【JUDGEMENT】
仁サイドです。
出入り口を跨ぐと、ヒトシは焦るようにその扉を閉めた。
木製ではあるが決して脆くはないそれは、余りに力を込めたために僅かに軋みながらも、元居た空間との境界を閉ざした。
そうして、背後から流れてきていた空気の流れが遮断される。それが自分が完全にあの部屋からの脱出したことを示していると理解して、ようやく心を落ち着けることが出来た。
ふと、全身を脱力感が襲った。肩の荷が下りたように扉を背にしてその場に座り込み、ヒトシの口から大きな溜め息が吐き出された。
肩から力が抜けるのが分かる、吐き出される息も荒くはない、緩やかに落ち着いていく自身の拍動を感じて、ヒトシは悟った。
やっと、独りになることが出来たのだ、と。
気高き孤高という生き物は見栄っ張りである。
自分とは違って仲間がいる周囲から少しでも憐れみの目を向けられないように、無意識に見栄を張る。自分は可哀想などではない、寧ろお前たちよりも強い存在であるのだと。そう言わんばかりに、常に気丈に振る舞い、自らの体裁を気にして、誰よりも心の持ち様だけは優れていようとする。
自意識過剰。
そんな一言で片付けられる、その真性。
それは自分に対しての視線がある空間では余りに窮屈だった。
それはヒトシも例外ではない。つい先程まで軟禁されていたヒトシには長期間独りになれる時間が無く、常に誰かに見られているという現実に徐々にストレスが溜まりつつあったのだった。
一時的にでも構わないから外に出たい、その願望は少なからずその孤高性から生まれたものだった。
「やっと、解放された」
臀部から伝わってくる冷たさが、激しくエネルギーを燃やしていた筋繊維を慰める。肌着一枚挟んだ向こうの扉でさえ、その冷たさを背中に伝えている。ひんやりとするその温度は先の激闘を物語るものだと、誰の声もしない通路の中でヒトシは痛感した。
いや、“激闘”と呼べる程、白熱し、高揚し、息を荒らげ、衝突した闘いではないのかもしれない。刃を交えたのは立ち合いの一瞬だけであるし、ほとんどはヒトシが一方的に攻められていただけだ。カリファはヒトシの策を称賛したが、それは逆に言えば策を労さなければ勝てなかった相手だったということ。更に言えば、一度きりの奇策を用いても勝てるか勝てないかの相手だったということ。
カリファ相手に正面から挑み、勝てなかった。当たり前ではあるが、それが当たり前であることがヒトシには気が済まなかった。
ひゅるり、と肌を突き刺すように冷たい風がヒトシの傍を通過した。
「……そういえば、シャツ一枚だった」
制服は身代わりとして使ったため、既に破れている。改めて縫おうにも縫えない程に。
「ある意味唯一着れる服だったのに、勿体ねぇ」
自分の過ちを振り返り、再度大きな溜め息を吐く。
瞬間、そのままずっとその場にうずくまりたい衝動に駆られるが、そんな訳にはいかない。
本来の目的を忘れてはいけない。そもそも、外に出た理由はイルシンクから情報を受け取るためだ。それをせずにまた中には戻れない。
ふっ、と小さく息を吐き、心を入れ替える。仕切り直しだ。
手放し難い冷たさを惜しんでヒトシはその場を立ち上がった。
改めて、今居る通路を見渡す。
天井高四メートル、道幅は三メートル弱とかなり広い。左右の石壁には一定感覚で灯りが灯されており、扉から真っ直ぐと一本道になっている通路の深部まで見通せる。
前の世界ではまるで現実味の無い空間に僅かに不安を覚えるが、灯りがある辺りしっかりと手が加えられている事は確かだ。幽霊、などと不確かな存在に怯えることはないが、奥に進めば見知らぬ無人の土地に辿り着く、ということもなさそうだ。
「……まあ、既に見知らぬ土地には飛ばされてるんだけど」
そう独り言ちながら、念のために腰に携帯している短剣に手をかけて、その通路を進んでいった。
そうして歩き続けること数分、通路の中間地点に到達したかといったところで、ふとヒトシはその歩みを止めた。
「……………………ん?」
目を凝らし、灯りで照らされた通路の深部を再度しっかりと見遣る。
今まで距離が離れていたがために見えていなかった真実が、そこに至ってようやくヒトシの視界に潜り込んできた。
「…………行き、止まり」
そこにあったのは、ただただヒトシの進路に立ち塞がる壁。何の変哲もない、左右の壁と同じ石材で組み立てられている絶壁だった。
たとえカリファとの勝負に勝てたとしても、物理的に出られない。その壁はそう暗に告げているようで、思わずヒトシは顔をひきつらせた。
もういっそ諦めるべきか。
そんな発想が、壁を目の前にしたヒトシの脳裏に過る。が、しかしそれを実行に移す前に、ヒトシの視界に希望の糸が映った。
「はは、カンダタの蜘蛛の糸ってか」
中間地点から最深部まで歩き続けている内に見えてきたのは、蜘蛛の糸――ならぬ一本のロープだった。
更に進めば、通路の形状まで変化した。
