06:工房:微温湯に慣れる前に
コトン、コトンと扉の向こうで音がする。その音を聞いて、沙月は寝惚けながら覚醒する。
窓から射す光は未だ低い位置だが、其れでも朝が来た事を報せる光だ。ヨイショと起きて、着替えの用意を始めた。
沙月に用意された部屋は、初めの部屋と違い必要最小限しか設備が無い。一応トイレと洗面所は有るが、其れだけだ。
然し浴室が無いと贅沢は言えない。無い家も多いし、元々魔導師団の寮に入れば、共同浴場の筈だったのだ。個室に浴場等無いと思った方が正しい。
ヴァルクラウトの寝室の隣に有る浴室を使っても良いと言われたが、其処に行くには執務室を通り、私室へ行き、寝室を経て浴室となる。流石に間借りしている身で其処まで図々しく出来ないと断ったら、赤い魔石を渡された。
この魔石は利用頻度の一番高い、火の魔法石である。水に入れるだけで設定した温度に温めてくれる。旅先などで重宝するし、こうして湯槽の無い場所でも、水さえ有ればお湯にしてくれる上、魔石を取り出すと瞬時、と言う訳にはいかないが、早い時間で元の温度に戻してくれる。
沙月は洗面所から水を出して盥に張ると、赤い魔石を一つ放り込む。途端に湯気が上がり、お湯となった其処に、タオルを浸して固く絞り身体を拭く。
頭を洗いたいが、シャンプーもコンディショナーも無いので、濡れタオルで拭くだけに留まる。其れでも結構さっぱりするので、キチンと洗うのは浴室を使わせて貰える時に、と決めている。
さっぱりした所で着替えると、少しばかりの私物を持って、沙月は扉を開いた。
「お早うございます」
「ああ、今日も早いな、タティアナ。もっとゆっくりしていても良いのだぞ?」
沙月が挨拶をすると、この部屋の主、ヴァルクラウトも挨拶を返した。
もっと寝ていても良いと言われても、部屋の主が既に起きて作業をして居るのだ。無視して寝ていられる程親しくも無いし、図太くも無い。
曖昧に誤魔化して、沙月はヴァルクラウトの為にお茶を淹れた。
従者の控室で過ごす様になって既に数日、すっかり生活パターンが出来上がっていた。
朝はヴァルクラウトが先に起き、何処かに――どうやら騎士団の訓練所に行って、身体を鍛えているらしい。素振りや走り込みなど、ごく基本的な事から、打ち合い迄していると後日聞かされた――出掛けている様で、戻る頃にその物音で沙月が起き出す。
着替えて挨拶をし、お茶を飲んでいる間にリリフロラが現れ、朝食の用意をする。
朝食は元々一人で摂る習慣だったそうで、朝は余り食べなかった沙月と、少し多目にした食事を分けあって食べている。
その後はヴァルクラウトは王太子として仕事を始め、沙月は控室に戻って隠し扉を使って隠し部屋へ行くと、出口でアイヒェが迎えに来ているので、彼と一緒に魔術師団へと出掛ける。
魔術師団に着くと、真っ先にウィロードの部屋へ行き、魔石を渡し空の魔石を受け取る。その後は初歩魔法の講義を受け、錬金講座も受ける。
毎日代わり映えしないが、少しずつ覚える魔法と文字に、手応えを感じていた。
今日は沙月の世界で言う土曜日、地竜曜日で、仕事も学校も基本、半日で終わる。
基本と言うのは、全てが一斉に休みになる訳では無いからで、職種によっては休みが無い事も有る。とは言え本当に休みが無いのでは無く、毎日半日は休みであるとか、十日に一辺、従業員が交代でと言うのが殆どだ。
昨日の内にウィロードからは午後は休みと言われていたので、空いた時間をどうしようかとお茶を飲みながら考える。
するとヴァルクラウトがチラリと沙月を見て、暫く考えてからこんな事を言う。
「タティアナ、今日の講義は休めるか?」
「はい。導師から今日は自習だと言われて、若し用事が有れば休んでも構わないと言われてます」
