〈壱〉2
昼。
憑物は近くのコンビニエンスストアに出向き、朝食兼昼食を買いに来ていた。
空腹に堪えかねて、ではない。
憑物は空腹にならない。“地獄”を視て壊れた影響か、人の三大欲の内、睡眠欲以外の二つが欠落しているせいだ。買っている品も、アパートに残してきた卯月えるに与えるものが大半を占めている。
人一人分の食料と、絶食期間一ヶ月突入しかけていたので私用に栄養食もカゴに入れ、レジで会計を済ませようとカウンターに向かう。カウンターには店員が一人、憑物が来るのを笑顔で眺めていた。
憑物が近づくと店員は、
「…」
わざとらしく脇に置かれた商品に眼を移した。憑物もつられてそちらに視線を向け、その商品に注目する。
「肉まん、半額…」
およそ今の季節に合わない、異彩際立つ商品だった。
七月中頃、いつまでたっても夏らしい気温にならない、ならそれを逆手に冬の定番を売り出そう、珍しさで客が食いつくぞ! と店長が豪語し見事売れ残ったものだ。見ていて心切なくなってくるのは、狙いを外した店長の哀愁が乗り移っているからか。
「…」
カウンター越しに立つ店員が、肉まんに興味を示した憑物を標的に、チラチラ覗きみる。
視線が語る。
―――お客様、買いですか?
店員は買って欲しいそうだ。
が、憑物はしれっとして、
―――見てるだけ。
カゴを持ったまま、その場仁王立ちで肉まんを見続けた。
しばらく、憑物と店員との間で静かな駆け引きが行われる。
―――買うんでしょ?
―――いいや。
―――買いたそうな顔してるじゃない。
―――見てるだけだ。いくら冷夏でも、夏に肉まんはない。
―――ならさっさと会計済ませたら(雑)。
―――いや待て焦るな落ち着こう。これって賞味期限大丈夫?
―――黙秘。
―――眼を逸らすな。ヤバいんだな? 駄目なんだな?
―――買って確かめたらどうすか。
―――そこで投げやりになるな。当たったらどうする。
―――当選、おめでとうございます。
―――まだ当たってねぇ。
―――チッ。ちゃっちゃと決めろや意気地がねえな。買いたいんだろ? 食いたいんだろ?
―――食い…たくないといえば嘘になる気もなくはないが、
―――買えよ。
―――やだ。
―――なんで。
―――負けた気がする。
―――ある意味勝者だぜ。
―――どっちかというと挑戦者だろ。
―――皆誉めるよ。英雄だよ。
―――直後にトイレ直行の英雄て。
―――頑張れよ勇者。
―――何を頑張れと。
―――だーいじょうぶ。自分もさっき食ったよ。
―――結果は?
―――CMの後で。
―――当たりか…。
―――当たったよ。ああ当たったともよ大当たりさ。立ってるだけで精一杯さそうさ俺は英雄さ。英雄という名の冒険者さ臆病な君と違ってねぇ!
―――…。
―――なあ、もう良いだろ。
―――…俺は。
―――いこうぜ。ピリオドの向こうへ…。
―――俺は……ッ。
―――寂しがり屋の伝説を、創るんだ。今こそ!
―――う………うおぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおッッッ。
「邪魔だからそこ退いてくんない?」
げし、と。
決断に迫られた憑物を足蹴にして、黒髪の少女がレジの前に立った。
腰を容赦なく蹴られた憑物は顔をカウンターの角にぶつけ、痛みで身体をくねらせる。少女は悶絶する憑物には眼もくれない。店員はいきなりのことでおろおろ、憑物を気に掛けて、
「早く、しなさいよ」
「お会計はこちらになります」
一睨みで憑物を見捨てた。人間とはかくも薄情な生き物だと憑物は再認識した。
少女は店員に金を渡し、平然と店内を後にする。緊迫感漂っていた空気は和らぎ、回復した憑物は恨みがましい眼で店員を一瞥。店員は苦笑いしながらアイコンタクトで、
―――ところで、肉まんは
―――元から買う気はない。
相手にもされなかった。おまけに会計を始めようとする前に乱暴にカゴを奪われ、万札数枚を横暴に手渡されて足早に立ち去られる。終始ジト眼で睨まれて。
店員は少し、どころかかなりいたたまれない気持ちになって、己れの頼りなさと不甲斐なさを恥じ、お客様を見捨てたことを大いに反省したが別に憑物も怒ってはおらず単に意地悪しただけなので店員に合掌。
落ち沈むアルバイターを無視して憑物も店を出る。コンビニ付近、道路を横断している少女を見つけ、そちらに向かって歩き出した。少女に大事な用があったから。
用というのは、不意打ちで蹴られたことではない。あの場面で蹴られることは視っていたし、そんなことでいちいち腹を立てる憑物でもない。ただ、憑物は少女に対して、一言言わなければならないことがあった。
黒革のジャケットを来た少女は、遠目でもやたらに目立つ。動向を観察していると、少女は歩道を渡りきる手前まで進んでいて、信号機も点滅。憑物が渡る時間はないので追いつけそうになかった。
否、追いつく必要はない。声の届く範囲まで近づければ、それで良かった。
たった一言、少女に伝えられれば良いのだから。
「丕阿波累李!」
憑物が声を上げて少女を呼ぶ。
横断歩道を渡りきる寸前、少女は声のした方へ、憑物に振り返ってあからさまに不審な眼を向ける。お互い、親しい仲でもないし、というより先程の運命的な邂逅が初顔合わせなのだから、自分の名を視っている憑物を訝ってもそれは仕方ないことだ。
それよりも、視通した通りの展開となったので、憑物は少女に伝えなければならないことを告げる。
少女にとって生死に関わる、重要なことを。
「止まると危ないぞ」
止まると、危ない。
少女は憑物の不可解な伝言を聞いて、
左手から走ってきたスクーターバイクに撥ね飛ばされた。
運が良かった。
バイク運転手は直前で少女に気づき、避けきれないと判った時点で自ら転倒して直撃を回避、少女の方も反射でバイクの慣性に従って飛び、衝撃を和らげた。
結果、少女も運転手も軽傷で済み、大事故には至っていない。
…そもそも憑物が呼び止めなければ、事故が起こること自体なかった筈だが。
そのことを聡明にも理解した少女は、事故を目撃して駆け寄ってきた有象無象を蹴散らして憑物を捜した。
憑物はといえば、少女が跳ねられた時点で邪悪にほくそ笑み、さっさと姿を眩ませて。
小一時間、猛り狂った少女は街中を探し回ったが、遂に憑物を捉えることは出来なかった。