【PRECOGNITION】
限り無く波を生み出し、キラキラと日光を反射しながら揺らぐ大海原。雲さえ突き抜ける大自然の山々。そして何より、時折波の影から姿を現す見たこともない奇怪な生き物。
それらの全てをその視界に入れて、何の奇妙さも感じさせないただの少年、多田野 仁は染々と自身の置かれている状況を再確認した。
「やっぱり、異世界なんだよなぁ」
ヒトシは一人、船の上で呆れ気味に呟く。
それは、にわかに信じがたい現状を思ってか、または周りに流されるままこの場にいる自分を蔑んでのことか、いやその両方かも知れない。
しかし、そんな呟きに対して答えが返ることはない。それもそのはず、日中であるにも拘わらず、ヒトシの周りには誰一人いなかった。その周囲に全く人の気配がないわけではない。ただ、少なくともヒトシの呟きが聞こえる範囲には人の影はなかった。
「それで、異世界にきても僕はボッチっと」
そう、ヒトシはいわゆる気高き孤高という存在だった。
異世界へと転移したことで自身を取り巻く環境が変化し、あわよくば自身の体質とも言える孤高の性質が解消することを期待していたが、結果的には人間関係というものはそう容易いものではなかった、と思い知らされたヒトシであった。
多田野 仁という人間を説明するとき、あえて一言でその生き方を言い表すとするならば、その一言とは『ただの人』だった。
普通に起きて、普通に学校に行き、数少ない友人と歓談し、普通に家に帰り、普通に眠る。
特に目立つ事も無い、極々平凡な毎日。それをヒトシはただただ普通に過ごしていた。
人間性を説明する必要すら無く、誰もが容易く思い浮かべることの出来るような、まさに『ただの人』。
しかし、そんな人間性をヒトシ自身が否定しているのかというと、そうでもない。寧ろ、ヒトシは『ただの人』であることを快く思っていた。何のスリルも無く生きていく事を誇りにすら思っていた。
そんなヒトシを襲ったのが、唐突な異世界への集団転移。
それは極々平凡なヒトシの日常をちゃぶ台返しの如く盛大にひっくり返し、静寂は狂騒へ、日常は非日常へと一瞬にして姿を変えた。もっとも、その孤高性だけは変わることはなかったが。かくいう今もその孤高性を発揮してしまっているので笑えない。
「……僕は平和に暮らしたいだけなのに」
「まあまあ、そう言うなって」
再び誰にも拾われないであろうと思われたヒトシの呟きに、なだめるように声をかける存在があった。
「……イサム」
「露骨に嫌そうな顔すんなって」
ヒトシが声に気が付き苦い表情を浮かべて振り向いた先には、ヒトシの数少ない友人の一人である武田 勇が爽やかな笑みを浮かべていた。
容姿端麗、文武両道、加えて人当たりもいい完璧超人。それが武田 勇という男だ。
「なんだよ、僕に構うな。お前は向こうで女子と話しとけばいいじゃないか」
「ひがむなひがむな、ただの人」
「ひがむって。……お前、自分の顔面偏差値が高いことを自覚して言ってるんじゃないよな? あと、僕はただの人じゃない。多田野 仁だ」
「分かってるって。嫌みに決まってるだろ? それにルックスのこともな」
「だったら尚更質が悪いよ!? どこから来るの、その自信!?」
「鏡の中の自分、かな?」
「分かった。分かったから、もうお前は喋らなくていい」
「はっはっは! でも、俺が喋らなきゃお前は独り言を言うしかないぞ?」
「事実だから言い返せない!」
再びイサムの笑い声が大海原に響き渡る。
ヒトシは酷く鬱陶しそうな表情浮かべ、更なる溜め息を吐いた。
「そうそう、俺は何も暇なお前と笑い話をしに来たわけじゃないんだった」
「……散々人をからかってからよく言うよ」