基礎魔法を教えてくれる魔導師は、地竜・光竜曜日は研究に充てているらしく、初めの週に言われたのだ。早く基礎魔法を覚えて、時間を取らせて下さい、と。休みの日まで研究に充てるとは、何て仕事熱心なんだろう、と思ったが、魔法使いとはそう言うものらしい。初めはキチンと講義をしてくれたが、二週目からは自習にすると言われていた。
沙月がそう言うと、ヴァルクラウトは「仕方無いな」と苦笑し、何故休みを確認したか説明した。
「其方が基礎魔法を覚えたと言うのに、此方の方が遅くなって済まない。工房の用意が出来たので、案内したいが良いか?」
「っ、はい! お願いします!!」
既に十日以上過ぎて、割合早目に基本をマスターした沙月は、今か今かとその連絡を待っていた。その工房の用意が出来たとなったら、用事が有っても取り消す。そんな勢いで返事をすると、ヴァルクラウトも立ち上がり外套を引っ掛ける。
「では出掛ける事にしよう。私が案内する」
「え? 殿下がそんなに簡単に出歩いて良いんですか? お仕事は?」
「今日明日は特に急ぎのもの以外は無いし、其れも終わらせた。私の個人資産の物件だ、他人には任せられぬ」
そう言うと、リリフロラにも出掛ける準備をする様に声を掛ける。そして先に魔術師団に魔石を渡しに行くので、普段着に着替えたら西門で待つ様に伝える。
どうやら昨日の内から予定していたらしく、今日の護衛はキーファーだ。然も目立たない様、騎士服では無く訓練着らしき服を既に着ていた。
彼をそのまま護衛として連れて行き、途中で会った騎士に王太子の部屋の留守を、誰かに任せる様に伝える。
初めて本来の扉から出た沙月は、廊下の広さや高さに思わず声が出かかる。隠し通路の狭くて暗い路と比べて、何て明るくて広いんだろう。ポカンとしたまま歩きだし、途中で小突かれる。
「その様な顔で歩くな。何事かと思われる」
「ハッ、そうですね。済みません」
慌てて表情を引き締め、ついて行く。
途中、何時もの場所で待っている筈のアイヒェを拾いに、廊下を進むと、突然ヴァルクラウトが舌打ちした。
何事かと見上げる沙月に、小声で伝える。
「不味いのに会った。良いか、喋るな。下を向いて私の話に合わせろ」
いきなりの命令にコクコクと頷くと、ヴァルクラウトは前方で御辞儀をして待ち構える人物に声を掛けた。
「―――此れは、クインス侯爵令嬢。早朝から登城とは、何方かと約束を?」
不味い人物と会ってしまった、と言うのが真っ先に考えた事だ。
彼女――シドニア・オブロンガ=クインス侯爵令嬢――は、ヴァルクラウトの筆頭婚約者候補であり、本人も其れを公言して憚らない。ヴァルクラウト自身は未だ結婚する気が無く、適齢期の令嬢を待たせるつもりも無い為、やんわりと断っているのだが、気付いていないのか無視しているのか、隙有らば近寄り秋波を送る。
いい加減鬱陶しい、と思うヴァルクラウトだが、微塵もそんな事は感じさせず、慇懃に相手をしているのだが、其れが更に彼女を擦寄らせる結果となっている。
沙月を連れて歩いているからには、なるべく目立たない様にと思ったのだが、彼女の甲高い声は下手をすると目を引く。綺麗に御辞儀をされて、此のまま声も掛けずに通り過ぎるのは不味い。早目に話を切り上げ様と、ヴァルクラウトは自分から声を掛けた。
付添人を探すと、少し後ろに彼女の親戚なのか、良く似た婦人が親しげに初老の男性と話しているのが見えた。確か彼は侯爵家の寄子だった。二人とも話に夢中で此方に気付いていない。普通なら問題有る付添人の行動だが、今回は有り難い。注目されずに事が済ませられる。
ヴァルクラウトの言葉に、シドニアはゆっくりと顔を上げ微笑んだ。
「お早う御座います、王太子殿下。約束は御座いませんが、殿下が早朝に鍛練をなされると伺いまして、一目その凛々しいお姿を拝見させて頂きたく、はしたなくとも参りました事、お許し下さいませ」
