ヒトシは気付く。
「……イサムの奴、いねぇ」
ヒトシの隣のベッドに同室の友人――武田 勇の姿が無いことに。
まあ、それも頷けない話では無い。ヒトシは寝坊している訳であるし、ヒトシよりもイサムが先に目を覚ましていることは何等不思議では無いのだ。
だが、そんな空になったベッドを見て、ヒトシは不満を抱かずにはいられなかった。
「……はあ、起こしてくれりゃ良かったのに」
そう、ヒトシよりもイサムが先に目覚めているならば、イサムにはヒトシを起こすという選択肢があったはずなのだ。にも拘わらず、イサムはヒトシを起こさなかった。決して起こすまいというように、一度は空けたはずのカーテンまで閉めて。
何とも嫌らしく、イサムらしい手際の良さにヒトシは呆れる他無かった。
と、まあ下らない事を考えたことで、ヒトシの思考は多少クリアになる。
そうして幾分かマシになった思考回路で思い返されるのは、昨晩自分が見た既視感の事。
「……そう言えば、普通に見えてる」
ノイズがかかっていたはずの視界が今はクリアになっていることに気が付き、ヒトシは内心胸を撫で下ろす。あのまま視界が失われていれば、それこそ世界を救う以前の話だ。ただでさえやりたくない事なのに、その難易度すら上がってしまえば絶望的だ。
そんな事を考えながら、ヒトシはもう一度あの既視感について振り返る。
いや、もうあれは既視感と呼んでいいものであるかも怪しいものだ。
まるで未来を予知しているかのように、自分の視界にその映像を投影された。その事実は紛れもない今の自分が証明している。
【明日の朝は寝坊する事を『知っていた』】
まさにその既視感の通りになってしまった訳だ。この場合は必ず寝坊するからその予知が出来たのか、その予知をしてしまったから寝坊したのか、その辺りは微妙な所だが。
ともかく、ヒトシが実際に寝坊してしまったことは確かな事実である。故に、あながちその予知が的外れなものであると断言することは出来ない。
「……有り得ない、のか? ただの気のせい、か?」
誠に信じ難い現象ではある。何が本当で何が幻なのかもハッキリとしない現状において、それだけは断言出来る。
どうしてヒトシにはそんな予知紛いのことが出来たのか、その予知は本当に信じるに足るものなのか、そもそもそれはただの既視感では無いのか、疑問に思うことは数え切れない程多い。
だが、現状において何よりも重視するべき事はその未来視の真偽の審議では無い。本当に重視するべき事は、それが真実であった場合に備えて今すぐにでも行動を起こす事にある。
最悪、未来視の真偽など後から確認すればいいのだ。
だが、昨晩ヒトシが見た未来視が全て実現してしまうとするならば、それは一体何時発生する事なのか、何処で発生する事なのか、その二点を早急に把握して行動に移さねばならない。
さもなくば、その悲劇は未然には防げない。
――清宮 晴は救われない。
故に、ヒトシは人知れず拳を握る。
たとえそれがただの思い違いであっても、努力することを惜しむつもりは無い。
たとえ誰かに頭を下げることになっても、自分の矜持など溝に捨ててやる。
「……待ってろ、ハレ。何が何だろうと、僕が――」
きゅるるるるる。
ヒトシの決意も、全ての雰囲気をもぶち壊すように部屋中に響き渡ったのは、他ならぬヒトシ自身の腹の音。
地竜の唸り声すらも可愛く思えるような、ある意味凶悪な音色を聞いて、ヒトシはようやく理解する。
「そういや、昨日晩飯食いそびれたんだった」
寂しい胃袋を慰めるように腹部を撫で、昨晩の自分の愚かさを省みる。
いや、愚かさという程ヒトシ自身に落ち度は無い。あっという間に気を失ってしまったのだ。ハッキリ言って仕方が無い。
