【治癒を行う修道女】
人の気配がする。
同時に、ザッザと土を蹴る足音が無数に響いてきた。自分自身が、そこからかなり遠い場所にいる気がしてくる。
数分後。
また、足音だった。
乱雑で、統一感などはない。ただ周辺を闇雲な足音だけが支配しているのは厭悪を感じずにはいられなかった。その音をかなり近くに感じる。耳がひんやりと冷えることから、自分の体が地上に横たわっていることもわかった。
そこで、ひどく体温が低下していることを俄然に悟った。血で濡れているのだと、その体温低下の理由が肌で感じ取れる。それも、獣の臭いのする血にまみれている事実。五感が一気に、冴え渡ってきた。
また数分が経った。
声も聞こえる。今や、すでに感覚は覚醒時と変わらず、違いと言えば目蓋がふさがっていること以外に皆無である。
草むらで虫が、ガサリと音をたてた。
するとそれに次いで、鼓膜を破ろうかという破裂音がパンと耳元で炸裂した。
「はッ!!」
現実味が真っ直ぐに脳へ伝達されて、タクはバッと跳ねるように起き上がった。直後、辺りを見回すと、ぐるりと人に囲まれている。
新手か、とタクは起動したばかりの脳ミソを急速に回転させ、身構えた。そばには丁度良く自身の長剣が転がっている。
抜き身をそのままつきだして構えとした。中腰である。
タクは唐突のことで、状況の把握がままならずにいた。そのせいで、いまだ相手の数さえ確認出来ずにいる状態である。
体の感覚が全くない。普段ならあり得ないであろうまったく鈍重な動きで、最も近間にいる者へかかって行く。また、戦中の輝きを失った刃も、タクと同様にひどくのろまであった。
緩く浅く踏み込んで、その力のまま刃先を振った。勢いそのまま、剣の先が相手の胸元に向かってひゅうと伸びていく。ところが、タクの力なく下ろされた剣は、ヌッと前に出た腕につかまれてピタと止まった。
「――よいと。……ふむ、殺る気であるか? なるほど。それならば、こちらもそれ相応の力で返さねば、なるまいの」
受けた手の主は、白い髭を鼻から下にたっぷりとたくわえ、腰の曲がった初老の男であった。
その男はそう言うと、右腕につかんだタクの真剣を、まるで木剣であるかのように力強く捻り、タクの体ごと空に舞わせてすっ転ばせた。タクは落下する紙切れと化して即刻、背をしたたかに地面に打って、激しく咳き込んだ。タクが消耗していることもあり、力量差は歴然であった。
「これがヒュージオストリッチを殺ったとは、まこと、信じがたいことであるがのぉ」
白髭の男は鼻息荒く言うと、腑に落ちない顔つきになり、足元で呻くタクを睨んだ。
その一方、かつてないほどの激痛がタクの全身を支配していた。仰向けに転ばされた痛みだけではなく、身体中の筋肉という筋肉がひきつったように痛むのである。あまりの刺激にタクの視界は、星が散るように明滅した。動けば自分が自分ではなくなりそうで、引き裂けて精神ごと全てを手放しそうになる。
タクはその苦悶に喘ぎつつ、白髭の巨漢を見ながら口を開いた。
「……ッここは。それにあんたはッ、誰だ」
「おぬしが倒れとった場所じゃろう? どこにいたか思い出すのじゃ。それと、先に名乗るのが礼儀であろう」
「ッぐ、すまんッ体がッ、痛くてな、頭がまわらない」
「まあよい。おいっ、こやつを搬送しろい。場所はノーミン・アンモンネ教会じゃ」
白髭の男が、側に立つ若者にそう言うと、その若者は、「わかりました、おいっ、お前らもだっ」と言いながら何かを取りに走り、続けて何人かの男たちも連れだって走っていった。
見ると、遠くから薄汚れて黄色がかった、布のようなものを持って若者たちが戻ってきた。それに白髭の男が指示をすると、若者たちはその広い布を置き、タクを抱えてその上に乗せた。タクは少なくない痛みに襲われたが、若者たちは布をうまく持ち上げ、そのまま担ぐように大勢で浮かせた。
「俺をッどうするッ、つもりだ」
「なあに、ギルドマスターのいうことに間違いはねえ。このまま教会に、運んでくぜっ」
若者は元気よくそう叫んだ。男たちは、“運んでくぜっ”という言葉と同時に、えっほえっほと走り始めた。
タクは初め、不安感が心にあったが、振動を限りなく抑えた走法によって、心地のよい眠りにつけそうだった。筋肉の痛みは依然としてあるが、動かなければどうということはなかった。
空を見上げれば、日が沈みかけ、随分暗くなり始めている。気温も昼頃に比べて冷え込みだしている。タクは、このまま俺が倒れ続けて目を覚まさなかったら死んでいたかもしれない、と感じていた。恐らく最初の破裂音は、手を叩いて鳴らした音に違いなかった。そう思えば音の主に感謝しなければならないと、霧散しかける意識の奥で感じた。