半ば呆れ顔を浮かべて、ヒトシは独り言ちた。
「もうすぐらしいぞ、船が着くの」
「……へー。そっか、やっと着くのか」
ヒトシは遠く彼方まで広がる大海原をその視界に入れ、はぁと溜め息をこぼす。この溜め息には複数の意味が籠められていた。
異世界へ導かれてメニーディア王国にて事情を説明されてから、既に一ヶ月。あの教室にいた全ての者は、それぞれ半ば強制的に使命を与えられて九つの国々に別れる事となったわけである。が、国家間の移動がそう簡単に済むわけも無く、相応の時間を要した。
特に海路を進む事になったヒトシ達一行(構成員男子二名女子三名)は悪天候の妨害を受け、航海が遅れていた。
「ったく、船なんかで行くからだよ。異世界に転移させることが出来るなら国家間のワープ位出来るはずじゃないか?」
「国家間だからこそ、だろ? それぞれそんなに友好的じゃないって言ってたし、それこそ自国の技術を他国に渡したくないんだろ」
「巻き込まれた僕達の立場からすれば、たまったもんじゃないけどな」
「まあ、そう言うなって。乗りかかった舟って言葉があるだろ?」
「乗りかかったって言うより、寧ろ無理矢理乗せられたって感じじゃないか?」
「細かい事はいいんだよ。そんなんだからお前は友達がいねぇの」
「事実を元にした考察、どうもありがとう」
「どういたしまして」
皮肉のつもりで言ったヒトシだったが、イサムはそれを更に皮肉で返す。どうにもスッキリしないとヒトシは苦い表情を浮かべるが、それも束の間、すぐにその表情は消え失せることになる。
再び溜め息を吐こうとするヒトシの目に入ったのは、海沿いに位置している巨大な都市とその中心にそびえ立つ巨城。
そう、ヒトシ達の航海の目的地である、リ・エリーゼ・モンタニア王国。
領土のほとんどが海に面しており、沿岸部に様々な港を開くことで各国の貿易の中継を行い、九か国の貿易の中心としての地位を確立することで国力をつけた大国である。
そして、この度ヒトシが派遣されることになった国である。
「さあ、行こうぜヒトシ。やっと到着だ」
「ああ、それはいいんだけどさ。お前、なんかノリノリだよね? 何で? 馬鹿なの?」
「そりゃノリノリにもなんだろ。異世界だぞ、異世界。夢やロマンの世界だ!」
「あっそ。僕はどうしてお前と友達やれてるのか不思議に思えてきた」
「そりゃ俺が優しいからだ」
「どうもありがとう」
「どういたしまして」
そんな皮肉を言い合いながらも船は進み、船は遂に港へと到着した。
■■■■■
床には赤い絨毯が敷き詰められており、その美しい毛の様相から如何に高級な物かが良く分かる。その空間の壁際には幾つかの頑丈な支柱。その天井には広い空間を影を生むことなく照らす豪奢な証明。そして室内の壁には至るところに金と銀、加えて赤で施された壮大な装飾。
全てを白で埋め尽くされた空間には、それらの豪華な装飾らが不思議と違和感を生むことなく存在していた。
そこはリ・エリーゼ・モンタニア王国王城の謁見の間。
港に到着して間もなくヒトシ達一行は王城の謁見の間へと案内された。
建築技術や人々の顔立ちといった自分の生きてきた環境と異なる文化に目移りする暇もなく、案内された先は王国王城の重要機関である謁見の間。ヒトシは何も知らずに虎の檻に入れられた兎の如く一触即発の緊張感に襲われていた。
しかし、そんな状況でそんな雰囲気を崩壊させる一言がぶちこむ者がいた。
「よう! 転移者! よく来たな!」
豪華で華美な装飾が施された王座に足を組み、大声で大気を揺らした者。それこそこの王城の最大権力者、現リ・エリーゼ・モンタニア王国国王イルシンク・エル・モンタニア。