「クインス侯爵令嬢は、相変わらず冗談がお好きな様だ。私の訓練等、見てもむさ苦しいだけ。朝の貴重な時間を私等に取らなくとも宜しかろう」
「まぁ、そんな! 殿下と拝謁出来る以上に貴重な時間など御座いませんわ! …シドニアと呼んで頂けませんの?」
親しい友人や恋人でも無ければ、目上の者を名前で呼ぶのは、無作法と言われている貴族社会。何故名前を呼ばなければならないのか、意味が判らない。沙月は別だ。彼女は貴族では無く異世界人で、公では無いが自分が後見している少女だ。問題は無い。
遠回しに朝から迷惑だと伝えてみたものの、全く伝わっていない。それどころか少しずつ近付き、媚びた声で話し掛けられ、ヴァルクラウトの忍耐が切れそうになる。
―――怒鳴り付けたい、香水の臭いが忌々しい。
そう思いつつも笑顔を張り付け、そっと距離を置く。
「クインス侯爵令嬢、私に会いに来たと言われても、生憎と連絡不備だったのか、今朝の予定には無かったが……? まさか面会予約も取らず、と言う事も無かろう?」
「え、ええ。何か行き違いが有った様ですわ。おかしいですわね」
王族と面会するのに先触れすらしないのか、とチクリと嫌みを言うと、流石に気が付いたのか目を泳がせる。其れに助けられ、更に彼女と距離を置き言い放つ。
「今日は此れから筆頭魔導師長と重要な話し合いがある。一日忙がしい身なので、此れで失礼する」
嘘でも何でも無いので、堂々と言って先を急ごうとすると、諦め悪く「お待ち下さい」と縋られる。
しつこいな、と思いつつも振り返ると、険しい顔で沙月を見ていた。
「その娘は―――侍女では有りませんわね? 何処の御令嬢か、紹介しては頂けないのでしょうか?」
何故紹介する必要が有る? 無礼にも程が有るな。
そう言いたい気持ちを抑え、ヴァルクラウトは事も無げに言った。
「彼女は筆頭魔導師長からの使いでね。火急速やかに、と言う伝言を持って来ていて急いでいる。―――もう良いなら、失礼する」
そう言い残して立ち去ると、暫くして―――魔術師団の入口近くに来て沙月が振り替えって呟いた。
「今のお姫様……美人だったけど、何か厭な感じですね……」
「其方も思うか。奇遇だな、私もそう思う」
「え、殿下は奇遇も何も、かなり嫌そうだったけど? 其れに気付かないで話し続けるお姫様すごーいって思ってましたケド!」
正直過ぎる感想に、思わず噴き出してしまう。見ると後ろから付いて来ていたキーファーも、顔を背けて肩を揺らしていた。
一先ず無事にシドニアから逃げられた、とヴァルクラウトは安心してウィロードの部屋を訪ねた。
部屋の前で、拾い損ねたアイヒェの事を思い出し、ウィロードと一緒なら護衛は心配しなくても良いと伝え、キーファーに迎えに行かせる。
直ぐに戻ります、と言って城に戻る彼を見送り、部屋に入ると部屋の中が酷い有り様だった。
「どうした、ウィル。其方らしくも無い、派手に散らかして?」
「あぁ、殿下。…いえ、昨夜殿下から工房が用意出来たと聞かされたので、仕事を入れない様にしたのですが……魔術理論が突然浮かびまして」
「まさか寝ずにいたのか?」
「いえいえ、朝になる前には寝ましたよ。ただ片付けなかっただけです」
そう言ったウィロードに、疲れも眠そうな気配も無い。二~三時間も眠れば充分だと言う彼にとっては、何時もの事なのだろう。
片付けましょう、とウィロードが呪文を唱えると、フワリと空気が揺れ、風魔法が発動する。床に散乱していた紙が空中に持ち上げられ、一枚、また一枚と集められ重ねられ、彼の手に収まっていく。
積み上げられていた本は書棚の中に、巻物も所定の場所に。見る見る部屋が片付いた。
ポカンと見入っていた沙月は、散乱していた全ての物が片付いた所で拍手をした。