真っ直ぐに立ち尽くしていた左右の壁は膨らみを持ちながら湾曲し円状の広場を形成。天井は途中で途切れており、円状の広場となっているその場の上部はまるっとくり貫かれている。おおよそ、大規模な井戸のような形状がその場には出来上がっていた。
「……エレベーターって素晴らしい」
現実から目を逸らすための呟きを漏らし、ヒトシはその空間の高度を目測する。
見たところ、そう高くはない。疲れていても登るのは無理じゃない高度だろう。となれば、ヒトシに残されている選択肢は一つしかない。
短剣を握るのも難しい程に疲弊した手で、綱を握る。視線を向けるのは上の方だ、下を向いてはいけない。手繰り寄せ、また手を伸ばし。
疲弊仕切っている身体に鞭を打ち、 出来るだけ無心になってロープを登った。
やがて、宵闇を照らす青白い月光がヒトシの目を入る。上を見上げた時点で覚悟はしていたが、どうやら日の光を浴びることは叶わないらしい。
僅かに不満を孕んだ息を一吐き、その後最後の力を振り絞り、ヒトシは井戸の口からその身を投げ出した。
井戸から飛び出したヒトシを初めに迎えたのは、地面一面に敷き詰められた芝草。それらはヒトシの身体を受けとめると、数日振りの土の香りをほんのりと漂わせた。
ヒトシは身体を翻して、うつ伏せの状態から仰向けになる。腹筋を駆使して身体を起こし、周囲を見渡した。
そもそも、事の始まりが城内の食堂でイルシンクに気絶させられたことであることから、訓練室が城内、またはそう離れていない場所であることは容易に想像がつく。また、カリファが同行せずにヒトシ一人で外に向かわせたことからもそれは察知出来る。十中八九、ここはモンタニア城内だ。
だが、万が一にもその予想が外れる可能性はある。第一危険物取扱室という物々しい名前からして、城外に置いておく可能性と必要性は十二分にあるのだから。
あくまで気を緩めることなく、ヒトシは辺りを観察した。
左手には先程這い上がってきた井戸、右手には変わらず芝が広がっており、局所的に花が植えられている。どうやら人の手が加わっているようだ、とヒトシは内心胸を撫で下ろす。
いや、実のところ左右の光景などヒトシはさして気にしていない。あくまでついで程度に確認しただけ。ヒトシが目を奪われた光景は、ヒトシの前方にあった。
それは、生命の輝きだった。比喩ではなく、率直にヒトシはそう感じた。
ヒトシの眼下に広がっていた光景、それは街の全貌。宵を告げるようにポツポツと浮かび上がっている光の点。深まる闇を照らすためのそれは街の至る所で見られ、街の活気を視覚で訴えてくる。光が集まっている地区はそれだけの人の出入りを表している。
白い石壁に紅の屋根。どれも同じようで、けれどもそれぞれが僅かに異なっている。様々な人の手が加わっている証だ。
ヒトシは生命の営みというものが、目前に広がっているような気がして、身震いした。
正面に視界を遮る物は何一つ無く、芝はある境界から途切れている。そこから先には既に街の光景が広がっている。文字通り、地面はそこで終わっていた。
四つん這いの状態でその境界まで近寄り、注視してみれば、今自分の居る場所がどこなのかが良く分かった。
そこからは街の全てが見渡せた。嘘偽り無く、街の端から端まで、最も遠いと思われる街の門からヒトシの真下に位置する城門まで。
そう、そこは間違いなく、リ・エリーゼ・モンタニア王国王城だった。
「……なるほど、ここは城の庭ってところか」
現状を把握して、ようやくヒトシは警戒を解く。重い腰を上げて、大きく伸びをした。
さて、ここでヒトシに一つ問題が生じる。元を断たなければ、これまでも、そしてこれからもぶつかるであろう問題。ヒトシには城の構造が分からない――則ち、迷子。
この王国に到着してからヒトシが過ごした時間はおおよそ二十四時間(訓練時は除く)。城の構造を理解する時間などありはしなかった。
正直、右に行けばいいのか左に行けばいいのか、皆目見当もつかない。国王であるイルシンクの元に向かうなら上に上がるであろうことは大体察することが出来るが、流石にそれだけを道標に先に進むほどヒトシも馬鹿ではなかった。
もっとも、また食堂に向かえば酒でも飲んでいるのでは、と頭に過ったのは言うまでもないが。
「ふぅ、独りになるとつい無駄に考え込んじゃうよな」
いつまでも立ち止まっていても仕方がない。人見知りのヒトシとしては気が進まないが、誰か人を捕まえて道を聞くことにした。流石に転移者であるヒトシを邪険に扱う者はいないだろう。
あわよくば着る物もついでに貰えれば、なんて考えながら、ヒトシがもう一度街の光景を一瞥した――その時、不意に一際冷たい風がその場を襲った。
「きゃっ!?」
それは、背後から聞こえてきた。
瞬間、ヒトシは耳を疑った。
