【A FRIEND】
仁サイドです。
宵は過ぎ去り、いよいよ月がその存在を主張し始めた頃、ヒトシは芝の上を転がっていた。
ほとんど半裸の少女に対して服をくれ、などという気の狂ったような発言の果ては、ヒトシの身体が後方二メートル吹っ飛ぶほどの強烈なビンタだった。
カリファとの訓練にて鍛えられた動体視力をもってしてもそれは回避することが叶わず、ヒトシは呆然と星空を見上げていた。
「……空が、綺麗だ」
自分の仕出かした事を自覚し、その上で自分自身に嫌悪を覚えて、ヒトシは少しでも気を紛らわせようと独り言ちる。
いっそ、このまま芝になりたいとさえ思ったその時、ヒトシに向けて声がかけられた。
「も、も、申し訳無いです! 大丈夫ですか!?」
中々立ち上がらないヒトシを案じて、慌てて駆けつけてきたのは他でもないあの少女。相変わらず無防備な格好をしているため、ヒトシはそっと少女から目を逸らした。
「……大丈夫です。流石に、痛くなかったとは言えませんけど」
「本当にごめんなさい。見ず知らずの人をいきなり殴っちゃうなんて……」
明らかに肩を落とす少女の姿を改めて見て、ヒトシは彼女が誰なのかということに気が付く。
つい先程、一目見てヒトシと同じ転移者だということは分かっていたが、彼女が誰なのかは分からなかった。人脈の狭いヒトシにとってそれはある意味当たり前なのだが、この場合は違っていた。
確かにヒトシは人脈が狭い。友達と言える人物など両手で足りてしまうほどに。故に他人に名前を覚えられることは無いし、他人の名前を覚える事も無い。
だが、相手が彼女であった場合は違う。何故なら彼女は、新任教師のタクを例外として、転移者全員に顔と名前を覚えられているほどに有名な人物であったのだから。
「もしかして、愛取 唄さん……ですか?」
愛取 唄。
ヒトシと同じ高校に通う女子高生であり、現役のアイドルである。まだその名前が全国に知られている訳ではないが、歌と踊りを可憐にこなす彼女は高校では有名人だ。昨年度に高校主催で企画された文化祭の彼女の舞台を、イサムに連れられてヒトシも見たことがあった。
ヒトシはアイドルに深い知識がある訳ではない。多少知っていたとしても、それは一般人のそれと大差ないものだ。
だが、そんなヒトシにでも有名人特有のオーラが彼女から出ていることが分かった。俗に言うカリスマというものが、彼女から溢れていることが感じ取れた。
「どうして私の名前を……って、もしかして、多田野 仁さん?」
思わず飛び出た自分の名前に、ヒトシは動揺しながら彼女を見た。
どうして、彼女はヒトシの名前を知っているのか。そんなヒトシの疑問を察知したのか、彼女はヒトシの答えを待たずに言葉を続けた。
「やっぱり! あの呑んだくれのイルシンク王にドロップキックをかましたと有名な仁さんじゃないですか!」
「――――っ!?」
至って不名誉な知名度の上がり方に、ヒトシは言葉を失った。
そもそも知名度など上げたくもないというのに、どうしてその場面のみが切り取られてしまったのか。というか、罪を帳消しにするためにイルシンクに殴られたというのに、それが公になっているとはどういう事なのか。
もしや、あれは完全に殴られ損で、自分は不敬罪から逃れるためにあの部屋に軟禁されていたのではないのか。
そんな予感がヒトシの頭を過ったと同時に、
「いやぁ、家臣の方々が感謝してましたよ。あの馬鹿王を蹴飛ばしてくれるなんて私達の救世主です! ……って」
「……あの人、家臣からの尊敬ゼロなのかよ」
城内でのイルシンクの評価の悪さを思い知ったのだった。
そんな一幕を終えて、ヒトシは改めて彼女と向かい合った。下着姿のままでは流石に目に毒なので、ヒトシが今まで着ていた白シャツを彼女には着てもらっている。……それでも、白シャツ越しに透けて見える黒の下着がまたも目を遣りがたい光景になっているのだが。
煩悩を振り払うように、必然的に半裸になってしまったヒトシは大きく首を振った。
「それで、愛取さんはどうしてこんな場所に居るんですか? 僕はてっきり、他の班に配属されていたものだと思ってたんですが」
「いえいえ。どうしても何も私は初めからこの班の一員ですよ、仁さん?」
「……ひ、ひとしさん?」
「はい。お名前、『ひとし』って読み方で合ってますよね? あれ? もしかして『じん』の方でしたか?」
「い、いえ。『ひとし』で合ってますけど」
ふりがなを間違えていると言いたかった訳ではないのだが、彼女の勢いの凄まじさにヒトシは二の句を継げない。ただでさえ当たり前のように人見知りを開眼しているヒトシであるのに、怒濤の勢いで迫られてしまえば防戦一方になるのは必然だった。
「ならこれからも仁さんと呼ばせてもらいます! あ! 私の呼び方は『ウタ』で構いませんから! ほら、呼んでみてください!」
「……う、うたい、さん」
「違います! 『ウタイ』では無く『ウタ』! シングでは無くソングの方です! たった一文字ですが私にとっては重要なんです! いいですか? 私のことは『ウタ』と呼んでくださいね!」
「は、はい。ウタさん」
「『さん』も必要ありませんけど今は多目に見ましょう! こちらこそよろしくお願いします、仁さん!」
先程の事が無かったかのように、快活に声を張り上げるウタ。一方ヒトシは当然そのテンションについていけず、押されるがままに受け答えをする。