「凄い! 先生、凄いです!! 今の、風魔法ですよね?」
「そうだね。魔法の原理を知り、応用を効かせればこんな事も出来る。タティアナには未だ早いけどね」
早く覚えたいと思ったが、先に言われてしまいガッカリする。
沙月は基本を覚えたばかり、初心者も良い所なので、今は魔力の調整の仕方を学んでいる。覚えたばかりで微調整の利かない魔法は、攻撃魔法なら良いだろうが、今の様な細かい作業、紙を破らない様に一枚一枚持ち上げ、揃えて動かすのは難しい。修業有るのみである。
部屋が片付いた所で何時もの様に魔石を渡す。
「うん、昨日よりも色が濃い。魔力が貯まっている証拠だね。今度は二日空けて見てみようか? 丁度明日は光竜曜日で、魔石を渡す以外の予定は無いだろう?」
「はい。じゃあ明後日の朝、先生に渡せば良いんですね」
沙月の言葉にウィロードが頷くが、聞いていたヴァルクラウトが質問を投げる。
「先程も思ったが、タティアナはウィロードを『先生』と呼んでいるのか?」
確か名前で呼んでも構わないと言われた筈だと思いそう訊くと、沙月は「魔法を教えてくれる先生なので、そう呼んでます」と答えた。
ウィロードには気にしなくても良いと言われたが、目上の者は敬えと育てられ、其処が気になるのは仕方の無い事だ。さん付けも違和感があると思っていたら、魔法を教えてくれると言う。ならやはり此処は先生でしょう、と言うのが沙月の持論である。
そう言う沙月の一歩引いた態度が、先程のシドニアとは違い好ましく思え、ヴァルクラウトは微笑んだ。
そして思い出した様に今日の目的をウィロードに話す。午後では無く午前中から出掛けると聞いて、呆れたものの予想していた事だ。
其れなら、とウィロードも工房に行く事になった。
西の城門で待ち合わせ、という事で其処に向かうと、第一の関門が控えていた。
門番に因る確認だ。
通常は何も困る事は無い。身分証を出せば良いだけである。然し沙月は身分証を未だ持っていなかった。
どうするのかと見ていると、何食わぬ顔でウィロードが門番に話し掛けた。
「此れから出掛けるんだが、この子、暫く前の嵐の時に来た子でね。確か当日の記録は騒ぎのどさくさで一部無くなっていたよね? 大丈夫かな?」
「お待ち下さい、確かにあの日は大混乱でしたので……お名前は?」
「タティアナ・サトゥーキ」
「…記録に有りませんね。それ以降はずっと此方に?」
ウィロードと門番のやり取りをぼうっと見ている沙月だが、気が付けば他の人間は既に城門を出て、二人を待つ態勢だ。沙月達の後ろに有った筈の列は、何時の間にか反対側の門で処理されている。
どうやら入場の記録が無い事を誤魔化す為のやり取りの様だが、記録が無い云々は若しかして、と思ってしまう。だって偶々沙月が召喚された日の記録が不確かなんて、余りにも都合が良過ぎる。
やり取りの結果、沙月の入場が記録に無いのは不問となった。
やっと出られる、と思ったが、身分証がないままだ。どうするのかと思うと、懐から何やら取り出し沙月に渡す。
「新しい身分証だよ。前のと違うのは、紙では無くて特殊鋼で出来ている事。魔術師団所属にするかどうかは未だ此れからだから、記録させていない、良いね?」
「以前の身分証は仮発行でしたか」
「私の領地の子でね、魔術師に成れればと王都まで来てくれたのだよ」
どうもウィロードは沙月の身分証が新しい事にも、理由を付けてくれたらしい。門番からの質問に、流れる様に説明する。訳も判らず受け取ったが、此処は「はい」と言っておくべきだろう。
無事でも無いが城門を出ると、苦笑混じりに迎えられた。
「大分上手く誤魔化した様だが、記録の改竄は頂けんな」
「改竄では無く事故ですよ。偶々大雨が記録簿に吹き込んで、文字を滲ませて読めなくなった、其れだけです」