「……腹が減っては戦は出来ぬ、か。……名言だ」
取り敢えず、先程の決意も何もかもを忘れて、まずは朝食という名の希望を掴むためにヒトシは食堂へ向かうのだった。
◇
食堂に向かう前に、ヒトシは取り敢えず寝巻きから高校の制服に着替える。
その際、一応王国側から支給された服に着替えるべきか迷ったが、結局は着なれている制服にした。
着なれていない服を着るのが辛い、という訳では無かった。それを言うなら、寝巻きの時点で支給されている服だ。小心者のヒトシもそこまで神経質では無い。
ただ単純に、着たくなかった。何というか、支給されたその服は如何にも貴族階級の者が着ていそうな派手な物だったのだ。そもそも、ヒトシには服に金をあしらっていることが無駄にしか思えない。その輝きで自分の存在を主張するなんてもっての他だ。
強いてヒトシが気に入った点を挙げるとするならば、胸元や袖口に付いているボタンだ。学生服でも慣れ親しんだ物だ、その良し悪しくらいはヒトシでも分かる。服の派手さを損なわず、けれど無駄な主張はしない。そんな点に謎のシンパシーを感じていることはヒトシのみぞ知る。
ともあれ、結局支給された服は着なかった。センス云々以前に、今から朝食を食べようというヒトシとしては食事をする時に染みを付けないように気を遣わなければならないような服を着るのは論外だった。……もっとも、食事前でなければ着るという訳では無いが。
「派手なのは寝巻きで十分だよ」
そんな呟きを部屋に残して、ヒトシは寄り道せずに食堂に向かった。と言うより、寄り道した時点で迷子になるのは目に見えているので、したくても出来なかったというのが本音だが。
そうして、部屋を出て数分費やして辿り着いた食堂。
朝食の時間はとうに過ぎている。どうせ、人一人いまい。
そんな事を考えながら、その扉を開いた先に待っていたものは――、
「はっはっはっ!! 酒だ! 酒ぇ持ってこい!!」
本来あるべき威厳など何処かに放り捨てて、数人の女性を侍らせて酒に溺れる、リ・エリーゼ・モンタニア王国国王――イルシンク・エル・モンタニアの姿だった。
「朝っぱらからアンタは何やってんだ!!?」
素早く、かつ流れるような動作で靴を脱ぎ、十分な助走を稼いだ上で炸裂させる全力のドロップキック。その瞬間、スポーツ選手などが偶然入るゾーンのようなものにヒトシも入っていたことは言うまでもない。それほどにそれは、速度、キレ、威力、その三拍子が揃った一撃だった。
しかし、驚くこと無かれ。本当に驚くべきはその後の行動だ。
王国の最高位の人物であるイルシンクに対してのドロップキック。その行動が如何に愚かな行為か、それが理解出来ないヒトシではない。良くて死罪、悪くて死罪、結局死罪。実際問題はともかく、ヒトシの脳内で死が確定した時点で、その後の行動は早かった。
ヒトシのドロップキックに吹き飛ぶイルシンク。その身体が地面につくよりも早く、美しく、ヒトシがその額を地面へと叩き付ける。膝を付け、地面へ掌を添えるのを忘れない。
本日二回目の大地への忠誠。要するに――、
「すいませんでしたっ!!!」
土下座だった。
「……てて。ヒトシ、お前なぁ」
「何度でも言います! 申し訳ありませんでしたっ!!」
有無を言わせない謝罪の猛攻。
血が出てしまうのではないか、と思える程に高速で叩き付けられる額の勢いに圧倒され、流石のイルシンクも言葉を失う。
これは好機。このまま額が割れるまで地面に叩き付ければ、その内自分は意識を手放し、その怪我への罪悪感をイルシンクに持たせることで罪から逃れられる!
