〈弐〉2
「…………最悪だな」
夜。
ボロいアパートのボロい部屋の、空間を圧迫するツインベッドのその上で、憑物は悪態を吐いた。
朝から昼に掛けて長時間二度寝したのが原因か、唯一無二の欲求である眠気すらやってこなかった憑物は、ゴロゴロ寝返りを打ったり、冴えまくった眼を閉じて羊さんとペーターをちまちま数えたりと苦心して三時間後のことだ。羊よりもペーターが増えすぎて脳内が混沌と化しつつあった頃、やっと浅い眠りにつけたのだが、
苦労して寝ついたというのに、憑物は夢を見るやいなや自力で意識を覚醒させて起きてしまった。
憑物にとって、見たく、視たくもないものを不覚にも見てしまったせいだ。
「あー…前もって判ってただけに嫌気が差すな。くそ」
上半身を起き上がらせて、自分自身に毒づく。
あの夢を見ることは百も承知していたのに。
承知の上で、夢を別の内容に変えてしまおうと考えていたのに。
珍しく“流れ”に逆らおうとしたせいなのか、上手くことを運べなかった。
憑物らしくない、失態だ。
「……あれから八年と二日、十七時間五十九分五十七秒、八、九、……十八時間ジャスト、と」
手のひらで顔を拭くのを片手間に、ボソボソ時間を数える。
本日は二00七年八月四日、深夜零時丁度。
それから八年と二日、十八時間前は、一九九九年八月一日明朝六時。
世界の終焉を予言された日の翌日。
『彼女』の存在が消えた、日だ。
「馬鹿らしい。何がいつまでも、いかなるときでもだ。自分だけさっさと殺されてれば、世話ないだろうが」
憑物は口元を歪めながら、冷めた物言いでひとりごちた。
寝覚めが悪い。なにか気晴らしにと暗い部屋を見渡し、開け放してある窓に視線を移す。
ベランダから覗く空には、平坦に拡がる雲が月や星を隠して見えなかった。
あの少女と一緒に見上げた紅い月は、もう何処にもない。
「………寝よ」
起きていても陰鬱な気分は払拭されないと判断し、憑物はベッドに戻った。
涼しい風がそよぎ、夏の風物詩は一つも聴こえず、
静かに、鎮まり、沈んだ時間が流れた。
「…………」
耳鳴りがしそうな程の静寂。
憑物はやがてゆったりと息を吐いて、胸を上下させて、ゆるりと眠りについた。
無音が部屋を埋め尽くして、生ける者全てが夢の中に誘われたその空間に、雲が途切れて顔を出した月の明かりが射し込む。
部屋は照らされ、暗闇が薄れていく。
人一人分の影を残して。
「…」
黒づくめの男が、立っていた。
男は無音のまま、風の流れも乱さず、そこにいた。
憑物の真上。
身体を跨いで立ち、冷淡な眼差しで憑物を見下ろす。
左手には刃渡り二十五cmのナイフ。
月光を受け、鈍く光るそれを両手で構え、男は膝を下ろす。
シーツに僅かなシワが寄る。それだけで、膝のついた部分は窪みもせず、ベッドは小揺るぎもしない。まるで男には体重がないのではと錯覚させた。
「…」
憑物は起きない。
ナイフの先端が憑物の喉に突きつけられる。
重力に任せて手を降ろせば、それが致命となる。
簡単な行程。
容易い所業。
少しつまらなく思いながらも、男は気を弛めず、確実に、憑物を殺す―――…、
「ざーんねん」
ビクッと、男の肩が跳ねた。
降り下ろそうとした自分の腕、その手首がいつの間にか握られている。
就寝した筈の憑物に、凶刃を遮られている。
驚きを隠せない。
気配は絶っていた。
殺気が漏れたか。
しかし、
「無駄無駄。俺の方が速かった。…お前はもう終わりだ、井和木」
「ッ」
悪寒に襲われる。
男は名を呼ばれ、瞬間一足飛びで後退、ベッドから離れる。
距離を取り、対象の出方を窺い、
「怖がるなよ。化け物を視た訳じゃ、ないんだ」
背後から、声。
ベッドは、もぬけの殻。
何故、という疑問。
自分より速く、ベッドを離れた?
この対象は、何者?
依頼主は、ただの高校生だと。
変鉄のない少年の暗殺など、裏があると訝ってはいたが。
一体、これは。
コレは、
「チィッ!」
ナイフを逆手に持ち変えて、振り向き様に振り抜く。
外しはしない。男はプロだ。それこそ正確に、これこそ確実に、対象を一撃で仕留める。
肉が裂け、血が滴り、痛覚に顔を歪める。
刃は心臓に食い込んだ。感触が伝わった。
終わった。
依頼を遂行した。この少年が何者なのか知らないが、死んでしまえば関係なくなる。
そう、関係ない。
関係ない。
関係ない。
もう、オレがシんでも、カンケイない。
「…………」
ナイフが抜け落ちた。
吹き出るチ。
床と金属がぶつかる。
男は動けない。
動かせない。
「何……?」
血を流しているのは男の方。
胸の中心に開いた傷を、信じられない表情で見つめる。
自分自身で、刺したのだ。
振り向き様に、対象を刺そうとして、
自分を、刺した。
自殺だ。
自害だ。
自分を、終わらせた。
終わった。
これで、終わり。
関係ない。関係ない。関係ない。
これで、もう、ダレモ、ボクヲ、
「待て待て待て。何だ? 僕? ぼくだと? 何を言っている。ぼくじゃない、ボクジャナイ。俺は、おれだ。オレナンダ。オレハ、ボク、デ? イヤ、イヤ、イヤイヤイヤ、オレ、オレオレトボクハ? オ……ボク、ハ。ダレ、モ、」
ダレモ、
ダレモ。
ダレモ?
モ ウ 、 ダ レ モ 、 ボ ク ヲ 、 イ ジ メ ナ
「夢に溺れろ。他人に侵されろ。心逝クマデ視ニ晒セ」
「ォ、ォォアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!??」