悪びれもせず言い退けるウィロードに、ヴァルクラウトも肩を竦めた。
一方、初めて城の外に出た沙月は、キョロキョロと辺りを見回し、感嘆の溜め息を吐いた。
城と言うだけ有って大きい。面白い事に、城壁は然程高く無く、沙月の感覚だと凡そ2メートル。その代わりに幅5メートル程の堀が有り、門から橋が渡されている。
跳ね橋で正門以外は夜になると閉じられると説明が入る。
ぐるりと首を廻らせると、堅牢な石造りの城の両側に、石と木で造られた魔術師団と騎士団の建物。各々訓練所も併設されて居るので、かなり巨大だ。城の北裏には、馬場も有るとかでその広さに想像が追い付かない。
そして正門から続く王都の道は薄い石畳で出来ており、美しい幾何学模様の道が放射状に延びていた。石が薄く加工されているので、余り凸凹が無く歩きやすい。行き交う馬車も軽い音を立てて走っていた。
道のずっと先に、高い塀が見える。多分あれが王都を囲む城壁で、此処が城塞都市なのだと知れる。
「あの高い城壁は、何から街を守っているんですか?」
「魔獣だ。瘴気と呼ばれる魔素に侵された獣が、魔獣となって街を襲う。その防壁だ」
「退治はしないんですか?」
「定期的にしてはいるが、最近は追い付かないのが現状だ。だがやっと冒険者ギルドも活発に活動する様になった。少しはマシになるだろう」
移動しながらの話の上、耳慣れない言葉が続くので、付いていくのがやっとだ。
沙月は今ほど自分が乱読するタイプで良かったと思った事は無い。耳慣れはしないが、見覚えはある。
冒険者ギルドだの瘴気だの、ソレ系の小説やゲームで腐る程出て来た単語だ。話の様子からして、沙月の思うイメージと同じと思って良いだろう。
危険な事はしたく無いが、少しだけ。見てみたいと思うのは、野次馬が過ぎるかな? と思う。
暫く歩き続け、合間合間に街の様子を説明される。
真っ直ぐに城の正門から城壁の外門に続く大通りと、城に近い場所から商店街が連なり、貴族以外の富裕層はこの近辺に集まる。其れから外側に向かうに連れ、職人街や住宅街が有り、最端に貴族の居住区と、野菜専門の農家が建ち並ぶ。
貴族の居住区が最端なのは、広い邸宅を有するのに最適なのと、馬車が使えるので交通に不便が無い事。そして万が一の時の防衛となる為である。
農家については、普通野菜や果物、穀類は各荘園で作られるが、新鮮さが売りの野菜だけは王都の中で作られる。道具袋と言う魔導具も有るが、容量が決められている上に高価な為、運ぶよりも作ってしまう方が割りが良いのだ。
―――そんな説明が続く中、目的地に着いたのか歩みが止まる。
「タティアナ、此処が其方の工房となる。中古で悪いが、良い物件だと思うが、どうだ?」
ヴァルクラウトが指したのは、職人街に程近い、少しだけ脇に逸れた場所に有る小さな一軒家だった。
通りに面して出入口と、嵌め硝子の陳列棚が有り、前の住人が商売をしていたのだな、と想像がつく。其処から室内を覗くが、布が掛かっているので良く判らない。
小振りの家とその周辺は、ヨーロッパの小国の古い街並みの様で、中々雰囲気が良い。風に乗って鎚の音と子供の声と、パンの香り、街に住む人々の営みが感じられた。
「中に入れますか?」
「勿論だ」
鍵を受け取り錠を外すと、軋む音と共に扉が開く。黴臭いかと思いきや、意外と空気は澱んでいない。誰か埃を払う等、管理人が居たのかも知れない。
窓から見えた布をチラリと捲る。すると目に飛び込んだのは、大窯と鍋。他も気になり、次々と布を捲ると、出てくるのは硝子器具の数々。
「これって……」
ポカンと口を空けて目の前の道具類を眺めていると、クツクツと笑い声が聞こえ、振り返ると、ヴァルクラウトとウィロードが悪戯っぽい笑顔で沙月を見ていた。