つい先程見渡したとき、庭の中にはヒトシ以外の人影は無かった。また、誰かが忍び寄ってきた気配も感じなかった。だが、たった今耳に届いたのは、聞こえるはずのないヒトシ以外の誰かの声。それも、女性の小さな悲鳴だった。
真っ先にヒトシが疑ったのは、自分の師であるカリファの存在。カリファならヒトシの警戒の網を掻い潜ることが出来たのも納得ではある。が、聞こえてきた可愛らしい悲鳴とカリファはヒトシの中で結び付かない。
ならば、その目で確認する他あるまい。ヒトシは腰の短剣に手を当てて、ゆっくりと振り返った。
「…………え?」
思わず、ヒトシは声を漏らしていた。
やや垂れている、見開かれている煌めきを孕んだ黒い瞳。それをより強調するように備えられている大きな睫毛。他のパーツと異なり主張しない、けれども美しい鼻筋。ほんのりと赤く染まっている瑞瑞しい肌の頬に、ふっくらと豊潤な唇。
端正な顔立ち。
その一言を体現したような見知らぬ美少女が、ヒトシの眼前に立っていた。
しかも、それはこの世界の顔立ちではない。明らかに、ヒトシ達の同郷の世界の人間のものだった。
しかし、驚くこと無かれ。ヒトシが唖然としている理由はそれだけに留まらない。その大きな要因は、何と言ってもその姿。
――美少女は、ほとんど下着姿だったのだ。
肩紐の無い、胸囲だけを隠してそれ以外を曝け出す黒のチューブトップ。ほとんど下着の覆える面積と変わりない、健康的な太股が露になっているショートパンツ。
全体的に肌を隠す面積の小さいそれは、膨らみとくびれのハッキリとしたボディラインを惜し気もなく解放していた。
これは危険だ。
咄嗟に、出ている訳でもないのにヒトシは鼻血を警戒して鼻を両手で覆う。年頃の男子には毒としか言い様がないその全貌に間違っても目を移してしまわないよう、ただただその少女の目を見つめた。
すると、当然目が合った。
再度通った冷たい風に、少女のショートボブの髪が揺れる。同時に、ヒトシの心も揺らぐ。
動いたら死ぬ、社会的に死ぬ。
決して間違えてはいないその直感が、その場にヒトシを縛りつけた。
一方、少女はというと、現状が掴めていないのか、首を傾げてヒトシを見ている。大胆にもへそを露にしたその身体を隠そうともせず、ただじぃっと。
その状態のまま、数秒間二人は沈黙していた。
まるで西部劇の一幕のように、ただ相手の出方を待った。
加速する拍動。
額を伝う嫌な汗。
そして、いつ姿を現すか分からない鼻血。
いっそ殺してくれ、そうヒトシが願っている中、少女が先手を打った。
「…………私が、見えてるの?」
言葉の意味は分からない。けれど、咄嗟に答えていた。……それが、墓穴を掘ることになるとは分かっていながら。
「……はい。バッチリと」
刹那、少女の顔が明らかに強張った。
ようやく、自分の置かれている状況を把握したのだろう。ヒトシは目を瞑り、静かに裁きを待った。
けれど、待てども待てども裁きはやってこない。あくまで変なところに目がいかないように、恐る恐る目蓋を上げると、
「……あは、あははは」
少女は笑っていた。
「……あは? あは、あはは」
瞬間、ヒトシの脳はその処理速度を数倍にも跳ね上げて最善の選択を導きだす。いわゆる、同調だ。
あくまでも相手の調子を崩さぬように刺激は与えず、けれども無反応は避けて、同調した。
「あはははは、はは」
「ははははは、ははっ」
しばらくの間、奇妙な雰囲気がその空間を支配する。
何一つ笑えないのに、無理矢理顔をひきつらせて笑っている。そのおかしさの余り、頬が何度かつりそうになった。
しかし、やはりそれは長くは続かない。
笑いが、というよりも、ヒトシの精神が耐えられそうになかった。
そこで、再度脳をフル回転。被害を広げず、かつ許してもらえるような選択を探す。
その時のヒトシの脳は、間違いなくカリファとの決闘の時よりも酷使されていた。
「……あ、あの」
「あはは?」
ヒトシの導きだした選択は、会話。
上手く丸め込めれば誤解を解くことができ、更に彼女の心の傷も減らせる。その場で即座に考え得る限りの、最善。
そう、あくまで、その選択は最善だった。――その選択肢を選んだのが、奥手で友達皆無の人見知りでなければ。
「あ、あ、あの、そ、その」
ヒトシの脳裏を様々な言葉が過る。
日常での挨拶から始まり、つい数分前にカリファに切った啖呵まで。今までの人生で口にしてきたことや、いつか言ってみたいと思った台詞まで、ありとあらゆる言葉が走馬灯のように駆け巡った。
そして、その中には――つい先程頼みたいと思っていた事も含まれていた。
「あ、ああ、あ! あなたの! 服を下さい!!」
次の瞬間、容赦も、ほんの少しのブレも、僅かな間も、そして迷いも無く、ヒトシの頬に裁きが下された。
今回を期に仁の名前の地の文の表記をカタカナに変えました。
一文字だと読みにくいかなぁと思いまして。
その他にも読者目線で気になることがあれば、なんなりと報告してください。お待ちしております。