「話はまた教会での。それにしても大きいヒュージオストリッチじゃった。すぐさま部下に検査をするよう言わねばな」
白髭の男は残りの者に鳥の死体を見張るよう命じたらしい。並走していた手持ちぶさたの男が三々五々、先ほどの方角に踵を返して走っていく。すると白髭の男は満足そうに右の手でその髭をしごくと、タクたちを追い越して素早く向こうへ行ってしまった。あまりの速さのため、数秒で豆粒のようになってしまう。この時すでにタクは眠りに身を任せてぐったりしていた。
このあと、長い間タクは揺さぶられ続けるのだった。
◼ ◼ ◼
「――ここは、どこだ?」
タクが覚醒すると、周りは白い壁の巨大な部屋であった。見渡すと、固そうなベッドが規則正しく一面に並んでいた。その一つにタクは横たわっていたのだった。他のベッドにも人が寝ているが、皆一様にぐっすりと深く眠っているようである。寝息だけがその場の音を支配していた。
建物は石造りのようだった。ひんやりとした空気が床から放たれていた。タクはうそ寒さに体を震わせ、自身の服に目をやった。リーンの父親から拝借していた黒のシャツが目に入らず、代わりに真っ白な、言うならば白衣を身にまとっているようだった。それを一枚羽織っているだけで、内側は下着のみである。
(なるほど、どうりで肌寒いわけだ)
タクはベッドを降りて立ち上がり、起きている人を探そうとした。横にスリッパに似た履き物が置いてあったので、ありがたく頂戴する。並ぶベッドの脇を通り、他の部屋への扉を探した。
目的のものはすぐに見つかった。人が三人ほど同時に通り抜けられるほどの扉であった。それは洞窟のような廊下を少し行ったところにある。それは開き扉であった。それを両手で開け放った。時間はまだ夜であるらしい。底冷えのする冷気が扉から流れ込んできた。他の者に申し訳ないので、タクは通ったあとすぐに扉を閉めた。
抜けた先は、教会であった。複雑な模様を描くステンドグラス窓が嵌め込まれ、天井は高い。白を基調にした壁や床はやはり石で造られている。神聖な雰囲気がそこに立ち込めていた。冷えた空気と、ポツポツと置かれた蝋燭の仄かな灯りがそれを際立たせた。
タクは中央に向かって立ち並ぶベンチ型の椅子の一つに腰を下ろした。ここの教会はホールの中心に祈るらしく、円のようにぐるりとなっていた。とはいえ、かなり広い聖堂である。端から端の距離は十分にあった。
「いい聖堂だな」
「そうでしょう? 古代の匠の業ですから」
不意に背後から声がかかった。女の声である。
それも、鈴のようなきれいな音で喋る女の声だった。
「誰だッ」
タクはまだ少し痛む体に鞭打って臨戦態勢になった。よく考えれば、このような神聖不可侵の場で祈る悪人など、悪人のうちに入らない。しかも相手は女である。
しかしタクはひどく過敏になっていた。気配に気付けなかったのは、神聖な空気に圧倒され、夢中になっていたからである。
「あらあら、せっかく治療した大事な体でそんな無理を。まだ痛むでしょう? 完治していないのよ。おとなしくなさいな」
暗がりでよく見えないが、女は修道女であるらしく、白を基調とした修道服を身に付けていた。頭には白い頭巾、その上からまた白いベールを被っている。所々に金色で装飾が施されていた。
タクは彼女がここの関係者だと悟ったとき、全身から力が抜けた。そのまま椅子にぐったり座り込んだ。
「あら、やっぱり無茶はダメね」
女はそう言ってタクに近寄ると、瞑目し、右手を向けた。
数秒の祈りのあと、女のその手に光が集まり、神聖な気配がタクの付近に漂った。
「――御心のままに。『レメディ』」
女が唱えると、光はタクの体に移り、ポウっと吸い込まれて霧消した。光の残滓が漂い、タクと女の周りを包んでいる。なんと幻想的なことだろうか、とタクは目を奪われた。次の瞬間には、タクが感じていた苦痛が僅少ながら和らいだ。筋肉がほぐれ、また繋がるような感覚に陥る。しかし痛みは完全に拭われなかった。それでも以前よりずっと良かった。
「これは……」
「ふふふ、この地方ではめったに見られないとおもうわ。これは“魔法”というのよ。特に私は、神聖魔法を扱えるの」
「魔法だって?」
「そう、魔法。……貴方、魔法を知っているのかしら? それとも興味がおあり?」
彼女は首をかしげて、人差し指を口もとに当てた。艶かしさが伝わってきた。今は、魔法の残光が辺りを仄かに照らすため、タクは彼女の容貌を知ることができた。