「この家の元の住人も錬金術師でな。年老いてのんびりしたいと言って、二年ほど前に故郷に戻ったそうだ」
その時、家を手放す先を魔術師協会にして、故郷に持ち帰れる道具以外を全て置いて行った。後進の錬金術師が使える様にと言う心遣いだ。
然し場所が少し悪い上に、家も新人が使うには大きく、家賃も払えそうに無い。かと言って中堅以上の錬金術師は、既に自分の工房を持っている。場所の悪さが同じなら、愛着の有る自分の工房と取り替えようとは思わないだろう。
そんな使い辛い物件をもて余した魔術師協会は、一年を待たず王立魔術師団に引き取りを打診した。だがその時は錬金術師を目指す魔法使いも居なかったし、余計な不動産を持つ余裕も無かったので断った。
…と、そんな事が有ったのを思い出し、駄目元で訊ねてみた所、未だ他所に売っていなかったので、購入した、と言う訳だ。
「元が売れ残りだ。買値に色が付いた程度で売れれば儲けもの、と思ったんだろう。思いがけず安く買えた」
そう言うヴァルクラウトはゆったりと椅子に座り、リリフロラが淹れた香茶を飲んで、優雅この上ない。
沙月も落ち着いて香茶を飲んでいたが、心中は複雑だった。
何せ説明を聞きつつ家の探検を済ませ、さて何処から掃除しようか と悩んでいた所を、ウィロードが呪文一つ唱えただけで埃も無くなり、床が磨かれた様にピカピカになってしまった。然もポカンとしている間に数少ない私物を何時の間にかリリフロラが持ち込み、全てキチンと仕舞ってくれた。沙月がした事と言えば、寝室の場所を決めた事位だ。新居の掃除をしながら新生活に慣れようと思っていたのに、出端を挫かれた気がする。
「あのお掃除の魔法って、どうやるんですか?」
「タティアナが四精霊の魔法が使える様になれば教えるよ」
笑顔でそう言うウィロードに、頑張って覚えます! と答えた沙月だが、さて何時になる事かな、と思われていたのは知らなくて良かっただろう。何せ沙月が考えている四精霊と、ウィロードが言う四精霊は違う。単純に火水風地の四属性の魔法が使える様になれば良いのだろうと沙月は考えていたが、違うのだ。属性では無く、精霊そのものの存在を感じられねば、使う事は出来ない。
四精霊については未だ教えていないので、その事を教えた時にどんな顔をする事か、と楽しみにしてしまうウィロードだった。
「タティアナ、どうする? もう其方の私物は持ち込んであるから、何時でも此処に住み込める。今日から工房で住むか、其れとも今日の所は城に戻るか?」
ヴァルクラウトの問いに、沙月は少し考えて、今日から此処に、と答えた。その返事を聞いて頷くと、ヴァルクラウトは沙月に袋を渡す。
「此れは?」
持つと見掛けよりもズシリと重い。まさかと思って恐る恐る袋を開けると、中から金貨銀貨と硬貨が出て来た。
沙月が中身を確かめたのを確認し、ヴァルクラウトは言った。
「其れは当座の生活費だ。其方は自立心逞しい様だが、誤って召喚された被害者だと言う事を忘れるな」
「忘れているつもりは無いんですけど……」
小さく反論すると、溜め息を吐かれる。
「良いか、帰れるかどうか判らぬ不確かな物に巻き込まれたのだ、其方はもう少し図々しくとも良い。遊んで暮らしても構わない所を、魔力の提供を求め、扱き使っているのは此方なのだぞ? せめて金くらいは出させろ」
「え、でも其れは私が勝手に、働いていないと落ち着かないってだけで……」
「良いから従え。此れは其方への迷惑料だ、返す必要は無い。若し何か返したいと思うのなら、そうだな―――錬金術で何か面白い物でも作ってくれ」
「ソレで良いなら……」
余り納得はしていないが、了承する。
確かにヴァルクラウトの言う通り、被害者の筈の沙月が働くとか考えられないかも知れないが、悪いと思うなら好きにさせて欲しいと言うのが本音だ。沙月としては憧れていた錬金術師になれるのだ、この機会を逃す筈が無い。
