〈参〉4
李稔が脳内妄想に囚われて数時間後のこと。
「―――ッ、…………! 〜〜〜〜〜〜ッッッ」
「……ん?」
濃い霧のまま朝日が昇り始め、やっと正気を取り戻した李稔の耳に聞き覚えのある声が届いた。声の主は相当機嫌が悪いらしく、怒鳴るような勢いで悪態を吐いている。
「………ッッッたれぇ!! あの黒髪骸骨影薄野郎がぁ……次に逢ったら裂っき裂きの裂っき裂きにしてやんよぉ!!」
「…累李か。何をそんなに荒れている」
黒髪の少女が吠えながら石段を上がって姿を現した。李稔は全力疾走でもしたかのような汗だくの少女を呼ぶと、、黒革のジャケットの胸元を全開にした(下に何も着けていないのでかなり危うい)状態の彼女は李稔をガン見し、苛々の絶頂期ですと言わんばかりに怒鳴った。
「アンッタには関係ないわよこのクソジジィ!! 根暗が話し掛けんじゃないわよ、たく…」
「…」
彼女は口汚く罵って早足に社へ向かって歩き去っていった。ズンズンという擬音が聞こえそうな大股で。
怒りの捌け口にされた李稔はほんの少しきょとんとして、気を取り直すと、アレももう少し淑やかさを養わなければいけないな、などとぼんやり考え、
「そういえば、奴も今回の催しに出たがっていたが………、本人も忘れているようだし、良いか」
酔狂で拾ってやった、家を出て行く宛のなかった姪っ子のことなど、放置することにした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「だーからに〜、ヌードリアンにチーズ星人が侵略したんなら、マスタード防衛省も乗り出すべきだと僕僕ちゃんは思ふのさん」
亞木姜示が大真面目な顔で言った。
「カップヌードルにマスタード入れて美味い訳あるか。それよりマヨネーズだろうが、マヨネーズ。どんな食品も入れただけで美味になる魔法のスパイス、俺は断然マヨネーズだ」
憑物も真顔で返した。亞木はぷひーん、と鼻を鳴らして反論する。
「ツッキーのマヨラースパイ大作戦は病みつきだにー。でもでも、マスタード少将の活躍もなっかなかに見逃してはならないロマンスなのさん!」
「例えば?」
「ピリッと痺れちゃうメロメロパーンチ」
「辛いのか甘いのかどっちかにしろよ」
「ヒハハ、メロンパンナちゃんは僕僕ちゃんの白い恋人だからに〜。アンコのヒーローには負けてられないのさん」
「要するに、マスタードは美味いからヌードルにも合うってことか」
「ヒハハハハ! さっすがツキツッキー、話が早ーいぜーい」
「だが譲らん」
「ハヒ?」
「いちマヨラーとしてお前の意見に賛同することはマヨネーズに対する冒涜だ。俺は断固戦い抜くと宣言しておこう」
「ヒッハハハ。のぞみちゃんも挑むところだぜい。とろで憑物ー?」
「何だ?」
「まだまだ真っ直ぐ?」
「あー…、後二分四十一秒したら左に直角に曲がれ。それから9m進むとS字カーブがあるから、その時にまた教える」
「りょっかーい。…あ、ワンモアプリーズ」
「今度は何だ?」
「ひしょっちーが文句ありげだよん」
会話のリレーが途切れ、憑物は後部座席に座る宰蓮寺氏乃を見た。宰蓮寺はマリアナ海溝よりも深く険しい顔つきで眼を閉じ、指で眼鏡のズレを直している。
憑物は宰蓮寺の無言の姿勢に首を傾げ、どうしたのか訊ねた。
「何だ氏乃、言いたいことがあるならしっかり声に出して言えよ。俺はいちいちお前の心理状況を言い当てるつもりはないからな」
「………言いたいことは、一つだけです。お二人の地球外言語に関しては、触れたくありませんので」
ふう、と溜め息を吐いて、意を決して宰蓮寺は聞いた。
「何故、わたくしが後ろの座席に座り、亞木姜示様が運転し、凪臣様が道案内をしているのでしょう」
「霧が出ているから」
憑物はにべもなく答えた。
窓の外を見れば、一面は真っ白に埋め尽くされて視界は最悪。街を離れて山間近くでこの霧が発生、引き返しましょうと宰蓮寺が提案すると憑物は亞木に運転しろと言い、見えない視界は俺が視て伝えると助手席に座って、
この状況が出来上がったのだった。
しかも三人が乗っているのは高級外車、構図的には宰蓮寺が車の所有者で金持ちに見えなくもなくて本人の焦燥感に拍車を掛けていた。
宰蓮寺は言う。
「この車は凪臣様のお父上の物であり、わたくしはその方の秘書兼執事をしているのであって、この席に身を置くというのは自殺にも等しいのですが」
「うん、後で親父に電話しといてやる。あんたが気に入ってる革の上に氏乃がふんぞり返ってたよーって」
「ヒハハハハ! 避暑秘書っち大ピーンチ」
「…………」
明日の自分に未来はないのだろうか、と鬱になる宰蓮寺だった。