齢二十八歳にして、かつてはただの商業団体であったはずのものを、土地を開拓し人を集め港を開き、貿易にて他の八か国に劣らない一国家へと成長させた敏腕国王。
国王らしくない振舞いから、接しやすく人当たりがよく人望もある。ただ、女癖が悪いためにあまり国王という気品は感じられない。
イルシンクの大声が揺らしたのはなにも大気のみではない。同様にヒトシの肩も震わせたのは言うまでもない。ただその大声のおかげでヒトシを襲っていた緊張感は霧散し、ヒトシとしては少しありがたい話ではあった。
「陛下、少し発言よろしいでしょうか?」
右手を挙げ、一歩前に出て口を開いたのはヒトシの隣にいたイサム。咄嗟に礼儀を弁えた言葉遣いを使うことが出来るイサムに改めてそのスペックの高さを驚くヒトシだったが、イルシンクはそんなものを一蹴する。
「ああ、そういうのはいい。面倒くせぇだけだ。それに俺らの都合にお前らを勝手に巻きこんでんだ。どっちかってっと礼儀を弁えんのは俺らの方だ。てなわけでお前らは普通に話せ。俺のこともイルシンクでいい」
「そういうことなら。イルシンクさん、転移というのは?」
「別に特に意味はねぇよ。ただ無闇に異世界人っつーのは味気ねぇだろ? なんなら英雄でもいいんだが、それはお前らが嫌そうだしな。だからそれっぽく転移者ってわけだ」
「そうですか、ありがとうございました」
イサムはイルシンクに対して一礼し、元いた位置まで下がる。それを見たイルシンクはふぅ、と一息吐くとまた口を開いた。
「なら、早速本題に入るぞ。お前らにこの国に来てもらったのは他でもねぇ。魔物との戦いに備えて、ある程度の実力をつけてもらうためだ。お前ら、こっちに来てからある程度肉体のスペックが上がってんのは気が付いてるか?」
「ええ」
イサムは簡単に答えると右手で握りこぶしをつくる。その拳からはミシミシと聞こえるはずのない何かが軋む音が聞こえた。
この世界に送られてから数週間した後、ヒトシは自身の肉体が以前よりも強化されていることに気が付いた。切っ掛けは軽く握ったドアの取っ手が壊れた程度のものだったが、今まで感じたことのない充足感が肉体に満ちていることを日が進む度に実感していた。
「こっちに来た時点でお前らの肉体は俺らのそれを軽く凌駕している。が、それだけじゃあ足りるわけがねぇ。相手は神話上のバケモンだ。ただ筋肉がついただけで圧倒出来るなら御の字だが、実際はそうにもいかねぇ。正直な話、今のままであいつらとぶつかっても地面に新たな肉塊が増えるだけだ」
「……肉塊」
イルシンクの口から出た言葉に、ヒトシは思わず苦い表情を浮かべ声を漏らした。イルシンクの表情が真剣なだけに無惨に散る自身の未来を明確に連想させた。
そんなヒトシの呟きをイルシンクは逃さず、ヒトシへと視線を向ける。
「……おい、そこのお前」
「は、はい!?」
突然自身に向けられた視線と真剣な声のトーンに威圧され、ヒトシの口から情けない声が出た。
「……怖いか?」
「い、いえ! そんなことはありません! 陛下は気さくで心優しく、愚民である私の目を通して見ても素晴らしいお方だと――」
「そういうこと言ってんじゃねぇ」
「は? では、何を?」
「魔物と戦うのは怖いかって聞いてるんだよ」
「……………………」
イルシンクの言葉を受けて、ヒトシは思わず硬直した。
普段よりも重いトーンで放たれたイルシンクの言葉は実に的確に的を射ていた。
今まで平穏に過ごしてきたヒトシはこの時明確に恐怖を覚えた。イルシンクの迫力にではない。改めて自身が魔物と戦うことになるのだと意識したことで、その恐怖のビジョンが鮮明に頭に浮かんだからだ。