ヴァルクラウトから渡されたのは当座の生活資金で、此れで生活必需品や食事など買えと言う事らしい。初めから錬金術で稼げるとは思うな、と言うのはウィロードの弁である。
沙月が後見されるのが約一年なので、その時までは毎月初めの日に生活費を渡すと言う。これは決定事項で、国費では無くヴァルクラウトの個人資産から出される。
「前も聞いたけど、個人資産て何ですか?」
「そのまま私の個人的な財産だ」
王太子でもあり、シルワ侯爵でも有るヴァルクラウトが動かせるのは、個人的に持つ荘園からの収入からになる。小作人に委託して、小麦など備蓄出来る作物を、必要に応じて売買して得た収入なので、気にする事は無いとヴァルクラウトは笑う。
一年後、沙月が戻れない状況になったら、その時はまた補償を考えるそうだ。
工房に住む事になれば、今までと違う生活パターンになる。
魔石を渡すのは変わらないとして、錬金術師として修業しつつ仕事もするとなると、毎日魔術師団に通うのは難しい。基礎の魔法は覚えた事だし、錬金術を教える時に序でに教えるから週に一、二回ウィロードの部屋に顔を出す様に言われる。
「アイヒェくんの手伝いはどうしよう?」
「未だ解析段階なので、大丈夫ですよ。タティアナさんが魔術師団に来てくれた時に、訪ねて下されば進行状況をお知らせします」
其れなら良いか、と沙月も頷く。元々暇潰しの意味合いの方が強いので、下手をするともうアイヒェの手伝いは無いかな、と思う。其れなら其れで話し相手にでもなれば良いかと考える。
リリフロラは、沙月付きの侍女になった途端、用済みではあんまりだろう、と言う事で毎日では無いが通いで沙月の世話をする事になった。
ただ此れの本当の目的は、様子を見に来る事で沙月の生活状況を確認する為だ。左右魔法使いと言うのは、自己の生活に無頓着になりがちだ。ウィロード然りアイヒェ然り。見に来る事で沙月が錬金に没頭し過ぎて居ないか、確認する必要が有る。
リリフロラ自身は願ってもない話だ。短い間だが沙月に世話を焼くのは楽しかったし、其れが続けられるのなら否やは無い。ただ本来の侍女の仕事とは違うし、そちらの方を疎かにする訳にもいかないので、偶の通いで丁度良いだろう。
「キーファー、其方は私の護衛に就いて居ない時は街の警邏に参加しているだろう。その時タティアナの様子を見てやってくれ」
「御意」
短く返事をするキーファーに頷くと、ヴァルクラウトは沙月に話し掛けた。
「さて。今までは私の部屋から魔術師団に通っていたので、色々と話す機会も有ったが、此れからはそんな機会もそう有るまい」
確かに王太子の部屋に、用も無く出入りする訳にもいかないだろう。
……そう思っていたのだが。
「私が時々街に出た折にでも、寄らせて貰う。その時其方なりの街の様子を報せてくれ、頼むぞ」
「………………はい?」
「そうか、宜しくな」
いやいやいやいや、そうじゃないでしょ。
沙月の返事を了承と受け取ったヴァルクラウトに、思わず心の中で突っ込んだ。
結局その案は有耶無耶の内に了承させられ、沙月の新生活が始まる事となった。
どうやらヴァルクラウトは今までも頻繁に街に出ていたらしく、その事をウィロードが苦笑いをして教えてくれた。
どうもお忍びで見て回るだけなら良いのだが、住民に話を聞こうとすると、ヴァルクラウトの持つ雰囲気から高位貴族――実は王族――とバレてしまうらしい。話し掛けても逃げるか、貴族にとって都合の良い話しか聞かされず、率直な意見が聞けないと不満だったそうだ。
だからと言って、全くの新人錬金術師の工房に、王太子殿下と筆頭魔導師長と、近衛騎士と王宮侍女に見習い魔術師が足繁く通うって何なんだ、と一人になってから沙月が頭を抱えたのは言うまでも無い。