もっとも、ヒトシは人見知りであるとはいえ、初対面の人と全く会話が出来ない訳ではない。基本的に声をかけられれば答えられるし、そこに妙な間を必要としたりはしない。イサムの無茶なアドリブにもそれなりには答えられる、それなりに冷静さを保った生き方をしている。
が、相手が有名なアイドルとなれば話は別だ。ヒトシとは一線を画す存在感と充足感。自分よりも明らかに社会的に格上だと思われる相手に対して、ヒトシは持ち前の冷静さを失う。……もっとも、イルシンクにドロップキックを食らわせたあの時は例外中の例外であるが。
故に、その後もヒトシがウタの勢いに押されるがままになるのは目に見えていた。ヒトシを押し潰さんとばかりの怒濤の質問攻め。それがボッチにどれほどのストレスを与えるのかは容易に察することが出来る。
「あ、あの! ウタさん!」
しかし、相手に気圧され、冷静さを失って尚、ヒトシは自分から話を切り出すことが出来た。それは偏に、カリファのお蔭だった。
あの猛毒の言葉遣いを毎日のように浴び、四六時中同じ空間で生活を営み、隙あらば寝首を掻こうとさえしてくるあの鬼神のお蔭で、ヒトシは多少の事では物怖じしなくなっていた。
「ウタさんはさっき、自分が見えてるのか、と言いましたよね? あれってどういう意味なんですか? さっぱり分からないんですが」
ヒトシが切り出したのはほんの僅かな疑問について。正直こちらが会話の主導権を握ることが出来れば話題など何でも良かったのだが、大して気にせず切り出した問いはウタの表情を僅かに曇らせた。
だが、ウタはすぐにまた笑顔を繕った。
「私、異世界に来てから影が薄くなったんですよ。薄くっていうか、ほとんどいないみたいに扱われるんです。仁さん、この国に派遣された班員の名前って全員言えますか?」
「そりゃあ、まあ。そのくらいは」
「言ってみてください」
「……? 僕とイサム、三枝さんに桐崎さんと――」
ヒトシの言葉はそこで止められた。続くもう一人の名前が浮かばず、首を傾げた。
いや、浮かばないのは名前だけではない。顔も、だ。メニーディア王国で班分けされた時にも、つい先日サクラが男子部屋に押し入ってきた時にも顔は合わせているはずなのに、そのどちらも思い浮かぶことはなかった。
「最後の一人、私なんですよ? 気が付かなかったでしょう?」
「――――」
「名前を思い出してもらえないどころか、存在すら認識されていないんですよ、私。目の前に立っても目が合いませんし、耳元で叫んでも気付いてもらえないんです。遂には、私用に準備されていたベッドまで片付けられちゃいました」
ウタの独白に、ヒトシは何も言い返すことが出来なかった。
知らなかったとは言え、誰にも気付いてもらえないウタの切なさを想像すれば、沸々と胸の奥から気付いてあげられなかった罪悪感が芽生えてくる。ボッチであるヒトシだからこそ、その辛さはよく分かった。
誰にも気付いてもらえないというのは、つまり誰にも存在を証明してもらえないということ。誰とも話さず、誰とも会わず、ただ何もせず浪費する一日ほど虚しいものはない。
かくいうヒトシも、イサムと出会う前までは一人として友達がいなかった。誰とも話さず、誰にも気付いてもらえず、唯一自分の存在を証明するためにしていたのは黒板消し。誰にも気付いてもらえないとは分かっていながらも、善行を積むことで自分が自分を肯定出来た。……そうする他、自分を証明する術を持っていなかった。
そして、それはウタも同じだった。
誰にも気付いてもらえないから、どうにかして振り向かせてやろうとわざと露出の多い格好をしては人前に立ち、あまつさえ街全体が見渡せるこの場所に来たのだろう。誰か一人にでも、自分の姿が見えることを願って。
そんなウタの行動原理が、ヒトシにはひしひしと伝わった。
「……どうして仁さんにだけ私が見えるのかは分かりませんが……今、ちょっとホッとしてるんです。もしかして、このまま誰にも気付いてもらえないんじゃないかって思ってたので」
そして同時に、ウタへの恐れが消えた。都合のいい話ではあるが、ウタがかつてほどの名声を受けていないと知って、ウタに接する躊躇いがヒトシの中から消えた。
「……ウタさん」
「なんですか、ヒトシさん?」
「もしウタさんが嫌でなければ、の話なんですけど……僕の話し相手になってくれませんか?」
「……はい?」
突拍子も無いヒトシの提案に、ウタは思わず目を見開いた。
「実は僕、ついさっきまで恐ろしい人に地下に軟禁されていて、話し相手に飢えてるんですよ。その人っていうのも歳上の女性だし、話が合わないっていうか相手が話を合わせる気が無いっていうか。とにかく、辛いだけで退屈だったんですよ。今の今もやっと抜け出してきたところで。あ、なんだったら一緒に抜け出したことを謝ってくれてもいいんですよ?」
自分は、何を言っているのだろうか。
ほとんど無自覚で紡ぎ出されていく言葉の羅列に、他ならぬヒトシ自身が動揺していた。
行き場の無いウタのために、その行き場を作っているのだということは確かだ。もしもウタの姿を見ることが出来るのがヒトシだけなのならば、ヒトシのそばに居ることがウタにとっての最善。傲りではなく、ヒトシもそう理解している。
問題は、自分が何故自分のような人間がウタの力になれると思ってしまったのか、である。
何を付け上がってしまったのか。ウタのような出来た人間が自分のような駄目な人間の力を求めていると、どうして思ってしまったのか。そんな事、あるはずが無いのに。
(お前は、誰にも必要とされてないんだよ!)