何と答えればイルシンクの気を損ねないのか、ヒトシのその小さな脳をフル回転させて懸命にその答えを探す。沈黙すること数秒、覚悟を決めたヒトシは遂に口を開いた。
「…………怖い、です。自分でも情けないくらいに僕は怖い。まだ見たこともないのに、ただ話で聞かされただけなのに、それなのに僕はもう自分の義務を放棄したいと思ってます。まだただの肉塊に成り果てたくないと思ってます」
答えは出なかった。幾ら思考を繰り返そうと答えは出ず、ヒトシには虚勢を張ることすら出来なかった。
怖い、自分で口に出したことで改めてその感情が胸の内に広がった。
そんなヒトシの姿を見たイルシンクは、笑った。その笑みがただの笑っただけなのか、それとも嘲笑を含む笑みだったのかはヒトシには分からなかった。
「……義務……ねぇ。なあお前、名前は何て言うんだ?」
「多田野 仁です」
「ただの人、か。良いじゃねぇか、ただの人。お前にピッタリの名前だ」
「…………」
ヒトシはただ沈黙した。
イルシンクの言葉が自分を嘲るようで、何かが胸の内で沸々と沸き上がるのを感じた
「なあ、ヒトシ。お前はさっき義務って言葉を使ったが、その義務ってのは何だ?」
「この世界を救うこと。それが僕達に課せられた義務でしょう?」
「それは違ぇだろ? 確かに俺達はお前らを勝手に呼び出して自分達の都合にお前らのことを巻き込んだ。でもよ、それがお前がこの世界の為に戦わないといけねぇ理由にはならねぇはずだ。まあ、世界規模の話を出されたら協力するしかねぇとも思うと思うが、それでも世界を救うことがお前の義務にはならねぇだろ?」
「…………」
「……俺はそれはすげぇ事だと思うぜ? 誰もやりたくない事を自分の義務にするなんて誰にでも出来ることじゃねぇ。きっと、ただの人のお前はそれをただの当たり前みてぇに思っちまったんだろうが、それはもっと誇っていい事だ」
「何が……言いたいんですか?」
「もっと自身を持てって事だ。あんまり自分の事を卑下するんじゃねぇよ」
「それでも、怖いものは怖いです。死にたくないと思うし、傷付きたくない。僕はただビビってるだけです。……そんな高尚なものではありませんよ。ビビってるだけじゃ何も出来ませんから」
自分はこの程度の人間だ、と半ば嘲るようにヒトシは自分の事を卑下した。そしてその言葉は、どうせ自分には何も出来ない、だからあなたの期待には答えられない、とも言っているように残響を残した。
しかし、イルシンクはそんなヒトシを再び笑う。先程よりも高らかに、爽快に、笑いあげる。
「良いじゃねぇか、ビビってたって。ビビってて逃げ出す奴はそこまでだが、そこで踏ん張れる奴は充分立派だよ。ビビることの何がいけねぇ?」
「少なくとも、格好良くはないでしょう?」
「確かにそうだ。でもよ、お前らはついこの間まで危険からかけ離れた生活を送ってたんだろ? ビビっても仕方ねぇんじゃねぇか? それによ、俺達は今まで格好悪くビビって地べたを這いずって生きるためにもがいて来たんだ。それなのにお前だけが格好良いわけがねぇ」
「…………」
「俺はビビる事が恥ずかしい事だとは思わねぇぜ? 俺達は独りじゃビビッちまうからこうして国として固まってんだ。だからこうして力を合わせるって事が出来てんだ。だからよ、俺達がお前に頼るようにお前も俺達を頼れ。独りじゃ怖いってんなら誰かと手を繋いでろ。そうすりゃ、お前は胸を張って歩けんだろ?」
イルシンクの言葉は正しい。当事者であるヒトシにはその事がよく理解できた。
「…………」
だがそれでも、だからこそ、ヒトシはハッキリとイルシンクに言葉を返す事が出来なかった。自分はやれる、と。あなたの期待に応えてみせる、と。そんな簡単な言葉を紡ぐことが出来なかった。