完全におかしくなってしまっている、そんな自殺願望すら感じさせる発想を実現するべく、ヒトシはより一層額を地面へと叩き付ける。もう、誰にもヒトシを止めることなど出来ない。
……そう、思われた。
「……おい」
「……はひ?」
だが、そんなヒトシの行動はいとも容易く止められる。他でもない、イルシンク本人に頭部を鷲掴みされる形で。
瞬間、ヒトシの脳内をありとあらゆる処刑方法が駆け巡る。首吊り、切腹、ギロチン、鉄の処女、このまま頭を握り潰される、等々。どれも恐ろしいものであることには違いない。
実際にそれらの処刑方法で自分が裁かれている光景を思い浮かべながら、ヒトシは言うのだった。
「……出来るだけ、血が飛び散らない奴でお願いします」
「……はあ?」
「死ぬ時には他人に迷惑はかけない。それが僕の数少ない信条なので」
「……ぷっ、はははは!! はっはっはっ!!」
ヒトシのせめてもの願いに、イルシンクは大きく口を開いて笑う。
「馬鹿じゃねぇか、お前! 他人に迷惑かけたくねぇって言うなら、自分で死にゃ良いじゃねぇか!」
「……自分で死ぬのは、嫌です」
それはそうだ。少なくとも、ヒトシは自殺志願者では無い。
自分の死に切腹を選ぶ武士の気持ちなど、更々分からない。分かりたいとも思わない。
そんな思いが詰まったヒトシの一言。それをイルシンクはまたも笑う。
「だったら、死ななきゃ良いじゃねぇか」
「……そうはいきませんよ」
「どうして?」
「たった今、貴方を蹴り飛ばしたからです」
「っく、はっはっはっ!!」
またもイルシンクは笑う。これでもかと言わんばかりに声を大にして大笑いする。
その姿が少し不快で、思わずヒトシは敵意の籠った口調で言葉を返した。
「……どうして、笑うんですか」
「そりゃ、お前が、馬鹿! だからだ!」
イルシンクの言葉に、思わずヒトシはむっとする。
確かにヒトシは頭が良くは無い。かといって悪いと言える程でも無いのだ。見ず知らずの王様に、お前は馬鹿だと言われる筋合いなど無いのだ。
しかし、そんな思惑を読まれたのか、イルシンクは未だに笑い続けながら言った。
「死にたくねぇんだったら、俺を蹴ったりしなけりゃ良いのによっ!」
「……そりゃ、まあ、そうですけど。そんなこと今更取り返しはつきませんよ」
「そりゃあそうだが、な。……で、お前、死にたいのか?」
「……んな訳無いでしょう」
「なら、生きれば良いじゃねぇか」
「……はあ?」
予想だにせぬイルシンクの言葉に、ヒトシの口から惚けた声が漏れた。
何を言っているのか、そんな疑問がヒトシの脳内で浮かぶ。
生きていけるものならば、生きたい。死を選ぶ理由などあるはずが無い。
だが、今の自分にそんな選択肢は無い。生殺与奪の権利は、全てイルシンクが握っているのだ。
ならば、許すはずが無い。国王という立場を持つイルシンクが、己の無様な姿を晒すことを、それをさせたヒトシを、許すはずが無い。
だが、そんなヒトシの予想に反して、イルシンクは言う。
「生きれば良いんだよ、生きたいならよ。俺だって、人生やりたいことやって生きてんだ。お前だって、生きたきゃ生きろよ」
不意に、イルシンクによって無理矢理顔を上げさせられる。そうして、目が合う。
ふざけている目では無かった。謁見の間で向かい合った時のように、ヒトシへと言葉が届くことを望み、伝えたいという強い意志の籠った言葉だった。
「僕が貴方を蹴った事、罰しなくても良いんですか?」
「なんで蹴られただけで罰しねぇといけねぇんだよ。お前には俺が死んでるように見えるか?」
「少なくとも、威厳は」
「はっ! 良く回る口だぜ。だが、否定は出来ねえがな! ……話は戻すがな、俺はお前を罰したりしねぇよ。少なくとも、お前が世界を救うまではな!」
「……なるほど、その手があったか」
「はっ! やっぱり馬鹿だろ? お前」
ふと漏らしたヒトシの言葉に、イルシンクは更に笑った。
それと同時に、とある考えがヒトシに浮かぶ。
「ということは、今の僕はそれなりの権力があるわけですよね? イルシンク陛下」