(自惚れるなよ。お前の代わりなんていくらでもいる)
(調子に乗らないで。アンタの助けなんか求めてない)
既視感でも、未来予知でもない。生涯決して消えることの無いこびり付いた過去の破片が、ヒトシの脳裏を過る。自惚れるな、現実を見ろと、その胸中には何度も味わったことのある後悔が滲み出た。
せめてもの足掻きとして善行を積んでいた日々が、そしてそれすらも他人には否定されたあの日々が、人知れずヒトシの心を蝕んでいた。
きっと、彼女も同じだ。
誰かを見下し、その誰かに手を差し伸べられることを嫌う、彼らと同じだ。自分と同じ立場まで、堕ちてくれる訳がない。
――この手を、取ってくれるはずがない。
ヒトシがウタから視線を落とした、その直後、
「あははっ! 仁さん、修行を抜け出してきたんですか? 王様を蹴り飛ばした件といい、思ったよりも大胆なことをするんですねぇ。仕方がありません。その恐ろしい人とやらに、私の首を差し上げるとしましょう!」
ハッと、ヒトシは顔を上げた。
「……いいん、ですか?」
「構いませんよ? 正直なところ、このまま城を歩き回っていても退屈ですし、それなら仁さんについていった方が楽しそうですしね」
「……僕なんかに助けられて、平気なんですか?」
「ん、何がですか?」
「えっと、その、自尊心だとか、色々」
「はっはー! わっかりました! 仁さんは妄言を吐く癖があるんですね? さっきから何の話をしているのかさっぱりです!」
「そ、そんな事ないですって! 僕は、ただ――」
「仁さん。助けられるだとか、自尊心だとか、本当に何を言っているんですか? 私はそんな話はしてませんよ?」
あっけらかんとして妄言を吐くだの何だのと言っていた態度から一変して、ウタは真っ直ぐにヒトシを見た。
ただならぬ雰囲気に自身の言葉を遮られ、思わず唾を飲み込むヒトシ。そんなヒトシの手をそっと握り、ウタは微笑んで、
「これは、私達は今から友達ですねって話です」
今までのどんな言葉よりも通る言葉で、そうヒトシに告げた。
「……はは、ははは」
思わず、ヒトシの口から笑い声が漏れた。
自分は、何に怯えていたのか。何を恐れていたのか。
過去は確かに消えはしないが、同時にそれは既に過ぎた事なのだ。そう、少なくとも今じゃない。そして、彼女は彼らではない。
ならば、何に怯える必要がある。差し出した手を握った彼女を、どうして拒絶する必要がある。たとえ何があったとしても、ヒトシか彼女を貶めていい道理は無いのだから。
「ウタさん、謝りに行く前に謝罪の品を用意しましょう。菓子折り……は無いかもしれませんけど、何も無いよりはマシだと思います」
「名案ですね! 首を差し出すとは言いましたが、正直まだ死にたくありません! 仁さん、早く探しに行きましょう!」
すっと手を差し出すウタ。ヒトシは一瞬躊躇いながらも、遂にはその手を取って立ち上がった。
「後悔、しないでくださいね」
「しませんよ。こう見えて私、大人に頭を下げるのは慣れてるんですから。その点で言えば仁さんよりも先輩ですから。頭を下げさせたら右に出るものはいないって、とある界隈で言われてるんですから」
「それってどこの界隈ですか……って言いたいところですけど、少し分かります。ウタさんには強く怒れそうもありません」
「でしょう? 私が居れば万人力ですよ!」
そうですね、と頷きながらヒトシは視線を背後へと向けた。
そこから見えた眼下の街並みは、一人で見下ろした先程よりも、一層美しくなっているように思えた。
今回も読んで頂き誠にありがとうございます。
誤字脱字・感想等ございましたら是非お願いします。
一言でも作者のモチベーションは格段に向上します。
どうか今後ともよろしくお願いいたします。