「ああ、なんか悪ぃな。説教みてぇになっちまって。でもよ、結局何が言いたいかって言うとよ。お前はまだ餓鬼なんだからよ、何もビビってる自分を卑下することはねぇんだよ。そんで、ビビってビビってどうしようもねぇ時は俺を頼れ。そんときゃ俺は全力で背中を押してやるよ」
「……いえ、僕には勿体無い言葉です」
「おう! 勿体無ぇかもしれねぇが貰っとけ! 貰えるもんは貰っとかなきゃ損だ損! ……うし、じゃあそろそろ切り上げっか。最後にお前らに渡すもんがある。おい、あれ《・・》、持ってこい!」
イルシンクの声と共に現れたのは数名の奉仕人メイドとその手に包まれている深紅の丸薬。
「お前らが俺達に協力してくれる以上、俺達もお前らを全力で支援する。それはまず一つ目の支援だ。そいつは遠方の国々から手にいれた希少な丸薬で人間の限界を高める秘薬らしい。本来なら多少のリスクを伴うらしいが、神様から気に入られてるお前らなら問題ないはずだ。それどころか、人間の域を逸脱した力が芽生えるかもな」
「イルシンクさん。俺達はこんな大切な物を頂いていいのでしょうか?」
「だから言ったろ? これは支援の一部だ。その代わり、お前らには相応の働きをしてもらう。頼めるな?」
「「「「はい!」」」」
「…………」
全員の意識が一丸となりイルシンクに対して快い返事をする中、ヒトシだけはただ沈黙していた。
「よし! じゃあ他の事は別の奴等に任せるから、お前らは取り敢えず休んどいてくれ。今から部屋を案内させるから、そこを使えばいい」
「はい、ありがとうございました」
ヒトシ一行は揃って一礼し、謁見の間を後にする。その時――
「あ、そうそう! 夜が寂しい女子は俺のところに来い。愉しい夜にしてやるよ!」
「最後の最後に何言ってんだアンタ!?」
イルシンクの言葉にヒトシは遂に口を開いた。
■■■■■
謁見の間を後にした後、ヒトシはイサムと共に各自の部屋へと案内された。部屋までの道は城であるだけあって長く、その道中ではゆっくりとカルチャーショックを受ける時間を堪能した。
部屋割りは元々一人一室を借りる手筈になっていたが、緊急時に纏まって行動が出来るように複数人で部屋を使うべきとのイサムの提案を採用し、男子二名女子三名に別れてそれぞれ二部屋を借りることになった。勿論、デリカシーを大切にして男子と女子の部屋は多少の距離を置いて。
そんなわけで女子の部屋を案内してもらった後に男子の部屋に移動している最中だった。
部屋までの案内を引き受けてくれたのは近衛騎士の一人であるシャバーニという大柄の男。百九十を越える巨大な体躯、丸太の如く分厚い腕、何より猛々しいその顔つきは二人にゴリラを容易く連想させた。しかし、驚くべき点は更なるところに隠されていた。
「文化が違うことで不便に思われることも多いかも知れませんが、何か不自由があれば私に申し付け下さい」
「え? あ、はい。どうも」
シャバーニの口調が想像と異なり、思いの外丁寧であったのである。ヒトシとしては完全に無口なハードボイルドな兄貴分を想像していたため、初めにその口から言葉が発せられた時は声の発生源を必死で探した。ちなみに声の質は完全に爽やかなイケメンと同質のものだ。
「すみません、シャバーニさん。一つ聞きたいのですが」
歩みを進めながら、イサムは右手を挙げて声を発した。
「構いませんよ。私に話すことの出来る範囲であれば、何でも答えましょう」
「では、先程飲んだ丸薬の事なのですが……あれは本当に頂いて良かったのでしょうか? もし人間の限界を高める効能があるのであれば、あれは至宝級の逸品では?」