服装は先ほどわかった通りの修道服である。そこから顔を出した彼女は、物凄い美人であった。とにかく肌が白かった。まるで白磁器のような白さである。
白と金の修道服と相まって、そのビスクドールにそっくりな顔が違和感なくスッと認識できた。目鼻立ちも整っており、全く人形そのものという感じであった。髪は金色で、さらさらと波打って肩より下くらいまで伸びていた。
目線を下げれば、服の上からでも、柔らかそうな胸が目に入った。かなり大きめである。メロンのような玉が二つ、修道服を押し上げていた。身丈はタクのあごの高さくらいまであり、女性としてはかなり高いと言えた。
邪な目で見ていたわけではなかったが、タクは罪悪感を覚え、言葉を返すのに集中することを決めた。
「魔法は知ってるさ。だが、神聖魔法なんざ聞いたことはない。さっきみたいに治癒ができるのがそうなのか?」
タクは椅子に寄りかかって訊ねた。すると、彼女も隣の席に座り、質問に答えた。
「ええ、そうよ。でもね、神聖魔法の中でも回復は少し毛色が違うわ。簡単に言うと、人の体がうまく働くように、その補助をするのよ。……貴方はひどい筋肉痛に悩まされてたみたいだったから、筋繊維を修復する手伝いをしただけ。完全じゃないのよ」
「なるほどな。通りでまだ痛むわけか。ああ、それと遅くなったが、あんたの名前を聞きたい。俺の方は具貂タクという。金なし家なし定職なしの旅人さ」
凝り固まった肩をほぐすようにグルリと回しながら、タクはおどけたように言って見せた。
「えと、グテンくん? でいいのかしら。私はティシュリーよ。ここの教会でシスターをやってるわ」
それに対して、修道服の女――ティシュリー――は落ち着いた声音でゆっくりと自己紹介をした。当たり前か、やはりシスターであった。タクはすっかり相好を崩していた。
「やっぱりシスターか。よろしくティシュリーさん。で、どうして夜中にここにいたんだ?」
「……嫌いな人に呪いをかけてたのよ」
「それで暗い中一人で……っておい! 神聖なシスターのすることじゃないぞッ」
「あら、冗談よ? でも身近にちょっと嫌な人がいるのは事実だけど」
「ま、いいか冗談なら。で、ティシュリーさんはどこで魔法を習得した?」
タクは些末な事を気にする男ではないので、受け流して次の質問を繰り出した。そしてそれこそが最重要事項である。この近辺で魔法があまり浸透していないとすると、このシスターはどこでそれを学んだのか、という単純な疑問であった。
「姉さんから教えてもらったのよ」
「姉さん?」
「ええそうよ、姉さん。私の実の姉のことね。……私の姉さんはここ、ノーミンの出身じゃなくて、もう少し北の方に住んでいたの。昔、私と姉さんは離れて暮らしてたわ。でも今はノーミンにいるはずだから、詳しくは姉さんに訊ねたほうが早いかもしれないわね」
ティシュリーは少し眉根を寄せて答えた。いい気分ではないのだろうか。それでもタクは詳しく聞くことにした。
「へえ。その姉さんとやらはどこにいらっしゃる」
「あまり紹介したくないんだけど、たぶん朝になったら会えると思うわ。教会にはよく顔を出すから」
ティシュリーの姉は教会の常連らしかった。毎日顔を合わせる姉妹なのに、仲が悪いのだろうか。そう思ったタクだったが、他人に深く関わっても変に情が芽生えて、別れが辛くなるのは困ると考え、あっさりとした内容を口に出した。
「そうか。それじゃ気長に待つとしよう。こっちにも用事があるからとりあえずはそれを消化してから聞くことにする。初対面で質問攻めして悪かったな、ティシュリーさん」
「別にいいの。聖堂の魅力がわかる男性に悪い人はいないって、昔から言うもの。それに貴方、良いものが憑いてるみたい。だから、気にしないで、結構楽しかったもの。でも一度私の回復を受けた以上、また会う可能性のほうが高いわね。貴方、まだ未熟そうだわ」
「痛いところを突く……」
「ふふふ、そうこういってるうちに少し明るんで来たじゃない? それじゃあ、私は少し休んでくるわね。お休みなさい」
ティシュリーは手を振って、奥の部屋へと歩いていった。彼女は仕事もあるだろうから、あまり多くは眠れまい。
窓から僅かに白んできた空が見えた。
「お休み、ティシュリーさん」
タクは遠くなるティシュリーに言葉をかけた。そして自身ももう一眠りするために、もとのベッドへと帰り、薄い布団をかけて眠った。非常に浅い睡眠だった。しかしそれでも十分に英気を養えそうだった。