「まあ、そうなるわな。……あと、陛下は止めろ。固っ苦しい」
「だったらイルシンク、――」
「さんは付けろ! やっぱりお前は馬鹿だろ!?」
「あだっ!?」
容赦の無い拳骨がヒトシの頭に落とされる。
王様という肩書きに似合わない程鍛えているイルシンクの拳骨は、ヒトシの頭に割れるような痛みをもたらす。
まあ、仕方が無いことだ。少しばかり調子に乗った自覚はヒトシにもあった。
耐え難い痛みに顔をしかめながら、ヒトシは気持ちを切り替えて話を進める。
「僕にも多少の権力がある。でしたらイルシンクさん、一つお願いがあります」
「……ほう、この俺を顎で使おうってのか?」
「や、いや、そういう訳じゃ――」
「そんなにビビんなって、ヒトシ。昨日も言っただろ? 俺を頼れってよ。それが今だってんなら、力は貸すさ」
「……でしたら、情報を下さい。僕の友達が危険な目に遭うかもしれません。……ハレの、清宮晴の送られた先が一体何処なのか。教えて下さい」
ヒトシの言葉に、イルシンクは数秒の間考え込む。
やがて、何らかの答えを得たのか、イルシンクはヒトシに言った。
「確かに情報を出すくれぇなら簡単だ。そっちはまた後日連絡を行かせる。……だが、その危険な目ってのは一体何だ?」
「……ハッキリとした根拠はありません。何処で起きるのか、何時起きるのかも分かりません。……ですが、これだけは言えます。恐らく、彼女が向かった先で何らかのトラブルが起きます。……誰かが血を流してしまうような、恐ろしい事が」
「根拠は無い、ってのはどういう事だ? だったら、どうしてお前にはそれが分かった?」
「……分かりません。ただ、昨日の晩、見たんです。まるで、未来予知みたいに、そんな光景が見えたんです。どうしてそんなものが見えたのかは、僕にも分かりません」
「……分かった。取り敢えずは各国と連絡を取って状況を確認する。今日は休んでろ」
「……はい。ありがとうございます」
いつの間にか、イルシンクは一切の酒を飲む手を止めていた。
それは、今ヒトシが持ってきた情報がそれ程に重要な事だということを示しているとヒトシにも分かった。
飲んだくれていた先程のイルシンクとは違う。国を思い、世界を思う、国王としてのイルシンク。その姿がそこにはあった。
改めて、とんでもない人に喧嘩を売っていたものだとヒトシは思う。
紛れも無く、目の前にいる男は王なのだ。真剣に考えるイルシンクの姿に、ヒトシはそう痛感せざるを得なかった。
ともあれ、情報を手にいれる伝は出来た。今のヒトシに出来ることと言えば、それこそ長旅で溜まった疲労を取り除くことくらいだろう。
そう考え、いざヒトシが食事を手に入れようと動き出した――その時、不意にイルシンクから声をかけられた。
「ああ、そうだ。ヒトシ、お前に二つ言っておく事があった」
「……はあ、何ですか?」
「まず一つ目はお前の態度だ! どっちが本当のお前か建前のお前か分かんねぇが、敬語使いまくってビビってるお前は面白くねぇ。今度から俺と話すときは、口が達者で馬鹿らしい方のお前で喋りな」
「ば、馬鹿らしいって――」
「それと二ーつ! ……お前、まさか俺に蹴り入れといてタダで済むと思ってんじゃねぇだろうな?」
「……へ?」
思いもよらぬイルシンクの言葉に、ヒトシは言葉を失う。
「い、いや! だってついさっき、罰は与えないって!!」
「それとこれとは話が別だ。分かってんのか? 今のお前の力は人間のそれとも比べ物になんねぇんだ。その力で俺を思いっきり蹴りやがった。……分かるな? 国の法律としてお前を許せても、俺個人的にお前を許すことはぁ出来ねぇ」
拳を鳴らしながら、ジリジリとヒトシとの距離を詰めてくるイルシンク。
その威圧感にヒトシもゆっくりと後退するが、やがてヒトシの背中を迎えたのは分厚く冷たい壁。それが意味するのは、逃走不可能というヒトシの現状だった。
「ちょっと、待っ――」
「歯ァ、食いしばれ」
その言葉を最後に、ヒトシは気を失った。