「ええ、その通り。あの丸薬は王が他国にいくつかの港を譲渡して遂に手にいれたものです」
貿易で利益を得ているリ・エリーゼ・モンタニア王国にとって港を受け渡すという行為はそのままその港で得られる利益全てを譲渡すると道義。更にいえば、国力を挙げてその港を大きくされれば、その他の港の利益にまで甚大な損害をもたらす可能性すらある危険な行為だった。
「でしたら何故? それほど貴重な物であれば――」
「不可能なんですよ。通常の人間にあれを服用することは」
「どういう事ですか?」
「王はあの丸薬に多少のリスクがあると仰っていましたが、あれはあなた達を不安にさせないための嘘です。あの丸薬は転移者であるあなた達以外には完全な猛毒なんですよ。ただやはり、その効能は確かでありその希少価値は認められていますが」
「……そうだったんですか」
はい、とシャバーニはイケメンボイスで答える。また、それに、と言葉を続けた。
「メニーディア王国で各国特有の儀式があると言われたでしょう? 伝統の深い国々ではそういった儀式が存在しているのです。そしてそれらは神の加護として不思議な力を与えると言います。……しかしこの王国はまだ歴史の浅い国。伝統といったようなものも無く、力を授ける術が無い」
「そこで儀式の代わりに僕達にこの丸薬を与えたって事ですか」
イサムとシャバーニの会話に話を読めたヒトシが言葉を挟んだ。
「力を授ける事が出来なければ、イルシンクさんの言葉通り俺達はただの力の強い人間でしかない。そうなればそれこそ肉塊まっしぐらだ。更には他国からその程度の国力しか無いのかと侮られる。そこで秘薬に白羽の矢が立った、と」
「その通りです」
「他国にはどんな儀式が行われているんですか?」
「伝統の深い国であれば古来より伝わる魔法の真髄や精霊の使役、奇跡の御技と言ったところでしょうか。中には自国の技術で開発した魔法具や魔導兵器を与える事もあるらしいです」
「……らしい、ですか」
「どこの国も自国の技術を露呈することはあまりありませんから」
「なるほど」
そんな雑談を交わしながらも歩みは進み、いずれ男子部屋へと到着した。
「文化の違いにより多少の違和感はございますでしょうが、何とぞくつろぎ下さい」
「「はい、ありがとうございました」」
丁寧にシャバーニは鍛え上げられたであろう斜め三十度の敬礼し、それに応じて二人も会釈で返す。
シャバーニは顔を挙げてゴリラスマイルを二人にお見舞いするとこれまた丁寧な動作で自身の持ち場へと戻っていった。
「……凄まじい人だった」
「……ヒト、なんだよな」
「少なくとも、お前より出来た人だぞ」
「さらっと僕に悪態を吐くな――ってぐえ!?」
「あー!! いたいた! イサムっちー!!」
部屋に到着して早々に皮肉を言われたかと思えば、ヒトシは背後から強い衝撃を受け床に転がる。
唐突に訪れた背中の痛みに耐えながらも起き上がり何事かと確認してみれば、そこにあったのは他の女子三名の姿。それもその中の一名、桐崎 桜はヒトシに冷たい視線を送っていた。
「ちょっと、アンタ邪魔。床に転がってないでさっさと廊下行きなよ」
「い、いやさ。流石に廊下ってのは――」
「はあ!? 何なの? 文句あんの?」
「何でもございません!」
冷たい態度で話し掛けられたとしてもヒトシの孤高性はキチンと発動し、上手く反撃も出来ずに終わる。腰まで伸ばしたツインテールを揺らして言い放つ桜のその姿はそれだけの威圧感を有していた。
そんなヒトシを見て、イサムは助け船を出す。
「まあまあ、背中を蹴り飛ばしたのはサクラだろ? そんな酷いこと言うもんじゃないぞ」
「蹴り飛ばした? 何の事? 私は普通に入口から入ってきただけよ? まあ、そこに羽虫がいたとしても気が付かないだろうけど」
「ひっ!?」
羽虫、と言ったところで再びサクラに鋭い眼光を向けられて悲鳴をあげるヒトシ。やはり人間関係とはそう簡単なものじゃないとつくづく思い知らされる。
「まあまあ、取り敢えず落ち着けよ。俺もサクラの部屋見てみたいしさ、そっちの部屋行こうぜ。ほら、な?」
「……まあ、イサムっちがそう言うなら良いけどさ。じゃあ、早く行こ! ……私、この部屋に居たくないわ」
地面に尻を着いたままのヒトシに睨みを利かせ、サクラは男子部屋から退出していく。続いてもう一人の女子とイサムが退出する。イサムは去り際に振り返り、両手を合わせて言った。
「悪いな、ヒトシ。あいつも悪気があるんじゃないんだよ。じゃ、俺行くから」
「はあ、あれで悪気が無かったら世界に悪気という言葉は生まれてないだろ――」
「……あの」
誰も居なくなったと思いヒトシは呟きを溢すが、男子部屋にもう一つの声が響く。突然鼓膜に届いた振動にヒトシは思わず飛び上がる。
声の方向へ凄まじい勢いで振り返れば、そこにはヒトシ一行の一人である女子が一人部屋に残っていた。
「初めまして。私、三枝 千優といいます」
「え、あ、あの、多田野 仁です。ってこの会話おかしくないかな? 顔は合わせてるはず、ってうわ、ごめん。俺と喋りたくなんてないよね?」
「いえ、そんなことは。でも、確かに顔は合わせてますよね。じゃあ、改めましてよろしくお願いします」
「う、うん。改めまして、よろしくお願いします」
「なんか変な感じですね?」
「そうだよね。はは、ははは」
初めて女子と話した感動と緊張が相まって、ぎこちない笑いが漏れる。ヒトシとしてはその笑いが完全にチユに引かれると思ったが、チユはそんなヒトシを見てただ笑っただけだった。
「ふふふ、面白いんですね。多田野君って」
「へ?」
初めて女子とまともな会話を交わした感動と彼女が見せた笑顔にヒトシの脳の容量が限界値に達し、おかしな声が漏れた。しかし、どう考えてもヒトシには自分が女子に話しかけられる理由が思い当たらない。このまま挙動不審でいるのも恥ずかしいので、率直に意見を聞くことにした。
「そ、それで何の用かな?」
「あ、そうです。それです。……実はサクラちゃんの事、嫌いにならないであげて欲しいんです。サクラちゃん、本当はいい子なので」
「え? そんな事?」
「はい。そんなこと、です。そんなことでも大切なんです」
チユははにかみながらも真剣な眼差しで言った。その姿にヒトシはチユの心の純粋さを垣間見た。
「あ、うん。分かった。約束するよ」
「本当ですか? 約束ですよ?」
「うん、約束」
「じゃあ――」
そこで言葉を切り、チユはヒトシに対して小指を立てる。ヒトシはそれが何を意味しているのか、まるで見当もつかなかった。それを見かねたチユは微笑んで答えを言った。
「指切りげんまん、です」
「……あ、そういうこと」
理解が追いついたヒトシは同様に小指を差しだし、二人は指と指とを絡めた。女子にまともに触れたことの無いヒトシにとって、小指という小さな面積であっても肌が触れあった事は充分に緊張が走る条件は満たされていた。
「「指切りげーんまーん、嘘吐いたら針千本のーます。指切った!」
声を揃えて、互いに誓いを結ぶ。えへへ、と笑うチユの笑顔を見てヒトシは僅かに頬を紅潮させた。
「約束ですからね? 多田野君」
「うん、約束するよ」
チユはふふっと微笑んでヒトシに一瞥すると部屋を退出していった。その姿をヒトシは手を振って見送った。
「……ふあああ。疲れた」
そうして、男子部屋にいるのはヒトシだけとなる。見事に気高き孤高ボッチに相応しい環境が整えられたところで、ヒトシはやっと一息つくことが出来た。
「こんな事があると、やっぱり独りも悪くないと思っちゃうんだよな」
一通り狂騒が過ぎ去り、ヒトシは自身の孤高性の認識を改める。孤高であるが故に訪れる平穏があることに一種の安堵感を覚えた。
ふと、異様な程無駄に高い天井を見上げる。すると安堵したために心に余裕が出来たためか、今は離れている数少ない知人の顔が頭に浮かんだ。
「……ハレ、大丈夫かな」
ヒトシが思い浮かべた知人の名は清宮 晴。
ヒトシにとってのいわゆる幼馴染みである。幼少期から親同士が繋がりがあり、それを通じて知り合った。ヒトシにとって数少ない本当に気の置けない存在で、普段から孤高性を発動しているヒトシにも壁を作らずに接してくる。
ヒトシはヒトシでそんなハレに無愛想に接するが、内心では感謝を抱いていた。
そんなハレはヒトシと共に転移に巻き込まれ、今は伏峪と同じ班に編成されエルフの国にいた。
「そう言えば、あの班にはあの人もいたんだっけ。えっと、新任の――」
【この部屋の光景を『知っていた』】
新任教師の名前を思い出そうとしたところで、ヒトシはあることに気が付く。
どこかでこの光景を見たことがあるような、やはりただの気のせいなような、そんな感覚。いわゆる既視感である。
ヒトシはこれまでに既視感を感じる事が多々あった。それはこの世界に来るよりも以前からの事であり、一種の体質だった。
「ああ、既視感か。……全く知らないはずの異世界でも起きるんだな、これ――ってうわっ!?」
【天井から蜘蛛が降りてくる事を『知っていた』】
途端にヒトシの右目の視界に一瞬ノイズがかかる。ヒトシは唐突に視界が奪われたことに驚き瞬きをすると、そのノイズは既に消えていた。
「……何だったんだ。今の」
自身の身に起きた不思議な現象にヒトシは小首を傾げる。だがしかし、考えたところで分かるわけもなく再び天井を見上げた。するとそこには糸を上手く利用して天井から降りてくる蜘蛛の姿があった。
「……え、これって」
既視感とは異なる、確証を得ている見たことのある光景。それはつい数秒前にノイズと共にヒトシの脳裏へと投影された光景だった。
「どういうことだ? 今のは既視感じゃ――」
【明日の朝は寝坊する事を『知っていた』】
【イサムがシャバーニと訓練する事を『知っていた』】
【ヒトシが独りで本を読む事を『知っていた』】
【チユが優しく独りのヒトシに声をかける事を『知っていた』】
「があぁっ!? 何、だよ、……こ、れ!?」
複数の虚像と共に頭を壮絶な痛みが襲う。大量の針を一斉に脳に直接刺されたような、極小で極大の痛みにヒトシの痛覚は全力で警鐘を鳴らした。
しかし、ヒトシの痛みは留まるところを知らずに依然その痛みを与え続ける。
【ヒトシがイルシンクに頭を下げる事を『知っていた』】
【ヒトシがイサムに頭を下げる事を『知っていた』】
【ヒトシがサクラに頭を下げる事を『知っていた』】
【チユが自らヒトシに協力を願い出る事を『知っていた』】
そして同様に虚像も留まるところを知らない。時折ノイズを挟みながら、虚像はいつかの光景を映し出していく。その中にはヒトシには受け入れがたい光景も含まれていた。
「があぁぁぁぁぁぁっ!!!」
【――――――を『知っていた』】
無限に変わり続ける光景と永遠を感じさせる苦痛。やがて、そんな苦痛の一時にも終わりが訪れる。
そしてヒトシが最後に見た光景は――
「……具貂、タク」
【血まみれで地に伏すハレの手を握るタクの姿を『知っていた』】